原子力と抑止力・Ⅳ | 安芸もみじ / Photos, Historys, Trains - Hiroshima JAPAN

原子力と抑止力・Ⅳ

初代・戦艦大和

さて今日の写真なのですが、上の帆船の写真は戦艦大和です。

実はみなさんが知っているあの戦艦大和は2代目で、初代の戦艦大和はこんな船でした。

この初代・大和は神戸の小野浜造船所にて、1887(明治20)年に竣工しました。

3本マストの汽帆兼用の鉄骨木皮スルーブ艦で、日清戦争や日露戦争の日本海海戦に活躍しました。

1922(大正11)年には戦艦の任を解かれて測量艦となり、1935(昭和10)年に海軍籍から除籍されました。

その2年後には、二代目の大和が世界最大戦艦として、呉の海軍工廠にて誕生します。

初代・大和は戦勝艦となりましたが、二代目・大和はご存知の通りです。

しかし初代・大和は浦賀港内で少年刑務所の宿泊船となり、太平洋戦争中に老朽化のための解体を行うために、横浜へ回航されましたが、そのまま終戦を迎えてしまいました。

分り易く言うと、初代の戦艦大和は終戦後まで健在だったのです。

結局、1950(昭和25)年に解体されてしまうのですが、ここまで長寿を全うした戦艦は、三笠と大和だけで、わずか3年4ケ月という短命だった二代目・大和とは対照的です。

ちなみに、初代・大和の艦長は、あの東郷平八郎でした。

今となっては、初代・大和が解体されてしまっているのは残念ですが、三笠の方は今でも横須賀の三笠公園で見るコトができます。

もし、横須賀へ行かれるコトがありましたら、初代・大和にも思いを馳せてみて下さい。

話が横に逸れましたが、本題へ入りましょう。

満州での鉄道営業権利を諦めたアメリカは、租借地などによる関税権や郵便権などによって、アジア大陸での権益を拡大していました。

日本に対しては疑惑があったものの、対ロシア政策において、やはり必要な列強国の1つでした。

アメリカが疑いつつも日本を友好国として扱ったのは、日英軍事同盟の存在があったためで、まさか大きな裏切り行為はしないだろうという信用もまだあったのです。

論より証拠と言わんばかりに、大正時代に起こった第一次世界大戦では、イギリス軍の要請によって日本海軍はインド洋ばかりか地中海へも出かけて行きました。

インド洋ではドイツ海軍の潜水艦Uボートの攻撃によって、イギリス海軍は窮地に陥っていました。

実は潜水艦を世界で初めて造ったのは日本でした。

とは言っても、近代的な潜水艦ではなく、豊臣秀吉が朝鮮出兵を行った時代の原始的な潜水艦です。

忍者による"すいとんの術"を、もっと戦略的な武器として開発できないのか?と、試行錯誤の末に完成させた水中航行船でした。

船で上陸を試みると攻撃されるので、水中を進んで兵士を輸送させる…という目的のもので、空気筒だけを水面に出して船体は水の中という程度のものでした。

日本海軍は『もし空気筒を密閉してしまったらどうなるか?』を徹底的に研究し、酸素を圧縮すればある程度の潜水は可能なものの、排気をする方法が無いという結論に達しました。

そこで駆逐艦や巡洋艦を一定時間のダイヤを組んで巡回させました。

堪え切れなくなったUボートは排気のために浮揚し、そこを主砲でぶっ放して、インド洋におけるUボートを殲滅させました。

勿論、現在の潜水艦は化学反応で二酸化炭素を酸素に変換させる(スペースシャトルと同じ方法)ので、給排気のための浮揚は行いません。

ドイツ海軍を殲滅させた日本海軍は、ドイツが占拠していた山東省の青島(チンタオ)や南洋諸島を次々に占領し、太平洋に展開するドイツ勢力を一掃しました。

余談になりますが、この時の捕虜が松山に収容されており、この捕虜収容所のお話しが、松平健が主演した映画・バルトの楽園です。

ちなみに、日本で初めてベートーベンの第九が歌われたのが松山ですし、また映画が日本で初めて上映されたのも松山でした。

この、日本による捕虜優遇は瞬く間に世界中で賛美され『一番遅れて列強入りした国が、世界で一番人権を尊重する』と高く評価されました。

更にイギリス軍は、地中海で尚も手に負えないUボート攻略のために、日本へ遠征を求めてきました。

これに応えて日本海軍は、佐藤皐蔵(さとうこうぞう)少将を司令官に任命し、1917(大正6)年3月7日にシンガポールを出航しました。

日本海軍in地中海

巡洋艦と駆逐艦の9隻で編成されたこの第二特務艦隊は、4月13日にマルタ島へ入港。

2枚目の写真は、その時の写真です。

1918(大正7)年11月の終戦までの約1年半の間に、出動回数348回、連合国船舶護衛788隻という実績を残しました。

この第二特務艦隊はイギリス・フランスから"地中海の守護神"と呼ばれ、先述の松山捕虜収容所の逸話と共に、日本のコトをアメリカ・イギリス・フランスは"世界で一番ステキな仲間"と賞賛しました。

これをきっかけに、日米英仏連合が成立し、ドイツから分捕った青島と南洋諸島は日本領土となり、中国大陸における権益はそれぞれが分かち合おうという気運が高まりました。

この時点でのアメリカによる日本に対する疑惑は、一旦晴れるコトとなりました。

しかし日本国内では不穏な空気が流れ出し、軍部と政府の間に亀裂が走り初めていました。

そしてペリー来航から76年後となる1929(昭和4)年、アメリカ経済が破綻してしまい、世界恐慌が訪れます。

日本はこれをきっかけに、迷走を始めてしまうのです。

-つづく-