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アメリカ合衆国による人類史上初の核実験は1945(昭和20)年7月16日でした。
続いたのがソビエト連邦共和国で、初核実験成功は1949(昭和24)年8月29日にカザフスタンのセミパラチンスク核実験場でした。
この核実験場は1991(平成3)年8月29日に閉鎖されたことをから、これを記念して8月29日を国際連合の「核実験に反対する国際デー」となっています。
初核実験も閉鎖も同じ日付のロシア(ソ連)ですが、平和記念式典の直後の日付なので、今年2006年の広島平和宣言に続き併載する平和宣言は、翌年となる1950(昭和25)年を記載したかったのですけれど。
1950(昭和25)年は朝鮮戦争が勃発した年であり、日本は終戦後初の戦時下ムードに包まれつつ、経済界では戦争景気の期待が高まっていました。
そんな情勢下で平和祭の開催をするかしないか模索していた中、GHQから開催中止の要請が入ります。
これは占領軍による命令なので必ず受理しなければならない案件なのですが、GHQとしては反戦意識の高まりから、暴動やテロに発展するのではないかとの危惧から、開催中止の命令でした。
被爆そして終戦から2年後の、1947(昭和22)年8月6日に開催された第1回 平和祭は、現在 平和記念式典として開催されつづけていますが、その歴史の中で唯一 開催されなかった年でした。
人々の平和への思いをつなぎ、核廃絶と恒久平和の祭典が、戦争を理由に核兵器を使った占領国によって、開催を見送らされた汚点でもあります。
1952(昭和27)年の平和宣言は主権回復後の初宣言ということで既に掲載していますので、今年は広島平和祭が広島平和記念式典となった1951(昭和26)年の、広島市長あいさつを併載します。
そしてカザフスタン共和国にあるロシアのセミパラチンスク核実験場が閉鎖された翌1992(平成4)年の平和宣言も併載します。
・広島平和宣言 2006
・広島市長挨拶 1951
・広島平和宣言 1992
-広島平和宣言 2006-
放射線、熱線、爆風、そしてその相乗作用が現世の地獄を作り出してから61年——悪魔に魅入られ核兵器の奴隷と化した国の数はいや増し、人類は今、全ての国が奴隷となるか、全ての国が自由となるかの岐路に立たされています。
それはまた、都市が、その中でも特に罪のない子どもたちが、核兵器の攻撃目標であり続けて良いのか、と問うことでもあります。
一点の曇りもなく答は明らかです。
世界を核兵器から解放する道筋も、これまでの61年間が明確に示しています。
被爆者たちは、死を選んだとしても誰も非難できない地獄から、生と未来に向かっての歩みを始めました。
心身を苛む傷病苦を乗り越えて自らの体験を語り続け、あらゆる差別や誹謗・中傷を撥ね返して「他の誰にもこんな思いをさせてはならない」と訴え続けてきたのです。
その声は、心ある世界の市民に広がり力強い大合唱になりつつあります。
「核兵器の持つ唯一の役割は廃絶されることにある」がその基調です。
しかし、世界政治のリーダーたちはその声を無視し続けています。
10年前、世界市民の創造力と活動が勝ち取った国際司法裁判所による勧告的意見は、彼らの蒙を啓き真実に目を向けさせるために、極めて有効な手段となるはずでした。
国際司法裁判所は、「核兵器の使用・威嚇は一般的に国際法に反する」との判断を下した上で、「全ての国家には、全ての局面において核軍縮につながる交渉を、誠実に行い完了させる義務がある」と述べているからです。
核保有国が率先して、誠実にこの義務を果していれば、既に核兵器は廃絶されていたはずです。
しかし、この10年間、多くの国々、そして市民もこの義務を真正面からは受け止めませんでした。
私たちはそうした反省の上に立って、加盟都市が1403に増えた平和市長会議と共に、核軍縮に向けた「誠実な交渉義務」を果すよう求めるキャンペーン(Good Faith Challenge)を「2020ビジョン(核兵器廃絶のための緊急行動)」の第二期の出発点として位置付け展開します。
さらに核保有国に対して都市を核攻撃の目標にしないよう求める「都市を攻撃目標にするな(Cities Are Not Targets)プロジェクト」に、取り組みます。
核兵器は都市を壊滅させることを目的とした非人道的かつ非合法な兵器です。
私たちの目的は、これまで都市を人質として利用してきた「核抑止論」そして「核の傘」の虚妄を暴き、人道的・合法的な立場から市民の生存権を守ることにあります。
この取組の先頭を切っているのは、米国の1139都市が加盟する全米市長会議です。
本年6月の総会で同会議は、自国を含む核保有国に対して核攻撃の標的から都市を外すことを求める決議を採択しました。
迷える羊たちを核兵器による呪から解き放ち、世界に核兵器からの自由をもたらす責任は今や、私たち世界の市民と都市にあります。
