【贈るうた~可愛いあなたへ~】作詞担当
【贈るうた~可愛いあなたへ~】作詞担当
親には親の人生があり、
大切にしたいことが
諸々あるのはもちろんだけど
両親は常に
何かを追いかけ続けていた。
仕事やお金、趣味や遊び、
恋愛、誰かからの承認、
名声、肩書き、自己実現。
親になったのが17歳だから尚更
思い通りには決してならない育児や現実から
逃れたい衝動や不安もあったと思う。
同じ歳の子が高校生活を楽しんでいる中
自分は赤子の世話に明け暮れて
同じことを繰り返す毎日。
稼いだお金は生活の維持に消え、
こんなはずじゃないという疑念が
何かしなければとかき立てる。
手ごたえがほしい。
自分だってもっと出来るはず。
こんなんじゃない何かがあるはず。
認められたい。
誰かに見てほしい。
安心したい。
そんなにも目で追うものが
何かは当時わからなかったけど、
そんなにも大事なものが
私でないことだけはわかった。
私じゃだめなのか、
私ってじゃあ、結局なんなのか、
そんな疑問がずっとつきまとっていた。
子への愛情より自分への愛着、
いわば自己愛に満ちた親にとっての
私はお飾りでしかない。
子どもの為という大義名分のもと
お飾りでいれるうちはまだ良かった。
自己愛の快楽が癖となって
更に更にと外に求めて頑張るほど
ますます置き去りになり、
万能感を渇望する親の
不機嫌の捌け口となって
「私は邪魔だ」
「愛されてないんだ」と
やがて納得するまでに
そう月日は掛からなかった。
親の満足が第一。
子は二の次、三の次。
そんな位置付けを見せつけられて
不安になり、疎外感を覚え、
それが次第に怒りへと変わっていった。
親が自分を第一に優先する姿に
私というものがわからなくなった。
だけど親=圧倒的に大きな世界そのもの
だった子ども時代に
心のなかで渦巻く疑問を吐露することは
自分の生活のありとあらゆる全てを
取り壊すことに直結するから、
口が裂けても
何かを問うなんてことはしなかった。
そして子どもごときが何かを口にしたとて、
何も変わらないことも
容赦なく変わっていくことも分かっていた。
私の言葉は届かない。
小さな自意識に囚われて
自分、自分、自分を生きようとする親と、
そんな親の自己愛に翻弄され
親なしでは生きられないという制約の中で
言葉を失くしていく子ども。
何も言わずに従う子どもを見て
親は何も問題がないかのように思い込む。
目の端で違和感を捉えていても
後ろめたさや面倒臭さから目を背け、
日常から追われるままにやり過ごす。
そして遠い距離のまま
それぞれに時間を過ごし、関係は破綻する。
「仕方ない」って言葉が嫌いだった。
子への尊重も何もないように思える
向き合うことを早々に放棄した
帳尻合わせの一言をただ受け取って、
その言葉の置きどころを探して
何年もふらついた。
何故よりによって自分の親は
こんなにも非力なのか。
怒りが不信に変わり、
笑うことも
本音を言うこともとっくに無くなって
無言のなかで心を閉じた。
良い年齢にもなって
やれ親のせいだ何のせいだと
甘ったれた大人でいるつもりはない。
今まで私の人生は
私の人生であった事がなかった、
と思ってしまう自分もいるからこそ
最後の責任は全て自分に負わせたい。
それなのに
惨めったらしい甘えが抜けず、
ぬるい自分がほとほと嫌になる。
口では決別したと言いながら
無意識下ではどこまでも親を慕い、庇う。
親の整合性を保つ為に
恥や罪の意識に苛まれ
人生の始まりにいてくれた唯一無二の存在が
そんな程度なわけがない、
自分には知り得ない理由がきっとある、
こんな冷たい自分は人でなしだ、
人として欠落しているのではないかと
自分を疑う妄想が消えない。
「お金ができたら迎えに行こうと思ってた」
「こんな親でごめんね」
「大事に思ってたんよ」
数十年後にそう言われ、
