鉾八幡宮 / 岩国市通津 | 安芸もみじ / Photos, Historys, Trains - Hiroshima JAPAN

鉾八幡宮 / 岩国市通津


今日は8月朔日と言うことで、岩国市通津にある鉾八幡宮(ほこはちまんぐう)を紹介します。

創建は859(貞観1)年で、豊前国の宇佐八幡宮より山城国の男山へ分霊御遷座の途中に、荒波によって風待ちのため通津の浦へ寄港したことから物語は始まるようです。

御祭神は八幡神こと応神天皇を主祭神とし、姫太神瑞津姫(ひめのおおかみたぎつひめ)と息長足姫(おきながならしひめ)命が祀られていると記されています。



この神社を訪れたのは7月10日で、トワイライトエクスプレス瑞風をどこで撮影しようかと考えながら、車窓を眺めていました。

すると通津駅へ到着する直前で鳥居を見つけて、よしあの神社へ行ってみようと相成りました。

以前なら南岩国以西へは目的地不明の旅はできませんでしたが、ICOCAの利用エリアの拡大によって、有人駅がたくさんあった国鉄時代のような旅ができるようになったのは嬉しいところです。



恐らく源氏の守護神であり厳島三女神の1柱である応神天皇と瑞津姫のお導きかも知れませんが、神社へ到着して八幡さんだと知った時にはホッとしたものです。

御神名は存じ上げていても、やはり遠縁の神さんの場合は、いろいろ気を遣います。

ただ不思議だったのは、鳥居の前に御百度石があるんですよねぇ。




元々その位置にあったのかどうかは判りませんが、八幡宮で御百度参りもピンと来ないのですが、鳥居の前と言うことは神社境外と言うことです。

この神社の創建は前述の通り859(貞観1)年と伝わるようですが、貞観年間と言えば時は平安時代で、861(貞観3)年には隕石落下があり、864(貞観6)年の富士山噴火、867(貞観9)年の阿蘇山噴火、869(貞観10)年には大災害をもたらした播磨・山城大地震、そして翌870(貞観11)年には地震による津波災害が山城国を襲います。

播磨国は現代の姫路市を中心とした兵庫県南西部にあたり、山城国は京都府に相当しますが既に平安京が首都として機能していた時代です。




これらの天災はこの神社が創建された以降に発生したもので、御百度参りは元来氏神神社に100日間欠かさず参拝する百日詣と呼ばれていたものです。

いつしか心願成就に100日間通うか100回参拝するか選べる、御百度参りへと変遷したようですが、最古の記述は鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」なので、非公式な呪術として平安時代には広まり始めたものと思われます。

実はこの埃八幡宮の隣には恵比寿神社があり、それはまたの機会に紹介する予定にしているのですが、この御百度石はそちらのものではないかと推測されます。




さて由緒の続きですが、時化の治まるのを待っていた御船のクルーにこの一帯の漁師たちが、この海の守護神によって仰ぎ祀りたいと願い出ました。

しかしその懇願は却下されたものの、その後に御神託があり御船に立て備えてあった矛を下賜され、あらためて八幡神が勧請されて鉾八幡宮と号し奉られました。

これら由緒ある縁起物は1602(慶長7)年5月の豪雨災害で流失しまったそうですが、1592(文禄1)年の文禄の役においては豊臣秀吉(とよとみひでよし)公主催で戦勝祈願の神前相撲が行われたそうです。




境内へ上がると摂社があるのですが、こちらには天満大自在天神(そらみつだいじざいてんじん)こと菅原道真(すがわらのみちざね)公と、正一位稲荷神(しょういちいいなりのかみ)が祀られています。

学問の神さんが登場と言うことで少し話しは逸れてしまうのですが、ある中学校にて中1の中間テストで、″easy″の和訳を″やさしい″と回答したら不正解にされて波紋が起きているそうです。

″優しい″は英語で″kind″ですが、″易しい″は英語で″easy″で合っているので、不正解は間違いですが教師は″やさしい″=″kind″だということで採点を覆さなかったそうです。



確かに模範回答なら″やさしい″ではなく″簡単な″と答えて欲しいところでしょうが、異音同義語によって豊かな日本語は構築されているのですから、そこは教師が折れる必要があったのではないかと感じます。

英語にしろ″ことば″を教える仕事をするのなら、プロとして国語をちゃんと勉強してほしいとの声が上がっていますが、確かに柔軟性のない大人に教育される子供は可哀想です。

私の場合は高IQなのでケースは異なりますが、大人が融通性の無い屁理屈を言っているのに、素直に疑問点や矛盾点を質問したら、反対に屁理屈だと言われていた小学生時代の混乱と重なります。



ちなみにこちらが、鉾八幡宮の境内摂社です。

コロナ禍で撤去されている神社が多い御鈴ですが、こちらの神社では本殿にも摂社にも御鈴がついていました。

神職さんや巫女さんは在勤されていませんが、自販機型の御神籤もあり比較的手入れの行き届いた神社でした。




境内に雑然と物が置かれていたのは、1週間後に夏祭りが控えていたためかと思います。

尚、由緒書きには社殿修繕について1472(文明4)年に釈氏正祐(しゃくししょうゆう・僧籍)によって御神輿が奉納され、1543(天文)年に大内義隆(おおうちよしたか)公によって宮殿修理。

1624(寛永1)年に吉川広家(きっかわいろいえ)公により社殿修繕、1674(延宝2)年に毛利隠岐守により造営、1691(元禄4)年に吉川家喜(きっかわいえのぶ)公、1797(寛政8)年に吉川経忠(きっかわつねただ)公により造営、現在の社殿は1919(大正8)年に造営••••••••と記されています。

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