岩をも通す固い意志と燃えるような情熱を持って私たちが目覚め起つ時が来たのです。
日本国政府には、被爆者や市民の代弁者として、核保有国に対して「核兵器廃絶に向けた誠実な交渉義務を果せ」と迫る、世界的運動を展開するよう要請します。
そのためにも世界に誇るべき平和憲法を遵守し、さらに「黒い雨降雨地域」や海外の被爆者も含め高齢化した被爆者の実態に即した人間本位の温かい援護策を充実するよう求めます。
未だに氏名さえ分らぬ多くの死没者の霊安かれと、今年改めて、「氏名不詳者多数」の言葉を添えた名簿を慰霊碑に奉納しました。
全ての原爆犠牲者の御霊に哀悼の誠を捧げ、人類の未来の安寧を祈って合掌致します。
2006(平成18)年8月6日
広島市長 秋葉 忠利
-広島市長あいさつ 1951-
平和実現への一里塚。
6年前の本日、わが広島市は一瞬にして壊滅し20数万の市民がその尊い命を失いました。
この言語に絶する戦災は戦争による人類の破滅を示唆し、恒久平和招来のためには、いかなる努力をも払わなければならないことを強く教えたのである。
われわれはその深き意義に思いを致し、いよいよあらん限りの力を傾け、さらに子々孫々にもわたるねばり強い努力を継続することによって必ずこれを完遂しなければならないと固く覚悟するものである。
8月6日は実にこの恒久平和実現の大道に一里塚を打建てる日である。
われわれ広島市民は、この日を迎えることに過去を顧み、将来をいましめて一歩一歩大理想の実現にまい進する決意を新たにすべきで、犠牲者の霊を慰めるとともに平和への深き祈りを捧げて、30万市民うって一丸となり平和都市建設の礎とならんことを誓うものである。
1951(昭和26)年8月6日
広島市長 浜井 信三
-広島平和宣言 1992-
広島が一発の原子爆弾で壊滅し、数知れぬ市民が犠牲となったあの日から、47年の歳月が流れた。
きのこ雲の下、目を覆う惨状を呈した広島を、私たちは決して忘れることができない。
以来、その記憶を胸に、私たちは、世界がヒロシマを二度と繰り返さないよう、核兵器の廃絶と世界恒久平和の確立を訴え続けてきた。
しかし、核実験は今なお続いている。
国家の安全保障を核兵器という力に依存する核抑止論を、ヒロシマは絶対に容認することができない。
核兵器だけでなく、生物化学兵器などの大量破壊兵器は、長年にわたって多量に蓄積され、人類の未来に暗い影を落としている。
ソ連邦の消滅を軸に激動する世界は、いま歴史的な転換期に立たされている。
東西の冷戦構造が崩れ、米国とロシアが核兵器の大幅削減に合意したとはいえ、人類は融和への道を歩むか、対立・抗争を繰り返すか、選択の岐路にある。
核兵器の拡散、核開発技術の流出は断じて防がなければならない。
核査察制度の確立、核弾頭の解体に伴う放射性物質の安全な処理も緊急の課題である。
今年6月、念願であった国連軍縮広島会議の開催が実現した。
ヒロシマは、核兵器を廃絶する手だてとして、核実験の即時全面禁止、核兵器の実態の公表、被爆50周年にちなむ第4回 国連軍縮特別総会の開催、そして、アジア・太平洋地域での信頼醸成と核軍縮の討議の場を広島に常設すること——などを提案した。
これらの考え方が国連の内外で真剣に討議され、一日も早く実現するよう期待する。
今日、核兵器による人類絶滅の危機に加えて、地球環境の破壊も人類の生存を脅かしつつある。
私たちは、安全で快適な生存の条件を守るために、人種や民族を超えた「人間」としての自覚を強め、平和を創造してゆきたい。
そのために、ヒロシマは世界の平和都市連帯を一層推進し、幅広い友好と協力関係を築き上げる。
さらに、世界の核被害者救済を一段と充実させたい。
過去の戦争や植民地支配で、わが国はアジア・太平洋地域の人々に大きな苦しみと深い悲しみを与えた。
私たちは、その痛みを自らの痛みとすることによって、未来へ向けて相互の絆をより強めなければならない。
道義こそ信頼の源となるからである。
きょう被爆47周年にあたり、謹んで原爆犠牲者の御霊に哀悼の誠を捧げるとともに「過ちは繰り返さない」ことをお誓いする。
同時に、平和の礎となった原爆死没者と、高齢化し、今なお放射能障害に苦しむ被爆者のために、政府はその責任において被爆者援護法を制定するとともに、外国に住む原爆被爆者の援護に乗り出すよう強く求める。
核兵器を廃絶し、新しい平和秩序を生み出す道は険しく、なお遠い。
今こそ、一人ひとりが偏見や憎悪を棄て、平和を担う力を身につけなくてはならない。
私たちは日本国憲法が掲げる不戦の理念を守り、若い世代に原点・ヒロシマを伝え続けたい。
ここに、改めてその決意を表明する。
1992(平成4年)8月6日
広島市長 平岡 敬
1991(平成3)年12月25日にゴルバチョフ大統領が辞任し、翌26日にソビエト連邦最高会議が連邦の解散を宣言しました。