DF50-18号機 と 国鉄形DL機たち / 津山まなびの鉄道館 | 安芸もみじ / Photos, Historys, Trains - Hiroshima JAPAN

DF50-18号機 と 国鉄形DL機たち / 津山まなびの鉄道館


津山まなびの鉄道館に保存展示されているディーゼル機関車をUPします。

京都の鉄道博物館は電気機関車やディーゼル機関車よりも、国鉄時代に設立された梅小路蒸気機関車館の遺産が、世界的にも注目されている展示となっていますが。

この鉄道博物館には7形式のディーゼル機関車が静態保存されており、今回はそれらを紹介してみます。



まず冒頭からの3枚は、ラッセルヘッドを装備している DD15形でDD13形をベースに、それまで蒸気機関車によって行われていたラッセル業務を、置き換える目的で誕生しました。

展示のDD15-30号機は、1964(昭和39)年の誕生以来、北陸エリアで任に就いていましたが、2010(平成22)年に金沢支社福井地域鉄道部にて廃車となります。

津山市は鉄道遺産をJR西日本の協力を得て保存し、地域の活性化を促す活動を始めており、2011(平成23)年に甲種輸送によって旧 津山機関区へ供与されました。



続いてもラッセル機関車ですが、こちらはDD16形機関車で、簡易級ローカル線の無煙化を目的として、1971(昭和46)年から1975(昭和50)年にかけて製造されました。

その中で1979(昭和54)年から飯山線と大糸線用として、2・5・4・13号機がラッセルヘッドを着脱可能タイプに改造されて、300番台に区分されます。

前述のDD15形のようなラッセルヘッドを機関車本体に取り付けると軸重が過大となり、簡易級路線への乗り入れができないため、蒸気機関車時代のラッセルヘッドを近代化させたボギー式車両を新規製造して、機関車本体の前後に連結する方式を採用しました。



ラッセルヘッドは動力を持たないのですが運転席は搭載されていて、ラッセル運転室から機関車本体を遠隔制御できるようになっており、車端部に制御回路を引き通すジャンパ栓が増設されています。

この写真右側がラッセルヘッドを連結していない素顔で、このDD16-304号機は全4機の内 最後まで稼働していた機体で、富山地域鉄道部富山運転センターに所属していました。

通常は糸魚川運転センターへ常駐しており、大糸線 糸魚川~南小谷間の除雪を担当していましたが、2015(平成27)年に廃車となって同年8月に津山まなびの鉄道館へ収蔵されました。



上記のDD16形の左隣にいるのは1機のみ試作されたDE50形で、1970(昭和45)年に誕生した幹線用液体式ディーゼル機関車です。

一足先に完成していたDD51形の複雑なシステムから、保守の手間や費用が嵩んでいたため、もっと簡易で高性能な機関車を誕生させるべく、開発された形式でした。

各種試験が実施されて結果は概ね良好だったものの、1973(昭和48)年に第四次中東戦争を機に第1次オイルショックが発生し、投入予定線区の電化計画が立てられたことを機に、幹線用大型ディーゼル機関車の需要が減少しました。



またDE50形の開発によって技術進歩が促され、DD51形で問題となっていたエンジン保守面の不具合やコストは、新型機器の開発で大幅に改善される目処が立ったことから、2号機以降の増便は中止とされました。

さてこの日、転車台に乗っていたのは DD13-638号機でしたが、1967(昭和42)年に日本車両で誕生した機で、吹田第一機関区 → 姫路第一機関区の貨車入替などに従事していたものの、貨物列車削減計画によって1986(昭和61)年に廃車となりました。

廃車後は解体を逃れて大坂交通科学博物館へ静態保存展示されていましたが、2014(平成26)年に閉館するに当たって津山へ移送され、現在に至ります。



B型スイッチャーと並んで展示されているのは、日本全国で見られたディーゼル機関車標準制式機のDD51形です。

津山まなびの鉄道館に静態保存されているのは、DD51-1187号機で福知山機関区そして米子機関区に在籍し、サロンカーなにわを始め数々のジョイフルトレインを牽引しました。

また、旧型客車からブルートレインまで仕業をこなし、輝かしい経歴の持ち主でありながら、1986(昭和61)年に発生した餘部鉄橋お座敷列車″みやび″落下事故の担当機でもありました。



DD51形は主要幹線から蒸気機関車を淘汰する目的で、1962(昭和37)年から1978(昭和53)年までに649両が製造されました。

基本設計は牽引力をD51形以上、速度面はC61形以上を目処に計画されており、1000番台では重連総括運転で電気機関車のEF60形に劣らない性能とされていました。

DD51-1187号機は長く山陰エリアで活躍し、2003(平成15)年にはDD51-1186号機と重連運転で″お召し列車″の役目もこなし、2007(平成19)年に最終配属先だった後藤車両所にて廃車となりました。



さてラストは日本の戦後黎明期に、国産ディーゼルエンジンの可能性を示したターニングポイントとして、工業史に刻まれる機関車 DF50形です。

日本のディーゼルエンジンは、1938(昭和13)年から1944(昭和19)年にかけて生産された、九七式中戦車″チハ″と九五式軽戦車″ハ″が実用化の起点とされています。

当時は世界的にディーゼルエンジンの開発は未熟で、各国の戦車はガソリンエンジンでしたが、資源の乏しい日本ならでわの実用化でした。



小型エンジンは量産に成功したものの、大型エンジンの開発は思うようにならず、性能が安定しなかったために戦艦大和への搭載は見送られて、当初の計画だった速度が出せなかったのは有名な逸話です。

戦後のディーゼルエンジンの開発は、他の工業製品と同様に占領した連合軍によって凍結され、そのまま世界の技術水準の進歩から取り残されました。

1951(昭和26)年にサンフランシスコ条約の調印式が行われて主権回復すると、国土復興と共に戦前の技術の昇華にも着手し、非電化亜幹線の無煙化のため、1957(昭和32)年に先行試作車が製造され、以後1963年(昭和38年)まで増備されたのが DF50形です。



しかし亜幹線の無煙化の面では好評であったものの、製造費の高さの割に必要出力の不足や故障の多発、が足枷となって後発のDD51形に取って代わられました。

晩年は日豊本線において、ブルートレイン 特急富士などの牽引機も務めて人気のあった機関車ですが、国産エンジンによるDF50形があったからこその、その開発経過によるデータのフィードバックが、造船立国ニッポンの礎の一画にもなりました。

DF50-18号機は、1958(昭和33)年に三菱重工業三原工場で落成し、生涯を四国で過ごした後、1984(昭和59)年に高知機関区で廃車を迎えて、同年中に大坂交通科学博物館へ収蔵されましたが、2014(平成26)年に閉館するに当たって、DD13-638号機と共に津山へ移送され現在に至ります。

ちなみにDD51形の模型は津山まなびの鉄道館の展示品ですが、DF50形の鉄道模型とカットモデルは、京都鉄道博物館の展示資料です。


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