1887.論語全章を読む(58)八佾第三 46.季氏、泰山に旅す | 論語ブログ

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論語全章を読む(58

 

八佾第三 46.季氏、泰山に旅す

 

季氏、泰山に旅(りょ)す。子(し)、冉有(ぜんゆう)に謂(い)いて曰わく、女(なんじ)救(すく)うこと能(あた)わざるか。

子曰わく、嗚嗚(ああ)、曽(すなわ)ち泰山を林放(りんぽう)にも如(し)かずと謂(おも)えるか。

 八佾第三 仮名論語253行目です。

 伊與田先生の解釈です。

季氏が身の程の弁えず。泰山の神を祭った。先師がこれを批評して冉有に言われた。「お前は、季氏が魯公をないがしろにしているのを救う事ができないのか」冉有は「私にはできません」と答えた。

先師が言われた。「ああ、するとお前は、泰山の神が、あの未熟な林放にも及ばないと思うのか」

   *旅、諸侯が領内の山の神をまつる祭。

 

 「季氏、泰山に旅す」・・・季氏、三桓の専横な家老の貴族です。泰山は山東省の名山であり、また中国全体を通じても、四岳ないしは五岳の一つである名山ですが、当時は魯の国の領内にありました。

旅とは山をまつる祭の名です。礼の決まりによれば、諸侯はそれぞれの領内にある山川をまつることができますが、家老はそれができません。にも関わらず、季氏は泰山を祭りました。以前も出てきましたね。これは、僭上沙汰・僭越な行為です。

 「子、冉有に謂いて曰わく、女(なんじ)救うこと能わざるか」・・・冉有とは、孔子より二十九若い弟子であり、そのころ季氏の執事長でした。その冉有に孔子が問いかけたのです。お前は主人に忠告して、主人を非礼から救済しうる地位にあるのに、お前にはそれができないのか。冉有は答えます。私にはできませんでしたと。

孔子は慨歎・憤慨して言いました。「子曰わく、嗚嗚、曽(すなわ)ち泰山を林放にも如かずと謂えるか」・・・林放とは前の章で礼を問うた男です。あの林放でさえも、礼の根本は何であるかを考えあぐねて、私に質問したのに・・・と、あきれているのでしょうか。

泰山の神といえば、尊い存在であり、礼の精神を心得ていられるに違いない。それに対してこの非礼を行わせながら、お前はだまっておれるのか。泰山の神の方を林放よりも軽く評価しているのか。普通の発想ならば、「曽ち季氏を林放にも如かずと謂えるか」とでもいう風に、祭る主体の方を比較の対象に出すのでしょうが、祭られる客体である泰山を真正面からぶっつけたところが、この対話の強さです。

 

 つづく

宮 武 清 寛

論語普及会 

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