2897.徳(26) 大徳は閑を踰えず | 論語ブログ

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徳(26) 大徳は閑を踰えず

 

子夏曰わく、大徳は閑(のり)を踰(こ)えず。

小徳は出入(しゅつにゅう)するも可なり。

   子張第十九   仮名論語2963行目です。

   伊與田覺先生の解釈です。

子夏が言った。「孝悌などの大徳は、軌道をはずれてはいけない。坐作進退などの小徳は、多少の出入があっても、あまりとがむべきではなかろう」

 

「大徳は閑を踰えず」・・・人格者の大徳は規範を超えることはありません。「小徳は出入するも可なり」・・・その規範について、人格者に至ろうとする途中の未熟な者の小徳は多少の出入りは差し支えないでしょう。と子夏は言っています。

道徳には大きな徳と小さな徳があります。大きな徳については厳しく守らなければいけませんが、小さな徳については多少の逸脱は許される。しかし、この寛容さは他人に対する事であって、自分自身に対しては日常的な礼節等の小徳であっても自分を律してちゃんと守つていかなければならない、という事を忘れてはいけません。

「大徳」は人間が人間であるための基本的な道徳であり、三綱五常といい、三綱は父子の親、君臣の義、夫婦の別をいい、五常とは仁・義・礼・知・信が相当します。「小徳」は社会生活を円滑にするための日常的な応対進退のような小さな礼節のことをいいます。

道徳に軽重・濃淡をつけたところが実際的で面白いですね。世間には「小徳」について説教しながら自分自信は「大徳」を損ねている人物がいます。子夏はこうした人物を念頭において、「大徳は閑を踰えず。小徳は出入するも可なり」と、こう言ったのでしょう。

だからと言って、子夏は身近な問題もおろそかにはしませんでした。日常のマナーについて、後進の若者達を厳しく躾ていました。

しかし、若き日の子夏の性質は大らかではなく、小徳で小さなことに気が付きました。だから孔子は、かつて「君子の儒となれ。小人の儒となることなかれ」(仮名論語72頁1行目)と諭しています。子夏が莒父(きょほ)の宰相となり、政治について質問したとき、「小利を見ることなかれ」(仮名論語19頁1行目)と孔子は答えています。子夏は孔子より四十四歳も若く、その頃は未熟だったが、老成してからは「子夏は小道を慎しみ、ついに大徳を知る」)と称賛されています。

この章は子夏が老成してからの言葉であり、世の人が他人に厳しい要求するのを見て、こう言ったのです。孔子の死後、その教えは何人かの弟子に引き継がれて伝えられましたが、中には表面的な礼式が教えと考える者もいたようです。そういった浅い思考に対して、子夏が忠告的に言ったものだと思われます。

基本はキチンと押えておく。その上で、末梢の問題は二義的とはしながらも、目配りは忘れていませんでした。これは、仕事の仕方についても適用できそうな原則ですね。

冠位十二階というのをご存知ですか。冠位十二階は、603年聖徳太子が制定したとされる制度です。冠位十二階制定の目的は、『日本書紀』に記載はなりませんが、家柄にこだわらず優秀な人材を採用するためと外交使節に然るべき肩書を与えるためと考えられています。以前は、姓(かばね)により官職が世襲されていたのに対し、冠位は個人に与えられ、世襲されないという特徴がありました。

冠位の名称は上から大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智という冠位が制定されました。冠位の名称のうち、徳を除いた五つは儒教の徳目である五常です。五常は仁義礼智信と並べるのが普通ですが、冠位十二階は仁礼信義智という見慣れない順序をとっています。これは五行思想に対応したもののようです。

徳については、「聖徳太子伝暦」で、「徳」は「仁」以下の五つを合わせたものだから最上としたと説かれていて、これが通説になっています。

そして「大徳」と「小徳」に分けられているのも面白いですね。ただし、子夏が言う「大徳」「小徳」とは別と考えられます。

五行思想は中国の思想的産物ですが、仁礼信義智の順序で五常を並べて地位の表示にし、「徳」をその上に置くという発想については、日本独自のものとする説が伝統的な通説となっています。冠位十二階を立案した日本人の創案と考え、ことさら順序を変え、信と礼を上にしたところに十七条憲法の思想、ひいては聖徳太子の思想が反映しているのでしょう。その日本創案説の論拠には、中国の文献には徳・仁・礼・信・義・智の配列が見いだせないからです。

子夏はその後魏の文侯に招かれ、その師となっています。李克・呉起・西門豹はその学生です。「礼記」によると、自分の子供が死亡した際にあまりの悲しみのため失明しました。それを聞き、同門である曽子が子夏を訪ね、子夏が「なぜ、時分だけこのような不幸にあわなければならないのか」と嘆くと、「ずっと妻子を放っておいて何事か」と諭した。それに対し「我、過てり」と嘆いた。「史記」儒林列伝に孔子の死後、4派に分かれて子夏は西河(西河は「史記」仲尼弟子列伝によるところの衛の国内で現在では河南省安陽市付近)におり、田子方、段干木、禽滑釐らが子夏について教わり、後に王の指導係となりました。今文経学では六経伝承の淵源を子夏に求めています。子夏の学風からは後の荀子へと受け継がれていきます。

 

つづく

                                                                                             宮 武 清 寛

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