2859.孝(13)父母に事えては、幾くに諌む | 論語ブログ

論語ブログ

ブログの説明を入力します。

孝(13)父母に事えては、幾くに諌む

 

子曰わく、父母に事えては、幾(ようや)くに諌(いさ)む。

   志の従われざるを見ては、又敬して違わず、労して怨みず。

   里仁第四   仮名論語444行目です。

   伊與田覺先生の解釈です。

先師が言われた。「父母にもし間違いがあれば、それとはなしに穏やかに諌める。不幸にして聞き入れてもらえない場合には、前のように敬って逆らうことなく、父母のために骨折っても怨みには思はない」

 

この章は、父母の過ちを正す・諫言の仕方が書かれています。諫言と言えば、目上の人の過失等を指摘して忠告する事ですが、ここでは父母に対する諫言です。

「子曰わく、父母に事えては、幾(ようや)くに諌(いさ)む」・・・父母の下(もと)にある時、もし父母に正しくない事があれば、それとなく諫める。「志の従われざるを見ては、敬して違わず、労して怨みず」・・・しかし、父母の気持ち・志が自分の諫めを受け入れないようであれば、元通りの敬意を払って従い、世話を続けて文句を言わない。という孔子の言葉です。

「幾」は微(わずか)の意味です。おだやかに、遠まわしに勧告進言することのようです。「志の従われざるを見ては」の志は、父母の志、気持ちであって、父母の気持ちが、こちらの勧告に従いそうにないと観察した場合には、「又た敬して違わず」さらにもう一度、敬虔な態度を示して、その気持ちに逆らわない。というのが一つ目の戒めです。

もう一つの戒めとして、父母から労働を課せられても、やすんじて労働に従い、怨みがましく、嫌そうな様子、気持ちをもってはならぬという事です。

二つ目に関しては、前と一連のものであるという説もあります。すなわち父母の行為に何か賛成しがたいものがあり、いくら勧告しても聞き入れない場合は、そのために心配はするが、怨みがましい気持ちは持たない、という説です。

「礼記」の「内側」篇に、「父母は過ちあれば、気を下(くだ)し色を怡(おだ)やかにし声を柔らかにして、以て諫め、諫め若し入らざる時は、起(あらた)めて敬に起めて孝なれ。説べば則ち復(ま)た諫むなり」云々、といい、同じく「礼記」の「曲礼(きょくらい)」篇に、「子の親に事うるや、三度諫めて聴かれざれば、則ち号泣して之に従う」というのは、この条と似た考えとされています。

つまり、父母への諫言は、父母に過ちがあると子供たるものは、心気を正し顔色を穏やかにし、声を柔らかにして諫めることが必要だと言うことです。諫めて、もし父母が聞き入れなければ、自己に至らぬところがあるだろうと反省し、更に父母に対する敬意と孝心とを発してこれに仕えるのです。このようにして父母が諫められた不快さを忘れるのを待ち再び諫めます。更に諫めを受けて、父母がまた不快になっても、もしそのままでは町の人々に非難される恐れのある場合には、丁寧に反覆して諫め、繰り返しての諫言に父母が怒気を発して自分対し暴力をふるい、血を流すようなことになっても父母の頑冥を疾み怨まず、以前と同じように更に敬意をはらって孝心を発するようでなければいけません。

親の過悪を看るのは忍びない事ですから、何度もこれを諫めますが、どうしても聞き入れない時には号泣しつつ、父母と行動を同じくします。つまり、責任を共にする事が大事なのです。

孝子は父母を養うのに、父母の心を楽しませ、父母の志すところに違わず、その耳目を楽しませ、その寝床を安らかにし、父母の好物とする飲食物をもってまめに養うことが大切なのです。

 

つづく

                                                                                           宮 武 清 寛

                                                                                             論語普及会 

論語普及会 TOPこんにちは、論語普及会です。

論語は、生きるヒントの宝箱です。

rongo-fukyukai.jp

会員募集中です。

今日の一言はインスタグラムで配信しています。