厳島神社-№5 山口市 宮島町
現在、最南端(最西端)で参拝した厳島神社は、まだUPしていませんが下関市。
最北端で参拝した厳島神社は秋田市ですが、全国500ケ所の総ての厳島を名乗る神社を巡ることはムリなものの、旅先で少しでも訪れれば良いかなと思っています。
D51-200号機の本線復活初列車が、新山口~津和野を往復して帰って来るまでの時間、訪れてみたかったのが山口市の厳島神社と、D60-1号機の静態保存。
山口駅から見て、厳島神社は南東に位置しD60は北西で、全くの逆方向。
滞在時間を考えても、まぁイケるかなぁ~って感じではいました。
この厳島神社の創建年は不明ですが、大内弘世(おおうちひろよ)公が現在の大内御堀に本拠地を建てて、町が整備された南北朝時代の1360(延文5/正平15)年頃と推測されます。
大内氏は厳島神社を深く崇敬していたため、廿日市市の厳島神社御本社より勧請された物と思われ、Bタイプに分類されます。
現在の社殿の中には、多宝塔が納めてあります。
この多宝塔は、厳鳥神社の宝殿として元々高嶺(こうのみね)城内に建てられた神社のもので、高さ1.3mの檜造りです。
構造は二層で下層は桁行一間・梁間一間、上層は12本の丸柱で構成される円形の建物となっています。
製作年代は、建築手法から上層は室町時代中頃、下層はそれより若千新しくなるものと思われます。
高嶺城は1556(弘治2)年、周防国・長門国を本拠とした戦国大名・大内氏最後の当主義長(よしなが)公が築城を始めました。
厳島神社はそれよりも150年昔、1406(応永13)年に第26代・大内盛見(もりはる)公が厳島神社御本社から勧請して建立されています。
高嶺城はその後、毛利家によって完成しますが、関ヶ原の戦い以降に毛利氏は萩へ転封されたため、長い間廃城扱いとなりました。
厳島神社境内には太神宮の御社がありますが、御祭神は天照(あまてらす)大神と豊受(とようけ)大神です。
本来、この地は太神宮の境内で、厳島神社は摂社でしたが、名義は当初から厳島社。
そして高嶺城の厳島神社が遷宮されて、この川向町の厳島社と合祀されてから、厳島神社が主社となり、町名も宮島町となりました。
こちら宮島町の境内も、古来はもう少し広かったようですが、町の再開発や近代化によって、現在の姿になったようです。
社殿の横に山道が見えますが、ここを登ると象頭山の山頂へ行けるようです。
さてさてさて、この2枚の上の写真は、久しぶりにアメーバアプリが自動生成したキメラ写真ですけど。
何でこんなエラーが相変わらず発生するのかは、とりあえず置いといて。
偶然でしょうか、厳島神社御本社の海中回廊の屋根みたいになったので、実際の回廊の屋根を一緒にUPしてみました。
ちなみに、山口市宮島町の厳島神社は、BタイプとBタイプの合祀なので、問題なくBタイプに分類されます。
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ハチに刺されたコト、あるある!
ありがとうって言いたい人・・・・内緒。
砂糖はね、甘いのが欲しいときにはコーヒーに使うこともあるけど。
ってか、ハチミツって使ってると蜜が結晶化して砂糖みたいなのができますよね。
あれを紅茶に入れるの好きですよ。
あっ!そうそう、上のキメラ写真はクリックして画像表示したら、黄色い柄や文字は消えるんですよ。
始めから黄色い柄や文字が、表示されていないブラウザもあるみたいですけど・・・・。