広島平和宣言2000 / 1947年第1回平和宣言併記 | 安芸もみじ / Photos, Historys, Trains - Hiroshima JAPAN

広島平和宣言2000 / 1947年第1回平和宣言併記

(ーーこの記事は ジオシティーズ″つばさワールド″ から転載したものですーー)


広島平和宣言とは。


広島市が世界最初の核攻撃による惨禍を経験してから、少しずつ復興の始まった2年目の1947(昭和22)年に、永遠の平和を確立しようという広島市民の願いを全世界の人々に伝え、世界的行事の一つにまで発展させたいと念願して、平和祭が行われることになりました。


平和祭は、同年8月5日から3日間催されましたが、6日には後に平和記念公園となる広場で式典が開催されました。


この中で初めての平和宣言が浜井信三市長によって読み上げられ、戦争を否定するとともに、平和を求める広島市民の心の底からの叫びが、一つの形となって表れました。


以降、平和宣言は、広島市長が毎年8月6日の平和記念式典において読み上げられ、その表現や内容には、その時代が色濃く反映されています。


・広島平和宣言 2000

・第1回平和宣言1947

・マッカーサーメッセージ要約文

・首相挨拶要約文

・歴史的背景解説




-広島平和宣言 2000-


私たちは今日、20世紀最後の8月6日を迎えました。


一発の原子爆弾が作り出した地獄の日から55年、私たちは、絶望の淵から甦った被爆者と共に悲嘆にくれ、慰め励まし、怒り祈り、学び癒し、そして訴え行動してきました。


その結果、広島平和記念都市建設法の制定、原爆死没者慰霊碑の建立、被爆者援護法の制定、南半球を中心とした非核兵器地帯の設定、国際司法裁判所による核兵器使用の違法性判断、包括的核実験禁止条約の締結、原爆ドームの世界遺産化、核保有国による「核兵器全廃に向けた明確な約束」等、多くの成果を挙げることができました。


特に、長崎以降、核兵器が実戦において使われなかったことは全人類的成果です。


しかし、今世紀中に核兵器の全廃をという私たちの願いは、残念ながら実現に至りませんでした。


21世紀には、何としてもこの悲願を達成しなくてはなりません。


そのためにも今一度、より大きな文脈で被爆体験の意味を整理し直し、その表現手段を確立し、人類全体の遺産として継承していかなくてはなりません。


世界遺産として認められた原爆ドーム、被爆に耐えた旧日本銀行広島支店や世界中の子どもたちから寄せられる折鶴の保存や活用はそのためにも重要です。


また、「核兵器は違法である」という大きな成果を核兵器廃絶につなげるため、世界平和連帯都市市長会議の力を結集する必要もあります。


そして人類の誰もが自らの国家や民族の戦争責任を問い、自ら憎しみや暴力の連鎖を断つことで「和解」への道を拓くよう、そして一日も早く人類が核兵器を全廃するよう、世界に訴え続けたいと考えています。


コンピュータはもちろん鉛筆も、いや文字さえなかった太古から今日まで、20世紀が他のどの時代とも違うのは、人類の生存そのものを脅かす具体的な危険を科学技術の力によって創り出してしまったからです。


その一つが核兵器であり、もう一つが地球環境の破壊であることは、言うまでもありません。


そのどちらも私たち人類が自ら創り出した問題です。


その解決も当然、私たち自身の手で行わなくてはなりません。


核兵器の廃絶を世界に向って呼び掛けてきた広島は、さらに、科学技術を真に「人間的目的」のために活用するモデル都市として新たな出発をしたいと思います。


広島そのものが「人間的目的」の具現化であるような未来を、広島の存在そのものが「平和」であることの実質を示す21世紀を創りたいと考えています。


それは人間の存在そのものを危機に陥れた科学技術と、人類との「和解」でもあります。


朝鮮半島における南北首脳会談で両国の首脳が劇的に示してくれたのは、人間的な「和解」の姿です。


私たちは、20世紀の初め日米友好の象徴として交換されたサクラとハナミズキの故事に倣い、日米市民の協力の下、広島にすべての「和解」の象徴としてハナミズキの並木を作りたいと考えています。


国際的な場面においても広島は、対立や敵対関係を超える「和解」を創り出す、調停役としての役割が果せる都市に成長したいと思います。


私たちは改めて、日本国政府が、被爆者の果してきた重要な役割を正当に評価し援護策を更に充実することを求めます。


その上で、核兵器廃絶のための強い意志を持ち、かつ憲法の前文に則って、広島と共に世界に「和解」を広める役割を果すよう、強く要請します。


20世紀最後の8月6日、私たちは、人類の来し方行く末に思いを馳せつつ広島に集い、一本の鉛筆があれば、何よりもまず「人間の命」と書き「核兵器廃絶」と書き続ける決意であることをここに宣言し、すべての原爆犠牲者の御霊に衷心より哀悼の誠を捧げます。


2000(平成12)年8月6日

広島市長 秋葉忠利




-1947年・第1回 平和宣言-


本日、歴史的な原子爆弾投下2周年の記念日を迎え、われら広島市民は、いまこの広場に於て厳粛に平和祭の式典をあげ、われら市民の熱烈なる平和愛好の信念をひれきし、もって平和確立への決意を新たにしようと思う。


