2889.徳(18)其の徳を稱するなり | 論語ブログ

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徳(18)其の徳を稱するなり

 

子曰わく、驥(き)は其の力を稱(しょう)せず、其の徳を稱するなり。

   憲問第十四 仮名論語2187行目です。

   伊與田先生の解釈です。

先師が言われた。「名馬は、単にその走力のみをほめるのではなく、その徳(性質のよさ)の方をほめるのだ」

 

「其の徳を稱するなり」・・・その徳の方をほめる。ここにも「徳」がでてきます。

「驥(き)は其の力を稱(しょう)せず」・・・驥は一日に千里を行く駿馬(名馬)の事です。驚異的な脚力とスタミナを持ちあわせていました。

中国で昔驥北の地が名馬を産したので、驥と言うようになったものと思います。丁度我が国の東北の南部から名馬を産し、南部馬と言へば名馬の総称となったのと同様ですね。

名馬の驥は、その速力や体力を褒めているわけではありません。その節度ある風格を褒めているのです。駿馬は、むろん能力をもっています。しかし称賛されるのは、その能力よりも、より多く馬としての道徳です。訓練と調教によって鍛えあげられた馬のことを言うのです。

主人(乗り手)の意志に従い、より速く、より遠くまで走ろうとする性質のよさこそ、本当に称賛されるべきなのでしょう。

どんなに他よりすぐれた能力を持っていても、ただ持っているだけではなんの意味もありません。中国では、「驥も櫪(れき)に伏す」といえば、すぐれた名馬も厩(うまや)につながれっぱなしでは何もできないことから、才能のある者が世に認められず、力を発揮できずにいることをさします。また、「驥足(きそく)を展(の)ばす」とは、優秀な素質を持っている人が、その才能を存分に伸ばして世に出ることをさします。

名馬というのは、その血統だけを言うのではありません。調教の如何によって、名馬にもなれば駄馬にもなります。馬でさえそうなのだから、人間ならば尚更のこと、調教・鍛錬の如何によってどうにでもなるものだ。ということでしょう。

「其の徳を稱するなり」・・・すぐれた才能は、人のため、世の中の為に役立ててこそ意味があるのです。人間もそれと同じ事です。それは言うまでもありません。

人間の価値は、どんなにすぐれた才能よりも、その徳にこそあるのです。

人が功を立て業を成すのは、才能の力によるものですが、君子の貴ぶ所はその才のみではなくて徳にあります。才を無用とは言いませんが、徳のない者は最終的にはその才能の用い方を誤るのです。

そこで馬を例に引いて、力を称せずして徳を称すと言ったのです。

今日の政治界にも実業界にも、手腕、才能があって徳のない者が多く、遂にその用を誤り、国家社会に害毒を流すような事になるのです。故に人は手腕、才能のみ重んぜず、徳を養うことを忘れてはならないのです。

何の記録もありませんが、この章は子路が孔子を懲らしめてやろうと意気込んで孔家に押しかけて来た時に、孔子が子路に向かって発した言葉ではないでしょうか?「・・・其の徳を称するなり」の後に、「況於人乎・況(いわ)んや人に於ておや」という文言があったのではないかと思いますが、伝承の途中で失われてしまったのではないのか、どうもそんな気がします。

あったと仮定して解釈してみると、「名馬というのはその血統だけを云うのではない。調教の如何によって、名馬にもなれば駄馬にもなる。馬でさえそうなのだから、ましてや人間ならば尚更のこと、調教の如何によってどうにでもなるものだ!」と。

人格の陶冶を馬の調教に喩えたものであるのでしょう。

昨今周囲を見渡してみると、政治界にも実業界にも、手腕、才能があって徳のないものが多く見受けられます。大言壮語を吐き権威を乱用し遂にその用を誤り、国家社会に害毒を流すようなことを下品に恥ずかしげもなく行う。

皆さんどう思いますか、人は手腕、才能のみ重んぜず、徳を養ふことを忘れてはなりません。力が称賛されるのではなく、その気品の高さが称賛されるのです。

 

つづく

                                                                                            宮 武 清 寛

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