広島平和宣言2008 / 1964年 1965年併載と中国核実験 | 安芸もみじ / Photos, Historys, Trains - Hiroshima JAPAN

広島平和宣言2008 / 1964年 1965年併載と中国核実験


世界で初めてアジアで開催されるオリンピック。


それが1940(昭和15)年に開催が決まった東京オリンピックでした。


この年は日本にとって紀元2600年と言う100年に1度の節目の年にもあたり、これを記念する一大行事としてオリンピックは位置付けられました。


しかし不幸なことに激化する中国との戦争の下、戦時体制での不穏分子の暗躍やテロなどが危惧される中、VIP警護など難関は多く、結局は開催権を返上して幻のオリンピックとなりました。


戦争を無条件降伏という敗戦で終え、そこから脅威の復興そして高度成長期への突入を迎え、日本は国際社会復帰の証しとして、2度目のオリンピック開催権を手中に収めます。


それが1694(昭和39)年に開催された、東京オリンピックでした。


東名高速道路が部分開通し、東海道新幹線が開業、そして首都圏と新幹線エリアの電化など、高度成長期の勢いに乗って次々と近代化が推し進められます。


世界初の高速鉄道 新幹線は世界最速の列車として10月1日に開業とし、過去の統計データから1番晴れる可能性の高い10月10日が、オリンピックの開会式となりました。


オリンピックの開催期間は10月10日から10月24日までの15日間で、大会後には同一都市では史上初となるパラリンピックも開催されました。


世界中から報道機関や観光客などが詰めかけた東京オリンピックでしたが、それを狙った確信犯で、10月16日に中国が初めての核実験を成功させました。


競技は滞りなく予定通りに進行し、新幹線など交通機関がパニック状態に陥ることもなく、外国からの要人や観光客にも動揺が走ることはなかったようです。


が、報道センターは大混乱で、平和の祭典と位置づけられているオリンピックの期間中に、 海を挟んだ隣国で核実験が実施されたことは、直ちに世界中へ配信されました。


戦前は中国との戦争激化によってアジア初のオリンピック開催が中止となり、戦後もアジア初のオリンピック開催は中国によって水を挿された形となりました。


この東京オリンピック開催期間中の核実験は、世界の列強の仲間入りを実力行使で宣言することと、もう1つは「平和ボケすんなよ日本!」との警鐘の意味がありました。


中国にとって日本は永遠の敵なので、戦争という形ではなくとも、国力、経済力、工業力などその全てで日本を凌駕し、やがては支配するとの宣戦布告と言うメッセージでした。


かつてはアジアの中心は中華で、世界の全てが自分たちを中心に動いていたにもかかわらず、突然現れてアジアの秩序を壊した罪を許す積もりは無い•••••••そんな意思の強さを世界にアピールした核実験でした。


中国の核実験成功により、核保有国は5ヶ国となりました。


今年の平和宣言併載は、東京オリンピック開催を控えた1964(昭和39)年と、中国核実験後となる1965(昭和40)年を記載します。


このポスターの画像は下書保存を公開記事にする折に、2024年6月に追記として新たに貼りました。




広島平和宣言 2008


平均年齢75歳を超えた被爆者の脳裡に、63年前がそのまま蘇る8月6日が巡って来ました。


「水を下さい」「助けて下さい」「お母ちゃん」———被爆者が永遠に忘れることのできない地獄に消えた声、顔、姿を私たちも胸に刻み、「こんな思いを他の誰にもさせない」ための決意を新たにする日です。


しかし、被爆者の心身を今なお苛む原爆の影響は永年にわたり過少評価され、未だに被害の全貌は解明されていません。


中でも、心の傷は深刻です。


こうした状況を踏まえ、広島市では2ヶ年かけて、原爆体験の精神的影響などについて、科学的な調査を行います。


そして、この調査は、悲劇と苦悩の中から生れた「核兵器は廃絶されることにだけ意味がある」という真理の重みをも私たちに教えてくれるはずです。


昨年11月、科学者や核問題の専門家などの議論を経て広島市がまとめた核攻撃被害想定もこの真理を裏付けています。


核攻撃から市民を守る唯一の手段は核兵器の廃絶です。


だからこそ、核不拡散条約や国際司法裁判所の勧告的意見は、核軍縮に向けて誠実に交渉する義務を全ての国家が負うことを明言しているのです。


さらに、米国の核政策の中枢を担ってきた指導者たちさえ、核兵器のない世界の実現を繰り返し求めるまでになったのです。


核兵器の廃絶を求める私たちが多数派であることは、様々な事実が示しています。


地球人口の過半数を擁する自治体組織、「都市・自治体連合」が平和市長会議の活動を支持しているだけでなく、核不拡散条約は190か国が批准、非核兵器地帯条約は113か国・地域が署名、昨年我が国が国連に提出した核廃絶決議は170か国が支持し、反対は米国を含む3か国だけです。


今年11月には、人類の生存を最優先する多数派の声に耳を傾ける米国新大統領が誕生することを期待します。


多数派の意思である核兵器の廃絶を2020年までに実現するため、世界の2368都市が加盟する平和市長会議では、本年4月、核不拡散条約を補完する「ヒロシマ・ナガサキ議定書」を発表しました。


