D51-2号機 / 津山まなびの鉄道館 | 安芸もみじ / Photos, Historys, Trains - Hiroshima JAPAN

D51-2号機 / 津山まなびの鉄道館


岡山県津山市にある″津山まなびの鉄道館″へ静態保存されている、D51-2号機です。

1号機は京都鉄道博物館で静態保存されていますが、かつては大阪交通科学博物館で両機ともに保存展示されていました。

2号機ということで初期型のD51形蒸気機関車ですが、立入禁止の扇形庫の中に置かれているよのの、1号機と同じ砂箱や給水温め器などを一体カバーでおおわれたスタイルをしています。

通称 ナメクジ形と呼ばれる形状ですが、古い写真などを見るとその独特なシルエットから、ヌメットルマンのようなニックネームは似合わない気がします。


デゴイチはC61形の種車となっているので、 煙室扉をアップで撮影すると、ナンバープレートがないとC61と見間違えてしまいそうです。

それでは今回も日本史のインシデントを併記しながら、D51-2号機の履歴を綴っていきます。

1931(昭和6)年9月18日に滿洲事変、1932(昭和7)年1月28日には上海事変が勃発し、世界中がきな臭い情勢へと向かいつつあった

1936(昭和11)年3月26日 木曜日、 川崎車輌兵庫工場にてNo.1644として落成し、名古屋鉄道管理局 稲沢機関庫(愛知県)へ新製配置されました。


同年9月1日、職制変更によって稲沢機関車は稲沢機関区へ名称変更となります。



1941(昭和16)年12月8日、日米外交交渉決裂によって日本が真珠湾攻撃を敢行。


1945(昭和20)年8月6日に人類史上初の核攻撃をアメリカが広島市へ実行し9日には長崎市へ投下、同日 ソ連(ロシア)による満洲国への侵攻開始。


戦時中はずっと移籍は無く、1945(昭和20)年8月15日の終戦は稲沢機関区で迎えます。


同年8月18日、ソ連(ロシア)による日本侵攻が始まり、北海道の択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島が占領。



D51形は元々、D50形に比べて軸重比率があまり良く無かったため登坂空転が多発する機関車でしたが、戦後の保線資材の不足や技術者不足による整備不良から、脱線事故が多発していました。


1946(昭和21)年頃、初期型から戦時型のD51型はその対策として、コンクリート死重を搭載して、重量バランスの調整が行われました。


1949(昭和24)年9月14日、大垣機関区(岐阜県)へ移籍しますが、翌1950(昭和25)年5月5日付けで中津川機関区(岐阜県)へ転属となります。 


1951(昭和26)年9月8日、サンフランシスコ平和条約が調印され、第二次世界大戦が終結して日本国の主権が回復。



1952(昭和27)年末12月9日、国鉄浜松工場(静岡県)にて、蒸気噴射による燃焼ガスの混合比率可変器の試作実験で、消煙装置の取り付けが行われました。


1953(昭和28)年2月4日、韓国官憲によって日本漁船の船長が銃撃を受けて死亡し、10月15日には韓国山嶽グループが竹島入りを果たして「島根縣隠地郡五箇所村竹島」の標識を破壊した上で「독도(独島)」と書かれた石碑を設置。


翌1954(昭和29)年6月に大韓民国による侵略と占領を公式発表。


1955(昭和30)年4月4日付けで、多治見機関区(岐阜県)へ移籍しますが、同年10月5日には稲沢第一機関区(愛知県)へ転属となります。



1961(昭和36)年3月8日15日の1週間、沼津機関区(静岡県)へのレンタル移籍が行こなわれます。


1965(昭和40)年8月20日24日の4日間、古巣の中津川機関区(岐阜県)へレンタル移籍。


1971(昭和46)年の関西本線無煙化完了に伴って、4月25日より名古屋口の最終SL定期仕業の貨物(588ㇾ~6283レ)運用に就き、稲沢操作場~笹島~四日市間の貨物列車を牽引。


四日市で折り返し、関西本線名古屋口SL営業運転最終便となる、臨時貨物列車 6286レ(四日市→名古屋)を牽引。



同年7月17日付けで長野運転所(長野県)へレンタル移籍され、夏休みの内7月24日8月22日の間、長野~黒姫間にてファミリーデゴイチ号を牽引。


編成はD512 + 旧型客車5両で信越本線を1往復し、長野 12:13発 → 黒姫 13:21着、黒姫 16:19発 → 長野 17:30着でした。


また、ファミリーデゴイチ号は東宝映画″薔薇の標的″にて、走行シーンが撮影されました。


運行終了後、稲沢第一機関区(愛知県)へ返却されますが、書類上のみの返却でD512はそのまま長野運転所(長野県)に常駐し運用に就きます。



実際に帰らなかったのは名古屋を中心としたエリアで、蒸気機関車の運用が終了していたためで、走行キロの使い潰しのための信越本線運用でした。 


同年12月13日付けで廃車となりましたが、書類上は稲沢第一機関区(愛知県)だった故、公式には同機関区の最終在籍SLとなりました。


機体は長野運転所から回送されて、中津川機関区(岐阜県)にて保管留置されました。 


1972(昭和47)年5月15日、琉球諸島と大東諸島がアメリカより日本へ施政権が返還され、沖縄本土復帰(沖縄返還)される。



翌1972(昭和47)年10月、それまで大阪交通科学博物館へ展示されていたC5345が、梅小路蒸気機関車館に移設されることとなり、展示車両の交代機として納機され静態保存されます。 


2014(平成26)年4月6日、大阪交通科学博物館の閉館に伴い一般公開が停止され、しばらく保管備品となりました。


2015(平成27)年3月9日、テンダー・足回り・機体上部の3つに分解され、旧 津山機関区(岡山県)へ陸送された後に組立てられ、扇形庫内に搬入されます。


2016(平成28)年4月2日、扇形機関庫を改修して旧 津山機関区を活用した鉄道博物館″津山まなびの鉄道館″が開館。



常設展示車両として現在に至りますが、京都鉄道博物館へいる静態保存機のD511とは異なり、モーターカーなどの牽引によるレール上の移動は不可能となっています。


ちなみに私が訪問したのは2022(令和4)年7月23日でした。


しかし機関車をレールの上で動輪や車輪を転がせないとは、一体どういう組み立て方をしたのでしょう。


 確かに公共施設などで屋外展示されているものは、基本的に動かす事を前提としていないので、錆びや塗料で固着して動きませんよね。



写真でも判りますが、確かに主連棒など錆びて赤茶色になっていますが、恐らく手入れができないために移動不能なのだと思われます。

さて今日は、インスタグラムのリールから外国の蒸気機関車の、動態保存機を貼ってみました。

ブルーマウンテン&ノーザン鉄道の RDG 2102号は、ペンシルベニア(アメリカ)の丘を登る勾配で18両の客車を牽引していて、山水と紅葉の落ち葉で空転しまくりなのだそうです。

昨年10月の撮影だそうですが、5500hpの大パワーがこの環境下であだとなっているようですね。

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