1367.人に長たる者の人間学(7)小人の学 ⑩性、相近きなりⅲ | 論語ブログ

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人に長たる者の人間学(7

 

小人の学 ⑩性、相近きなりⅲ

 

 伊與田覺先生著の「人に長たる者の人間学」第二講、小人の学、にはこう書かれています。

 個人として、あるいは社会人として心得ておくべき基本があります。前にも申しましたように、個人としては生まれながらにして徳性というものがあたえられておる。本末からいうと、徳性の方が本にあるという事。

 それから、社会人としては道徳・習慣を身につける。あるいは、知識・技術を修得していく。これも道徳・習慣が本学で、知識・技術は非常に大切ではあるけれども、人間学という立場からすると末学のほうに入るものであるという事もお話ししておきました。

 徳性についてはまた後でお話をするとしまして、今回は道徳・習慣についてお話しをいたします。

 この道徳・習慣の中で、習慣と言えば形に表れる方であります。道徳は心の世界でもありますので、形に表れる習慣という事からお話しを申し上げたいと思います。

 中略

   習慣の「習」という字は、元来は「羽」と「自」の合字であるという説があります。羽は象形文字です。「自」は今では「白」という字を書いていますが、これは「自」の変形したもの。あるいは「白」は鳥の胴を表すという所から、雛鳥が親の飛ぶ様子を見て自分もあのように飛びたいと羽ばたきの稽古をする事を「習」というのです。したがって、重ねて行う事、息が切れるほど繰り返し繰り返し行う事を「習」という。頭で分かっただけでは「習」とはいわない。

   習慣の「慣」というのは「毋」でもいいんですね。これは何かと言うと、昔は貝を金の代わりに使っていたんです。それを通して銭さしと言いますが、その象形文字が「毋」。あるいは玉を連ねたという意味もあるが、もともとは銭さしの方でしょう。

   中略

要するに「習慣」の「毋」という字は「銭さしのように貫く」という意味で、そこに丁寧に貝を付けた。貫くためには、心を変えないようにしなければならない。我々の心というものはコロコロ転ぶから心だと。人間の心の中には欲望が無数にあるわけですね。しかし、何かをやろうとしたら、沢山ある心をひとつにまとめなくてはいかん。十の心を一つの心にまとめたものを「志」というのであります。「志」を立てることを「立志」ともいう。リッシンベンというのは、心を立てる事です。

だから、心を変えないで一つの事を貫き通していく。そうすると慣れて来る。「慣れる」というのは、抵抗なしに、無意識に行われるようになった時に、「慣れた」というのです。「習慣」というのは、繰り返し繰り返し行って、それが抵抗なしにできるようになった時に「習慣化された」というのですね。

 この「習慣化」の事を日本では「躾をする」といいます。躾というのは「身」と「美」という二つの文字を合わせてあるんです。だから、躾が出来ていると立ち居振る舞いが美しくなってくる。

 中略

 躾で一番思い出すのは、着物を縫うときの躾糸です。あれは布を折り曲げて元へ返らんように仮縫いをしておくんですな。元へ返らんように押し付けておかなければいけないんです。したがって「躾」というのは「押し付け」という事なんですね。本縫いができたら、躾糸は必要なくなりますから、これを取り払うのです。

 中略

「躾」というのは「押し付け」というのでありますね。

我々がものをしていく上において、自由に任せてそれが出来る、即ち「自律」というのがベストです。けれども、苦よりも楽な方へと進みたいというのが人情でもある。だから、楽な方へ行って、せっかくやり始めたものでも腰砕けになってしまう人が多い。

その点からしますと、「他律」即ち外から強制すると、初めは嫌だと抵抗を感じるけれども、やっているうちにそれが身について、そうする事が一番自分にも都合がいい、楽しいと感じて無意識に行われるようになってくる。その時に習慣化されたというのです。

結論から言うと、躾は外から強制をした方がよろしいという事ですな。だから、習慣には強制が伴うと言ってもいいぐらいであります。

現代、先進国の中で躾が非常に乱れているのが日本人だと言われております。 元々日本人は東洋の君子国と言われて、西洋人も驚くような立派な習慣、躾を持った国民なんです。これが今、最下位にもってこられたのはどういう所に原因があるのか。これは戦後の誤った自由教育がなしたものであります。自由主義を間違えて勝手主義になってしまった。松下さんが言うように「自由と勝手」という事を取り間違えてしまったのです。「強制するということは、人権を無視する事や」とね。

中略

 そこに大きな間違いがあった。自由主義はいいんですよ。しかしそれを誤って受け取って勝手主義になったところに問題があったわけです。

さて、「論語」の中から習慣についてふれている所を一つ挙げてみましょう。こういうのがあります。

 

子曰わく、性、相近きなり。習、相遠きなり。

 陽貨第十七   仮名論語2625行目です。

 伊與田覺先生の解釈です。 

先師が言われた。「人の生まれつきは、大体同じようなものであるが、しつけによって大きくへだたるものだ」

 

    この「習」という字を習慣の「習」ととってもいいんです。人間は躾によって大きく変わってくるということです。二千五百年前に、既にこういう事がいわれていたわけです。

    まあ、人間の生まれ、人間性というものは、そう大きく変わるものじゃない。他の動物と人間とは違うが、人間同士はそう大きく変わるものではない。しかし、躾によって大きく変わるという事なんですね。

伊與田覺著 人に長たる者の人間学 より

 

つづく

宮 武 清 寛

論語普及会                       

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