核保有国による核兵器取得・配備の即時停止、核兵器の取得・使用につながる行為を禁止する条約の2015年までの締結など、議定書は核兵器廃絶に至る道筋を具体的に提示しています。


目指すべき方向と道筋が明らかになった今、必要なのは子どもたちの未来を守るという強い意志と行動力です。


対人地雷やクラスター弾の禁止条約は、世界の市民並びに志を同じくする国々の力で実現しました。


また、地球温暖化への最も有効な対応が都市を中心に生れています。


市民が都市単位で協力し人類的な課題を解決できるのは、都市が世界人口の過半数を占めており、軍隊を持たず、世界中の都市同士が相互理解と信頼に基づく「パートナー」の関係を築いて来たからです。


日本国憲法は、こうした都市間関係をモデルとして世界を考える「パラダイム転換」の出発点とも言えます。


我が国政府には、その憲法を遵守し、「ヒロシマ・ナガサキ議定書」の採択のために各国政府へ働き掛けるなど核兵器廃絶に向けて主導的な役割を果すことを求めます。


さらに「黒い雨降雨地域」や海外の被爆者も含め、また原爆症の認定に当たっても、高齢化した被爆者の実態に即した温かい援護策の充実を要請します。


また来月、我が国で初めて、G8下院議長会議が開かれます。


開催地広島から、「被爆者の哲学」が世界に広まることを期待しています。


被爆63周年の平和記念式典に当たり、私たちは原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げ、長崎市と共に、また世界の市民と共に、核兵器廃絶のためあらん限りの力を尽し行動することをここに誓います。


2008(平成20)年8月6日

広島市長 秋葉 忠利




広島平和宣言 1964


本日、わたくしたちは、再び8月6日を迎えた。


19年前のこの日、広島市は、一瞬にして焦土と化し、無数の人命が奪い去られた。


しかも、そのとき人体深く食い入った放射能は、今日なお、被爆者たちの生命を脅かし続けている。


わたくしたち広島市民は、この悲惨な事実に基づき、今日まで機会あるごとに、世界の人々に、その体験を伝え、核兵器の廃棄と戦争の完全放棄を訴えつづけてきた。


たまたま昨年、米、英、ソ三国による部分的核実験停止条約が締結され、世界の多くの国がこれに参加したことはまことに喜びにたえない。


しかしながら、この条約はわたくしたちの悲願達成に一歩を進めたものではあるが核兵器の完全放棄を保障するものではなく、加うるに世界各所における国際間の小ぜり合いは大いなる危険をはらんで現在なお続けられている。


わたくしたちは、いまこそ、全世界の人々が原子力時代の戦争は、ひとり戦争当事国のみならず、全人類を滅亡に導く手段以外の何ものでもないことをあらためて深く認識し、戦争の完全放棄を目ざして一層の努力を傾注するよう望んでやまない。


本日、ここに、原爆死没者の霊を弔うにあたり、重ねてこのことを広く世界に宣言する。


1964(昭和39)年8月6日

広島市長 浜井 信三




広島平和宣言 1965


本日、わたくしたちは、原爆20周年を迎えた。


わたくしたちは、あの原爆の惨禍によって従来の戦争観を一変しなければならないことを知った。


原子力時代の戦争は、敵味方の区別なく、人類自体を破滅に導く行為以外の何ものでもなくなったのである。


原子爆弾は、単に、それが残虐非道なる恐るべき破壊兵器であるというだけでなく、その放射能は、長期にわたって人体をむしばみ、ついには地球そのものをも人間の生存を許さないものとすることが明らかになったからである。


わたくしたち広島市民が「原水爆の禁止」と「戦争の完全放棄」を強く叫び続けているのもそのためである。


しかるに、この20年の間に、核兵器は質量ともに異常な発達を遂げ、これが保有国も漸次その数を増して、事態をいよいよ混乱させているばかりでなく、ベトナムを初め世界各所において、大いなる危険を冒しつつ武力抗争が繰り返されていることは真に憂慮に堪えない。


思えば、人類が現在以上の危機に直面したことはいまだかつてなかったであろう。


かかる観点よりすれば、今やすべての国家、すべての民族が、事態の重要性を深く認識し、一切の行きがかりを捨てて、人類の破滅防止のために全努力を傾注することこそが喫緊の要務であることを確信するものである。


本日、再び原爆犠牲者の霊を弔うにあたり重ねてこのことを全世界に訴える。


1965(昭和40)年8月6日

広島市長 浜井 信三





1964(昭和39)年の平和宣言では、戦争放棄は資源と技術を軍事ではなく、平和利用することによって国を豊かにしよう•••••••のコンセプトが根付いていて。


高度成長期、 都市の復興、道路整備、新幹線開業、そしてオリンピック開催が、順調に戦争放棄によってもたらされた幸福であると確信しているが故に、そのことに触れずにただただ慰霊のことばを述べる文章となっています。


1965(昭和40)年の平和宣言では、被爆そして終戦20終戦という節目であることと、ベトナムと言う国名を出すことで、アメリカとソ連の間接的でありながら直接の戦闘でもある、戦争と核兵器について語っています。


そして国名こそ出さないものの、核保有国が増加する事に触れて、中国を非難そして牽制している文章となっています。


(ーーこの記事は下書保存後に長期放置していたものを、公開記事化する際に一部再編集したものですーー)



May the world be filled with peace and happiness.
(世界が平和と幸福で満たされますように)


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