親の虚像にしがみついていた
これまでの自分が情けなくて笑えた。
親を見続けてきた子どもにとって
その言葉の温度がどれほどかくらい
容易にわかる。
そんな親に限って
欲を制御できていないだけの
無知な行いの結果を
「波瀾万丈な人生」などとひけらかし
「自分が自分らしく幸せでいることが
結果子どもをも幸せにする」と
言葉の上っ面だけなぞり己に酔う。
当たり前、幸せかどうかは
子ども自身が決めることで
それは親側の都合の良い妄想でしかない。
結局愛されていたことがわかったし、
愛されていなかったことがわかった。
ここから何度でも
立ち上がらなければいけないのは
私の方だと得心がいった。
そんなに自分が可愛いですか。
そして
あの何も出来なかった子ども時代に
何て言ったらいいのか分からなくて
飲み込み続けたこの問いがそのまま、
次に親となった私に
ブーメランとなって戻ってくる。
重さや感触は違えど
息子が私に向けて感じている
“言ってもどうせ分からない”
“どうせ自己都合だけ押し付けられる”と
何か言いかけてうやむやにする感じは
思春期というものを差っ引いても
私が親に向けて思っていたそれと同じだと
気が付く瞬間がある。
繊細で優しい彼は
父や母や、生まれてからあった生活が
変わらないでいてくれることを望んでいたし、
それなのに一番重きを置かれるべき僕が
望んでも叶わなかった、
という無力感や虚しさを
僅かばかりでも既に抱えていて
それが私との距離の取り方や
ふとした時の言葉尻に如実に表れている。
変わってほしいと願う親は変わらず、
変わらないでいてほしいことは
自分の願いなど到底届きもしない所で
確実に変わっていってしまう。
そして常に子はそれに従うしか術がない。
離婚して
私自身は納得感をもって
今まで以上に幸せを感じれるようになった。
後悔したことは一度も無い。
調停中や引っ越す前後は辛かったけど
自分ごとだからいい。
ただ子ども達は
持って行き場のない寂しさに困り、
悲しく、残念だったと思う。
悲観ではなく事実として。
それから続く新しい生活の中で
現状や気持ちと折り合いをつけながら
彼らなりの落としどころを見つけ
成長していってるさまに姿勢を正される。
(とはいえ息子も毎日うるさいくらい
元気にいてくれてるから心配ご無用です。
親というのもまた
不完全なひとりの人間でしかないことが
親になってつくづく分かった。
今までいかに親や自分に
条件付きの愛を課していたのかも。
よき親でありたい。
強くそう思うのに、
こんな自分、
そうとしか生きれない自分がいる。
子に対して親が及ぼす影響の大きさや
かける言葉の重さを散々と感じているのに
子の赦しに甘え、適当に繕ったり
大切なものの優先順位を取り違える。
そうして私が自分を責めたり嫌ったり
自分とは何なのか、
こんな自分に納得する為には
どうすればいいのか、
自分、自分、自分と考えあぐねている間も
子は隣で私を信じ受け入れ続けている。
その思考の渦から抜けたとき、
自分なんてものは無いんだと
僅かに腑に落ちた瞬間、
今までいかにつまらないものを
重要だと錯覚していたのか理解した。
自分を見なければ
それだけで目の前に
幸せを認知できるんだと知った。
それがつまらないものだったと知る為に
私が模索してきたこれまでは
私にとってはとても意味のあるもので、
やっぱり何一つ欠けてもこうはならなかった。
と同時に、
子どもが子ども時代に
ちゃんと子どもであれるかどうかは
親が自分のことをさておき
子の成長と自立を願えるか、
時に辛抱し、譲歩できるかと
イコールであったりもするのだと
改めて感じいった。
行き過ぎた自己愛を抱えた親が
取るに足らない自意識の満足のために
己の穴埋めに夢中になるとき、
その穴を埋める土は結果
子の心から削いでしまっていた
ということが往々にしてある。
