宮島大鳥居と赤穂浪士・前編 | 安芸もみじ ─ Photographs, Historys, Railways,-JAPAN┃広島

宮島大鳥居と赤穂浪士・前編

7月23日の月曜日まで放映される、宮島のウォータースクリーンですが、3Dにしてみました。

撮影する時に3Dとして撮ったのではなく、1枚の写真をフォトショップでデジタル処理を行い、立体画像に加工してみました。

右の写真を左目で、左の写真を右目で見て頂くと、中央に立体画像が現れますので、クリックしてからご鑑賞くださいね。

さて…厳島神社を歩くという連載が終わり、一段落しましたので、逸話を1つ公開しようと思います。

本当は、年末まで引っ張ろうかとも思ったのですが、何か記事にするのを忘れちまいそうなので、今やっておきます。

なぜ年末まで引っ張ろうかと考えたのかは、タイトルをご覧になって頂くと、一目瞭然でしょう。

もう1つの忠臣蔵とでも言いますか、討ち入りに参加しなかった赤穂浪士のお話です。

厳島神社は、飛鳥時代の593(推古1)年に安芸の豪族だった佐伯鞍職(さえきくらもと)によって創建されました。

推古1年と言えば、聖徳太子が摂政に就任したと言われている年です。

それから約1400年間、厳島神社は宮島の聖地としてのシンボルとして現在に至りますが、現在の社殿に増改築されたのは、平安時代末期の1168(仁安3)年に、平清盛(たいらのきよもり)によるものです。

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清盛によって造営されてからの約850年間、海上に建つ木造建築が、これまで無傷であった訳ではありません。

戦火や天災、火災などに幾たびか遭っています。

沖に建つ大鳥居もそれは同じで、現在の大鳥居は初代から数えて8代目にあたります。

この大鳥居が建てられたのは1875(明治8)年で、7代目は1801(享和1)年に建立されています。

さて、前置きが長くなりましたが、今回のお話は1739(元文4)年に建てられた、6代目の大鳥居を大普請した人を取り上げます。

1701(元禄14)年3月14日、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)は江戸城の松の廊下で、高家筆頭・吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)に対して、刃傷事件をおこしました。

事件の動機は、未だに解明されておらず、諸説が語られていますが、朝廷から年始の勅使が来城しており、幕府の面子を潰したという罪(また非穢の罪など)で、即日切腹となりました。

幕府は、あくまでも対朝廷の体面事件として、浅野家には藩取潰を発令したものの、吉良家に対してはあくまでも被害者として何ら罰則をあたえませんでした。

当時の法律では、喧嘩両成敗であり、当然のコト吉良家も同等の処分が下らなければならなかったものの、足利尊氏(あしかがたかうじ)の末裔である高家一族の、しかも筆頭家系であるがために、幕府は処分を遠慮したのでした。

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これに怒って、赤穂浪士の内の47人が、1702(元禄15)年12月14日に吉良邸へ討ち入りを果たし、討ち入りをした47人は切腹を言い渡され、吉良家は御家断絶の厳罰が下りました。

余談ですが、討ち入りに出発したのは12月14日でしたが、討ち入った時には日付が変わって15日になっていました。

これが有名な忠臣蔵のあらすじですが、元々、赤穂浪士は308人いたのです。

ところが、浅野家筆頭家老・大石内蔵助(おおいしくらのすけ)が、主君の仇討ちを口にすると、そのほとんどが浅野家を離れてしまいました。

大石は、内匠頭の養子になっていた浅野大学頭長広(あさのだいがくのかみながひろ)を主君に立て、お家再興を働いていたのですが、もしそれが叶わない時には有事も辞さない覚悟だったのです。

しかし、人間が生きて行く上で、美談だけでは一家で路頭に迷わなければなくなります。

当時、幕府によってお家断絶・領土没収をされた家は46藩に及び、約3万人の人が失業(浪人)していました。

お家再興や仇討ちにこだわっていては、住む家どころか食事をとるコトもままならなくなってしまいます。

家財道具や武具を売って、当座の生活費を工面し、明日の糧を得るために、約250人の武士たちは旅立って行きました。

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そして1年9ヶ月後、47士の討ち入りがあって以降、討ち入り組は世間から義士として尊敬され、神のような扱いをされていました。

それとは裏腹に、参加しなかった者たちは、不義の泥水にまみれた裏切り者と蔑まれ、元赤穂藩の家臣だったコトを隠し、氏名を変えて隠れるようにひっそりと暮らす者や、息子が討ち入りに参加しなかったコトを恥じて、切腹する父親などが大勢いました。

生き残った彼らは、世間の冷たい視線から逃れ、日本各地を流浪して生きて行くしかなかったのです。

その中に、内蔵助の叔父・小山源五右衛門(おやまげんごえもん)という人がいました。

彼の娘は、討ち入りをした潮田又之丞(うしおだまたのじょう)に嫁いでいましたが、小山が討ち入りから脱退したために卑怯者の娘として離縁されてしまいます。

娘が不幸になったのは自分のせいだと責任を感じた小山は、広島の浅野本家へ赴き、娘の再婚の縁談をまとめるために奔走します。

しかし生き残った赤穂浪士を相手にするものは皆無に等しく、小山は体調を崩してしまいます。

それでも、娘の幸せのために、方々にて恥も外聞も捨てて、頭を下げ続けました。

そんな小山の必死な願いが通じ、浅野本家々臣・御牧信久(おまきのぶひさ)と縁談がまとまりました。

-つづく-

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