2237.論語全章を読む(408)子路第十三-6. 316.其の身正しければⅳ | 論語ブログ

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論語全章を読む(408)

 

子路第十三-6. 316.其の身正しければⅳ

 

子張、行われんことを問う。

子曰わく、言忠信、行篤敬なれば、蠻貊の邦と雖も行われん。言忠信ならず、行篤敬ならざれば、州里と雖も行われんや。立ちては則ち其の前に参するを見、輿に在りては則ち其の衡に倚るを見るなり。其れ然る後に行われん。

子張諸を紳に書す。

衛霊公第十五   仮名論語2295行目です。

伊與田覺先生の解釈です。

子張が「どうすれば思うように道が行われましょうか」と尋ねた。

先師が答えられた。「言葉に真心がこもり、行いがねんごろであれば、未開な外国でも行われるであろうが、言葉に真心がこもらず、行いがねんごろでなければ、身近な町や村でも行われないであろう。この忠信篤敬の四字が、立っている時には、目の前にやってくるように見え、車に乗った時には、前の横木によりかかっているように見えるというぐらいにして、はじめて思うように行われるのだ」

   子張は、この両句を紳(大帯の前に結んで垂れたところ)に書き付けた。

 

子張が、どうすれば人を動かす事が出来るかと言うことを尋ねると、孔子はこう言ったのです。

 「言忠信、行篤敬なれば、蠻貊の邦と雖も行われん」・・・発言に真心があり、行為に発言に対する慎みがあれば、文化のない南蛮や北狄といわれる野蛮国であっても、実現されるであろう。「言忠信ならず、行篤敬ならざれば、州里と雖も行われんや」・・・発言に真心がなく、行為に発言に対する慎みがなければ、組織された秩序ある文明国であっても、実現できるであろうか。

「立ちては則ち其の前に参するを見、輿に在りては則ち其の衡に倚るを見るなり」・・・政庁に立っている時でも、真心や慎みが目の前に密集しているように見え、政庁への出入りに車に乗っている時でも、真心や慎みが目の前にある車の横木にありありと見えるようであることだ。「其れ然る後に行われん」・・・絶えざる努力があって、そうして初めて実現できよう。と、孔子は答えたのです。

「子張諸を紳に書す」子張はこの答弁の内容を自分の大帯・腰に巻いて結び、余った部分を前に裳(しょう・はかま)のすそあたりに垂らして飾りとした、大帯に書きつけたのです。

 ちなみに、「州」は二千五百家で、「里」は五隣で一隣は五家です。つまり、二十五家になります。

すなわち、言葉は忠信であれ。つまりうそを言わないことだ。そして行動は篤敬であれ。つまり裏表のないことだ。こうすれば、相手が野蛮人であろうが文化人だろうが動かすことができる。歩いていようが車に乗っていようが、何時いかなる時も忠信、篤敬と言うことを忘れてはならない。人を動かすには、そこまでしなければならないのだ。と孔子は言っているのです。そして、子張は、忘れないように、この言葉を帯に書きとめたのです。

 「命令を守らせるためには、うそを言わないことだ」という公理は、思想的に儒家と反対の立場にある法家の政治家も実践しています。

 「史記」商君列伝にはこんな話が載っています。秦の宰相の商鞅(しょうおう)は、政治上の改革をいろいろ打ち出しましたが、人民はなかなか信用しませんでした。そこで彼は、都の南門に太い木を置き。「これを北門に運んだ者には十金の賞を与える」と告示しました。しかし、誰も本気にしません。彼は賞金を五倍に引き上げました。そしたら今度は一人の男が半信半疑でこれを運びました。商鞅は約束どおり五十金を与えたのです。以来、告示はよく読まれ、よく守られるようになったそうです。

 

つづく

                                                                                 宮 武 清 寛

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