そしてそれは求める限り
永遠に埋まらず際限がない。
そんな場所から
子が自分を打ちたてて
親との癒着を剥ぎ、
自分を許すまでには
気が遠くなるような葛藤を
繰り返す羽目になる。
親が信じる愛情や
できることはやったという自負は
自己満足でしかなく、
理解してほしいと願うのは傲慢で
子の思いをわかろうと努力し、
わかったことに対して逃げずに
親であり続けることが務めだと
現時点での自分にそう思う。
どこまでいってもこんな自分で
おめおめと生きていくしかないのだけど、
子に親の尻を拭かさせない為にも
私が私を許すことをやめてはいけないし
優先順位を問いながら
日々の態度を選択していきたいと思う。
いつにも増して支離滅裂だけど
気張っていけよ、親でしょう。
という、自分への覚え書き。
前にディズニーのプリンセス系の映画を
娘と改めて総ざらいしたんやけど、
一貫して同じ結末と今更気付いて
わー。すごー。ってなった。
シンデレラも
美女と野獣も
眠れる森の美女も
白雪姫も
リトル・マーメイドも
ラプンツェルも
色々困難はあったけどそれを乗り越えて
最後は王子様と結ばれ結婚。
結婚がいかにも幸せの象徴だった。
そして本当の修行は
これからだということを一言も告げず
めでたしめでたしと打ち切る。←
今の私の趣味の一つが
大東亜戦争の背景を知ることで
「虫も殺せないような気弱で優しい人間が
どうして戦場で戦う事が出来たのか」
を紐解いてくと
必ずそこにはプロパガンダもあって
人間って本当に
知らず知らずのうちに影響されて
それを“選択の自由がある中で
自ら考えて選び取ったもの”だと
簡単に思い込んで
形成されていくんやなと
興味深く感じることがあって。
ディズニー映画も確かに。
ウォルト・ディズニーさんやもんな。
と、目を輝かせて
「面白かったー♡」と感動してる娘を見ながら
一人しみじみ納得してた。
プリンセスも可愛くて
なんか充実してて幸せそうで、
正義感、倫理観のある
ちゃんとした素敵な大人が選び取るもの
=結婚と、子どものうちから
いつそうなったか知らない間に
憧れや意志を持たせやすい。
実際には地味で平坦で
大変に思う事も多々あるけど
素晴らしいものには変わりないし。
子孫繁栄、経済を活性化する為にも
結婚してもらうことは
どの国にとっても重きをおいてきた案件だし
子を生み育て、家族の為に
より良い暮らしの為に頑張って働いて
結婚って素敵なこと、
子を持つことが何よりも幸せ、
ついでに家を建てると更に幸せ。
プライスレス、
人生の意味、
そこにこそきっと答えがある。
そして現状に満足せず
向上心を持って
進化し続ける大人はかっこいい。
問題は一つ一つしっかり解決して、
あれとこれも所有して、
必要とされる人間に。
より良い環境、
より良い教育、
さらに高みへ、と。
大変だー。
継続や達成が簡単ではないものほど
それに価値や意味を付随したがる。
私も大人になったら
当たり前に結婚すると思ってたし
理由なんてよくわからんけどみんなしてるし、
結婚してやっと
一人前になったねって認められる感もあるし、
とりあえず一回はしとかなきゃ的な
知らないうちにこういう所からも
しっかり影響を受けてきたんやなと。
そしてそういう視点で見返すと、
私が真に自分の内から選んだものって何やろ?
自分で考えて、選んで、
行動してきたと思い込んでるだけで
そんなもの実は一つも無いんじゃないか?
って疑問に思った。
話が前後するけど
以前まりあさんに
「そう思ってる、と思い込んでるだけで
ほんとはそんなこと考えてもいない。
それはあんたじゃない。」
と言われて、
どういう事なんやろって
数ヶ月ぐるぐるし続けてた時に
「わ!これ私じゃなかった!!」と
“自分”と思っていたものが
剥がれ落ちた瞬間があって
本当の?本質の?
