2895.徳(24) 道に聴きて塗に説くは、徳を棄つるなり | 論語ブログ

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徳(24) 道に聴きて塗に説くは、徳を棄つるなり

 

子曰わく、道に聴きて塗(みち)に説くは、徳を棄つるなり。

 陽貨第十七    仮名論語2706行目です。

 伊與田覺先生の解釈です。

先師が言われた。「道端でよいことを聴いて、さっそくその聞きかじりを途中で話すのは、徳を棄てるようなものだ」

 

「道に聴きて塗(みち)に説くは、徳を棄つるなり」・・・道端でよいことを聴いて、さっそくその聞きかじりを途中で話すのは、徳を棄てるようなものだ。

今そこで聞いてきた教えを、すぐ他人に向かって受け売りする。これでは、せっかく教えられた徳をすぐ捨ててしまうようなもので、自分の身につかないのです。

この言葉は、元々は「徳」を本当に自分の身に付けよという孔子の教えでしたが、言い方が面白いので、広く聞きかじったことを受け売りする。事を「道聴塗説(どうちょうとせつ)」というようになりました。

情報、特に知識は、ジックリと自分の頭にインプットし、自分のものにしてからアウトプットするようにしたいものです。世の中のテンポが早いため、そんな事をしていると間に合わない場合もあるのでしょうが、「道聴塗説」に慣れてしまい、そればかりやっていると、思いがけず足をすくわれて失敗することがあります。

頭は、情報が耳から入って口から出るまでに通過するだけの通路ではなく、そこで自分の考えを入れて練るための機関だという事を忘れないようにしましょう。

「道聴塗説」この諺は、人の言葉をすぐ鵜呑みにして、まるで自分の考えのようにすぐ他人に説く。事を言い、曽子は次のような事を言っています。「習わざるを伝えしか」と、自分を反省する要素の一つとしています。

曽子曰わく、吾日に我が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、

朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを傳うるか。

   学而第一   仮名論語26行目です。

   伊與田覺先生の解釈です。

曽先生が言われた。「私は毎日、自分をたびたび省みて、よくないことは省いておる。人  の為を思うて、真心からやったかどうか。友達と交わってうそ偽りはなかったか。まだ習得しないことを教えるようなことはなかったか」

また、荀子も次のように言っています。

小人の学や、耳より入りて口より出づ、口耳(こうじ)の間は、則ち四寸のみ。なんぞ以って七尺の軀(からだ)を美(かざ)るに足らんや。

   荀子  勧学篇

小人の学問は、耳で聞いたことをすぐに口から出してしまう。耳と口の間は、わずか四寸しかない。それでどうして七尺もある体にゆきわたされることができるのか。

つまらぬ人の学問は、はじめは君子と同様に耳から入ってもすぐ口に出して人に教える。耳と口との間はたった四寸しかない。四寸ばかりの所を学問が通過しただけでは、どうしてそれで七尺もの身体を美しく立派なものにできようか。と、荀子は述べています。このような聞きかじりの学問を「口耳の学」といいます。

「え?これって本当なの?」その情報が真実なのか、それを基に判断していいか迷う情報が今の社会には溢れ、近年「フェイクニュース」が大きな社会問題となってきています。たとえば、新型コロナウイルスに関連して「大きく息を吸って10秒間息を止められたらコロナには感染していない」「トイレットペーパーがなくなる」「ワクチンを接種すると不妊化する」といったデマや誤情報が流れるなど、私たちの身近な生活にも影響を与え始めました。インターネットの発展に伴って、SNSやメッセンジャーアプリなどコミュニケーションツールが多様化し、不確かな情報やデマ、意図的に作られた偽情報などが直接手元に届くようになっています。

個人が情報を発信できるようになった現代では、自分が「道聴塗説」をしてしまう可能性も高まっています。私たちには日常的に触れている情報の信頼性が問われ始めているのです。伝えられた人はフェイクニュースが正しい事を前提に話をしたり、行動をしたりするので、多くの人に広めてしまいます。自分では相手の事を思って行動しても迷惑をかけてしまう事になります。

フェイクニュースを作成するメディアにも原因がありますが、一番影響力を持つのがSNSユーザーです。拡散をする人の中には気付いている人もいるのでしょうが、「面白いフェイクニュースじゃん」と思い拡散する人もいることでしょう。拡散の条件は人それぞれですから自分でフェイクニュースかどうか判断する事が大事です。

フェイクニュースは大きな影響力をもっています。間違った情報をもとに動く世界の危うさがわかります。ファクトチェックを専門家にだけに任すのではなく、自分自身の正しい判断でフェイクニュースを見抜き、また、フェイクニュースを自分自身で拡散しないようにしないといけませんね。

「道聴塗説」は、人から聞いた話しを理解していないにも関わらず、話すことは多くの場合において良い印象を持たれません。それは、話しを理解していないため説明する内容が間違っていたり、真実ではなく嘘であったりすることがあるからです。道聴塗説は、あまり良い印象をもたれない行為でもあるので気をつけることが大切ですね。

 

つづく

                                                                                                宮 武 清 寛

                                                                                                  論語普及会

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