昭和20年8月6日は広島市民にとり、まことに忘れることのできない日であった。


この朝投下された世界最初の原子爆弾によって、わが広島市は一瞬にして潰滅に帰し、十数万の同胞はその尊き生命を失い、広島は暗黒の死の都と化した。


しかしながらこれが戦争の継続を断念させ、不幸な戦を終結に導く原因となったことは不幸中の幸いであった。


この意味に於て8月6日は世界平和を招来せしめる機縁を作ったものとして、世界人類に記憶されなければならない。


われらがこの日を記念して、無限の苦悩を抱きつつ厳粛な平和祭を執行しようとするのは、このためである。


けだし戦争の惨苦と罪悪とを最も深く体験し自覚する者のみが、苦悩の極致として戦争を根本的に否定し、最も熱烈に平和を希求するものであるから。


又この恐るべき兵器は、恒久平和の必然性と真実性を確認せしめる「思想革命」を招来せしめた。


すなわちこれによって原子力をもって争う世界戦争は、人類の破滅と文明の終末を意味するという真実を、世界の人々に明白に認識せしめたからである。


これこそ絶対平和の創造であり、新らしい人生と世界の誕生を物語るものでなくてはならない。


われわれは、何か大事にあった場合深い反省と熟慮を加えることによって、ここから新らしい真理と道を発見し、新しい生活を営むことを知っている。


しかりとすれば今われわれが為すべきことは、全身全霊をあげて平和への道を邁進し、もって新らしい文明へのさきがけとなることでなければならない。


この地上より戦争の恐怖と罪悪とを抹殺して、真実の平和を確立しよう。


永遠に戦争を放棄して世界平和の理想を地上に建設しよう。


ここに平和の塔の下、われらはかくの如く平和を宣言する。


1947(昭和22)年8月6日

広島平和祭協会長・広島市長 浜井信三




-1947年 マッカーサーメッセージ要約文-


2年前、しだいに高まりつつある暴虐の暗影が世界を覆っていた。 

人々も民族も各大陸も、戦いの決着をつけよ うと必死になってもがいていた。

そのとき 広島の上に今までにない強力な武器が投下された。

かくて戦争が、それが致命的であり破壊的である点において、そしてまた戦争が人間の理性や論理、目的、理想などに対する挑戦である点において、新たな意味を持つことになった。

あの運命の日のもろもろの苦悩は、すべての民族のすべての人々に対する警告として役立つ。

それは戦争の破壊性を助長するために、自然力を利用することはますます進歩して、ついには人類を絶滅し、現代世界の物質的構造物を破壊するような手段が、手近に与えられるまで発達するだろうという警告である。

この教訓が等閑に付せられざるよう、神よ、みそなわせたまえ。

1947(昭和22)年8月6日

連合軍最高司令官 ダグラス マッカーサー


*上記の日本語文書は参考のための仮翻訳で、正文は英文です。




-1947年・内閣総理大臣挨拶 要約文-


かつ て軍都として栄えた広島市が、わずか1個 の原爆によってベールを吹き飛ばし、かつ日本を平和へと導いた。


あの感慨深き回顧の数々、われわれ日本国民にとどまらず、 世界の人々にまでこよなき教訓となったと私は確信する


1947(昭和22)年8月6日

内閣総理大臣 片山 哲




-歴史的背景解説-


第1回 平和祭は広島の市会議員・県会議員以外も、GHQの関係者や連合軍の上官も参列して開催されており、その中での平和宣言と総理大臣のあいさつだった。


NHK広島中央放送局(JOFK)は、午前8時から30分間、式典の模様を実況放送したが、それは、そのままJOAK(東京)を通じてアメリカ合衆国へ中継された。


この放送は、日本の戦後初の国際放送となり、INS、CBSといったアメリカの放送局やユナイト、日映、時事などのニュース映画会社も、式典の模様を取材していた。


そして第1回 平和祭の開催は、海外で大きな反響を呼び、アメリカの臨時世界人民会議は、8月6日にアラモゴードでヒロシマ2周年の集会を開催した。


しかし日本国内ではその直後から、″原子爆弾″″原爆″″8月6日″″8月9日″のワードが、言論統制によって使用禁止用語に指定され、報道管制での禁止を似て被爆そのものが GHQによって隠匿された。


広島市内では″原爆〇〇″と通称で呼ばれていた物は、全て″平和〇〇″と言い改めるよう、一般市民も強要された。


現在、平和公園内にある″平和の鐘″等も接置当初は″慰霊の鐘″と言う名称だったが、GHQの圧力によって名称変更が行われた。


″原爆ドーム″も″平和記念ドーム″と改称させられたが、正式に保存建物に指定されたのは日本の独立国として主権回復後であり、保存にあたって″原爆ドーム″の名称を公式名称とした。


数ある俗称として存在した″原爆〇〇″の名称の施設の中で、唯一残った名称が原爆ドームであり、広島市民の永遠の悲願としての核兵器廃絶の象徴であり続ける。


これのどこを見て平和記念ドームと呼べと言うのか


2000/8/7(Mon)
【アメブロの初記事は2007年3月30日です】



May the world be filled with peace and happiness.
(世界が平和と幸福で満たされますように)


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