そう言われているような
“何者でもない空っぽな私”
みたいなのを体感したんだけど。
この時の。
それはもう
今まで立ってた地面が
崩れ去ってしまうような驚きと
そしてやっと
「これやったんか!!」
っていう納得感が嬉しくて、
それでいて
本当の自分も何も
自分が自分でなかったことは
一瞬たりともなかったんだ。
という、なんやろ。
何とも言えずに胸いっぱいで
感極まったんだけど。
(その続きを早く
書き留めとかなきゃだった。。
そしたら次は
「そもそもそんな
“自分”なんてものはない。」
という言葉にぶち当たり。
え。。
じゃあなに。どうすれば?
あれ、分からん。ってなって。
(言葉足らずで意味不明ですみません。
とりあえずその瞬間を経験してからは
“これは自分の思考、感情ではない”
ってことが分かってきて、
表面的なことを少し挙げるだけでも
例えばあの人好き、この人は嫌いとか
お金がないのは嫌とか
健康でいたい、病気になりたくないとか。
痛いのは嫌やけど。
生きてることが幸せ。とも思ってないし
生きるって大変。とも思ってなく
家族が大事とか
仕事が大事とか
繋がりが大事とか
自分が思ってると思うほど思ってない。
思ってる、と思い込んでるけど
それは単に今まで生きてきた中で
都度出会ってきた価値観を
取捨選択した寄せ集めであり
それぞれが個として存在している、
という概念を前提とした
色んなものへの表面的な執着で
実際にはそんなふうに
思ってもなかったってこと
よく見てみると膨大にある。
思ってなかったと“思う”ことすら
“思ってる”時点でそれも違うけど。。
私が思おうが思わなかろうが
分かろうが分かるまいが
理由なくただそれがそう、
これがこう、とあるだけで
もっと言えばプロパガンダなんてのも
「コントロールしてる、されてる」
と思ってるだけで
人間ぽっちがそんなこと出来るわけもなく、
何の影響も及ぼさないのに
過去や未来や意思や人生や命も
自分のものだとか
どうにか出来ることだと思ってることが
そもそもの不自由の始まり
みたいなことらしいんだけど。
そういうふうにみると
ものすごく色んなことが腑に落ちる。
横に逸れました。
それで、現時点分かってることは
「私はこう感じている」
「私はこういう人間だ」と思ってた、
けど違った。ということ。
そうか。
じゃあ私って、、、
何だ?
としばらく路頭に迷ったんやけど
もう思考の渦に自ら飛び込んでいって
何をどういくら考えても
その中にはなんにもない事が分かったし、
私が、私は、私の、と
自分らしきものに矢印を向けて
考え続ける無意味さにようやく得心がいった。
分かろうとしなくても
こうなろうと足掻かなくても
そんな私の都合に合わせたものではない、
人の都合なんて一瞬たりとも入る余地のない
完璧としかいいようのない今の
この瞬間の事実を受け取る以外何もなく、
受け取ろうと思わずとも
既にそうでしかないわけで
もうだから
沢山の知識や道理の方に
自分を合わせるんじゃなく、
(合わせてる感覚はないから難しいけど
考えのなかに
答えを見つけようとすることから離れて
自分が事実今ここにこうしている、
という事を感じる以外ないんやなと。
‥聞き飽きた言葉やけど。
というわけで、
というわけでもなく、
ヨガ始めました。
この思考ばかりごちゃごちゃと
こねくり回す石頭が
落ち着いて今ある事実だけをみて
身体の活動を感じるには、
今あるだけの呼吸や感覚に集中するには
なんとなくヨガかな、と。
重力に完敗し続けてるお腹やお尻の肉を
そろそろどうにかせねば
ってのももちろんあり。
理由なんて全部後付けだけど。
やるとなればとことんやりたくて
数ヶ月必死に基礎から学んで
練習を重ねて
