2881.徳(10)周の徳は、其れ至徳と謂うべきのみ | 論語ブログ

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徳(10)周の徳は、其れ至徳と謂うべきのみ

 

舜、臣五人有り、而して天下治まる。武王曰わく、予に亂神十人有り。

孔子曰わく、才難(かた)しと、其れ然(しか)らずや。

   唐虞(とうぐ)の際、斯(ここ)に於て盛(さかん)と為す。

   婦人有り。九人のみ。天下を三分して其の二を有ち、以て殷に服事す。

   周の徳は、其れ至徳と謂うべきのみ。

泰伯第八 仮名論語1076行目です。

伊與田先生の解釈です。

舜の優れた臣に、禹(う)、稷(しょく)、契(せつ)、皋陶(こうよう)、伯益(はくえき)の五人がおって天下は良く治まった。武王(周)が「自分には国を治める優れた臣が十人おる」と言われた。

それに関連して先師が言われた。「真に有能な臣を求めることはむずかしいというが、まことにそうだなあ。堯舜時代以降は、周が最も人材に富んだ時代ではあるが、それでも十人に過ぎず、しかもその中の一人は婦人であるから、男子の賢臣は九人のみであった。

    文王(西伯)は天下を三分してその二を保有しながら、なお殷の臣として服従した。その時代これらの臣はすでにいたのであるから周の文王の徳は最上というべきである」

   *唐虞 堯は陶唐氏 舜は有虞氏

   *婦人 母(文王の后)太姒(たいじ)

 

「周の徳は、其れ至徳と謂うべきのみ」・・・周の徳は最上というべきである。この章の末句に「周の徳」と記されていますが、まずは、最初の部分から見てみましょう。

「舜、臣五人有り、而して天下治まる」・・・舜には、五人の立派な臣があって天下は治まった。ということです。「論語」には書かれていませんが、普通は禹、稷、契、皋陶、伯益を指します。舜には、商均(しょうきん)という子供がおりましたが、親には似ない不肖の子供であったので、黄河の治水に功のあった禹(う)に位を譲りました。禅譲(ぜんじょう)が二回続いたのです。

堯曰篇の首章には、「舜も亦以て禹に命ず」・・・「舜もまた、禹に命じた」とだけしか記していません。何を命じたか書いていないのですが、堯から舜への言葉と同じことを言ったに違いないのでしょうね。

続けて、「武王曰わく、予に亂臣(らんしん)十人有り」・・・武王の「自分にはよい家来が十人いた」という言葉が出てきます。「孔子曰わく、才(さい)難(かた)しと、其れ然(しか)らずや。唐虞(とうぐ)の際、斯(ここ)に於(おい)て盛(さかん)と為す」・・・武王(周)は父・文王の意思を継ぎ、天下統一を果たします。名は発。文王の死後兵を挙げ、牧野(ぼくや)の戦いで殷を破り、周王朝を開きました。この時代武王を助けて活躍したのが太公望呂尚で、彼が斉に封じられて桓公・景公たちがその子孫として出てきたわけです。人材は得難いと言うが、その通りだ。堯舜時代から後では、この武王の時こそが一番盛んであった。「婦人有り。九人のみ」・・・十人の中で内助の功のあった婦人が一人いるから、実際は九人だけなのだ。「天下を三分して其の二を有ち、以て殷に服事(ふくじ)す」・・・文王は天下を三つに分けて、その二つまでを有していたが、なお殷に従って仕えていた。

「周の徳は、其れ至徳と謂うべきのみ」・・・周の徳はまず最高の徳と言ってよいだろう。

孔子が周を褒めた言葉は八佾篇にも見られます。

子曰わく、周は二代に監(かんが)みて、郁郁乎(いくいくこ)として文なるかな。吾は周に従わん。

八佾第三   仮名論語295行目です。

伊與田覺先生の解釈です。

先師が言われた。「周は夏殷を手本として、すばらしい文化を創造した。私は、周の文化に従いたい」

周は夏・殷二代を鑑(かがみ)として、いかにも郁郁乎として文化的だ。自分は周に従おう。

孔子が周と言った場合には、文王・武王・そして武王の弟周公旦、この三人の人物を残した結晶として見ていたと言ってよいでしょう。

孔子は、西周時代を模範とみなし、周王朝に纏わる書物(五経)を経典としました。文王は武王や周公旦と合わせて崇敬しました。とりわけ、暴君紂王に対して革命を起こしたという文王・武王の英雄的事蹟は、同じく暴君である夏の桀王に対して革命を起こした殷の湯王の事蹟にも結びつけられます。一方で、湯王・武王が反逆を実行したこと(湯武放伐)とは対照的に、文王は反逆を実行することなく最期まで臣下であり続けたという点から名分論・尊王論・忠義観の根本を問う論題としてしばしば俎上に載せられます。

文王は善政を敷いて諸侯や庶民からの人望を集めていましたので、武王は車に父・文王の位牌を乗せ、故文王が戦う形にして周囲の諸侯に召集をかけました。殷都の南・牧野で殷の紂王討ち、殷を滅ぼした武王は、その後鎬京を都として周王朝を建国しました。

紂王には禄父(ろくほ)という息子がいました。武王は禄父を諸侯として遇し、自分の弟をお目付け役にして殷の領地を治めさせました。敵の跡取りだったのに命を奪わなかったのです。奪った紂王の財産は貧民救済に当てたと言います。その後この戦いに功績のあった者に土地を封じました。中国大陸での封建制度の始まりです。

武王は周王朝成立後まもなく亡くなってしまい、その子成王はまだ幼く、そこで武王の弟・周公旦が摂政として政治を執ることになります。周公は人格に優れ、周王朝の様々な制度を作るのに功績があったと伝えられています。周公は孔子が尊敬してやまなかった人物として有名です。

その後第2代成王が即位します。成王は周公の助けを得て政治を行い、洛邑に都を建設しました。この成王と第3代康王の時代に周王朝は黄金期を迎えます。特に康王の時代は40年にわたって刑罰を用いたことがなかったようですから、よほど治安が良かったのでしょう。

中国の王朝はこれを倒した次の王朝によって前の王朝の歴史が書かれますが、周王朝だけは自然消滅的に消えた王朝なので自分達が書いた美化された歴史がそのまま残り、そのため後の儒家たちは周王朝を理想化するようになったとも言われています。理想化された周王朝は「文」と「礼」の国ですが、実は周囲の諸国家との戦争が絶えない武の国だったとの説もあります。

ところで文王のよい家臣十人とは、周公旦、召公奭(しょうこうせき)、太公望呂尚(たいこうぼうろしょう)、畢公(ひっこう)、栄公(えいこう)、太顚(たいてん)、閎夭(こうよう)、散宜生(さんぎせい)、南宮适(なんきゅうかつ)、そして武王には母にあたる文王の妻太姒(たいじ)だと言われています。

ここに出てくる南宮适と憲問篇に出てくる南宮适とは同名異人ということになるでしょう。

 

つづく

                                                                                           宮 武 清 寛

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