363. 日本での儒教(8) 江戸時代と「論語」②藤原惺窩(ふじわらせいか) | 論語ブログ

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日本での儒教(8)


江戸時代と「論語」②藤原惺窩(ふじわらせいか)


 日本に儒学が完全に根付くようになったのは、以外にも豊臣秀吉による朝鮮出兵でした。この戦いの戦利品として、朝鮮から大量に流れ込んだ書物をむさぼるように読みふける人物がいました。それが藤原惺窩と林羅山の二人です。この二人こそ、徳川幕府に儒教を植え付ける礎となった人物なのです。

 戦国時代、大名たちのブレーンとして活躍したのは、いわば当時の知識人階級をなしていた僧侶たちでした。しかし惺窩や羅山は、現世を治める原理のない仏教に若い頃から飽き足らないものを感じ、当時の日本では最新の学問だった朱子学や陽明学に活路を見出していきました。そのことが結局、実践的な知を求める戦国大名や徳川幕府の要求にも合致していくことになるのです。

 まず、世に名前を知られたのは藤原惺窩です。惺窩は若い頃にいったん禅寺に入りますが、やがて儒教に傾倒し、1593年には江戸に招かれて、徳川家康に「貞観政要(じょうがんせいよう)」を講じています。

 儒教への熱狂は年を経るうちに高まり、舟で二度も明に渡ろうとしますが、悪天候などで果たせませんでした。当然、惺窩は禅宗の側から冷たい視線を受けますが、学問好きであった播磨の国竜野城主赤松広道の援助を受けながら、儒教の研究を続けていました。

 そして、38歳の時、姜沆(きょうこう)という人物と運命的な出会いをします。姜沆は、朝鮮で博士などを務めた一級の知識人であり、朝鮮の役の捕虜として日本に送られてきたのです。彼の知識を得た惺窩は、貪欲に朱子学の知識を吸収し、仏教と完全に袂をわかち、儒者として生きて行くことを決意します。

 1600年、関ヶ原の合戦が終わった直後、惺窩は儒者であることを示す服をまとい家康のいる二条城をたずねました。そこには家康側近の僧侶、承兌(しょうだい)と霊山(れいざん)がいて、家康の前で惺窩と激しい口論になったそうです。なぜ知識人である僧侶を辞めてしまうのか、幕府の高級官僚にもなれるのだぞ、言われますが惺窩は聞きません。「君子が俗だなどと言われるのは聞いた事がありませんが、今や僧徒が俗に流されているのを、私は憂えます。聖人はこの世のことを棄てたりはしないものです」惺窩は一歩も引かなかったようです。

 家康も、これをきっかけに儒教への関心を急速に高め、その遺言は「論語」からの強い影響に染まったほどです。

 

曽子曰わく、士は以って弘毅ならざるべからず。

任重くして道遠し。仁以って己が任と為す、亦重からざるや。

死して後已む、亦遠からずや。

泰伯第八 1024行目です。

伊與田覺先生の解釈です。

曽先生が言われた。「士は度量がひろく意思が強固でなければならない。 それは任務が重く。道は遠いからである。

仁を実践していくのを自分の任務とする。なんと重いではないか。

全力を尽くして死ぬまで事に当たる、なんと遠いではないか」


東照遺訓

「人の一生は重荷を負いて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず。

 不自由を常と思えば不足なし。心に望み起こらば困窮したる時を思い出すべし。

 堪忍は無事長久の基、怒りを敵と思え。

 勝つことばかり知りて負くることを知らざれば、害その身にいたる。

 おのれを責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり。


つづく

                         宮 武 清 寛