弟子達の質問(君子と小人13)
惑いを辨(べん)ぜんことを問う
実はこの顔淵第十二では政を問うた章が5章出てきます。しかし、次の子路第十三でも政を問うた章が沢山出てきますので、政については次回に説明させていただきたいと思います。
この篇では、何何、何何を問うという形の章は後4章ありますので、その章を見て行きたいと思います。
子張、徳を崇くし、惑いを辨(べん)ぜんことを問う。
子曰わく、忠信を主として義に従(うつ)るは徳を崇(たか)くするなり。
之を愛しては其の生を欲し、之を悪みては其の死を欲す。
既に其の生を欲して、又其の死を欲するは、是れ惑(まどい)なり。
顔淵第十二 仮名論語169頁3行目です。
伊與田覺先生の解釈です。
子張が「徳をたかめ、迷いを解くには、どうすればよいでしょうか」と尋ねた。
先師は答えられた。「忠信を旨として、正しい道をふみ行うのが、徳をたかめることになるのである。
愛しては、何時までも生きるように願い、憎んでは、早く死ぬように願う、先には生きることを願いながら、また死ぬことを願う。これこそ迷いというものだ」
子張は陳出身の人で孔子より48歳も年下ですから、孔子の晩年の弟子です。おそらく孔子が陳に留まっていた頃、13、4歳の若さで入門したのでしょう。ただ、この章にある問答は、子張が20歳以後のことのようです。孔子が魯国に帰ってからの問答といわれています。
「子張、徳を崇くし、惑いを辨(べん)ぜんことを問う」・・・子長が、自分の人格を高め、迷いを分別する仕方を質問しました。「子曰わく、忠信を主として義に従(うつ)るは徳を崇(たか)くするなり」・・・孔子は、真心を尽くすこと(忠)、言ったことは必ず守ること(信)、正しいと思えば行うこと(義)、そのようにすれば人格を高める事ができる。と答えました。
「之を愛しては其の生を欲し、之を悪みては其の死を欲す」・・・また、ある人を愛すると、その人が長生きできるようにと願う。ところが、その人を憎むとなれば、早く死ねばいいと願う。「既に其の生を欲して、又其の死を欲するは、是れ惑なり」・・・前には生きてと、今は死ねと、ころころと変わる。これが惑いというものだ。
愛憎は人の常です。愛するときはその人が長く生きてほしいと思い、憎むときはその人が早く死んだらいいと思うのは人情です。いわゆる可愛さあまって憎さが百倍というものでしょう。これはその人の善不善で愛憎するのではなく、おのれの私情をもって愛憎しているだけです。これこそが迷いなのです。
「韓非子」という中国の古典にこんな話があります。
ある君主に、寵愛している小姓がいました。君主のお供で庭園を散歩しているとき、桃がなっているのを見た小姓が、一つ食べてみるとなかなか美味しい。小姓は食べかけて止め、君主に差し出しました。君主は「感心なやつだ」と褒めました。しかし、何年か過ぎ、寵愛が薄れると、君主は「かつて無礼なことをした」として小姓を罰しました。
「愛憎の変」で同じ事が逆転するのです。恐ろしいことですね。
つづく
宮 武 清 寛