思ってた倍の倍の倍
頭も体もしんど過ぎて
グチグチ言いながら泣き←
(しんどくなるまでやるのは
ヨガじゃないよと諭されつつ。笑
未だそんな
身体を動かすことは好きじゃないけど
インストラクターにもなりました。
今までと少し違う自分が不思議。
なんかこうやって勝手に自然に
ドミノがパタパタと倒れてくように
人生って流れていくんやなと
面白く感じております。
ヨガでポーズをとる時
床を強く踏みしめたり
呼吸を整えて瞑想する時感じるのは
“今はまだ満足できない”
といった思考を
勝手に自分の中に作り上げて
「あれしなきゃ」とか
「こうしたい」とか
それに向かっていこうとしてしまうけど
他に行くべき場所なんて
どこにもないということ、
この瞬間以外の場所はないこと
ここで、腹を据えること。
そして五感だけで
ひたすらに今ある事実だけに触れること。
それしかないこと。
それはつまり
ここにいていいんだ。という、
いいとか駄目とかそんなのじゃなく
そうだったんだ。っていう
圧倒的な幸福感というか。
そういった私都合の解釈で
ものすごく満たされた気分になる時もあれば、
「さむ‥」
「動きたくない」
「ねっむいわー。だるいわー」
「トイレ先行っとけばよかった」
とひたすら雑念にまみれたり、
浮かぶままに「そうか」と受け取り
「そうか」と受け流し取り合わず。
最近息子が思春期に差し掛かって
まるで一人で育ってきたかのような物言いで
生意気な口をきいてきたりもして
「お前のおむつを
何千回変えてきたのは誰じゃー!!」
って腹が立つんやけど、笑
私もそれと一緒なんやなと思って。
まるで個として確立して
存在してるかのように
あれが嫌だの
これが欠けてるだの選り好みして、
何をごちゃごちゃ
言おうが悩もうが足掻こうが
事実は変わらない。という安心の中で
浮かぶままに
訳の分からんことを好き勝手言いながら
ただこうしているんやな、と。
だからこうして
訳の分からんことを好きなだけ言いながら
ただこうしていたらいいんやな、と。
最近はこんな感じで
少し変化しながら、
なんにも変わらないまま、
相変わらずにやってます。
数年ぶりのこの続き↓
自分でも忘れすぎてる。
とにかく、意味不明に
どうでもいいことにまで
心を乱される私のしょうもなさというか
自分の趣味、世界観とは違う
特定の人に対しての
拒否感の酷さとか、
=その人と自分をわざわざ線引きして
相手を否定しなきゃ
自分の立ち位置の安全性すら
保てないと思ってるんであろう
自分の脆さとか、
そのカラクリを
言葉とか上っ面では理解できるのに
自分の中にいつまで経っても落ちてこない
気持ち悪さもありつつ、
そこにしがみ続けてしまう自分を
どうすれば引き剥がす事が出来るのか、
そういった混沌とする自分への疑問と
腹立たしさと
「だから私はミミズなんです」
っていう戯言を
まりあさん達の前にひたすら並べて
聞いてもらった。
自己嫌悪や自分責めみたいなことで
深刻ぶる事は無くなったけど、
「抜けた」と思っても
いつの間にか同じ場所に戻ってたりして
「またここか」ってうんざり&失笑だし
自分の内側で
自分にも説明できないことがある
もどかしさというか
言葉にできないこれを
どうにか言語化したい、
知りたいという欲求が強く。
そしてやっぱり
自分に納得感を持ちたい。
という願望がずっとある。
こんな自分であることに
くつろいでみたい。
それってじゃあ
先の人達が口を揃えて言うように
今すぐここで
そう在るしかない話なはずなのに
「これがこうだから」と
色んな所から理由をかき集めて、
それはやっぱり
自分を足りない者として
わざわざ認定し続けているからこそで、
この満たされなさ、
そしてそれを補おうとする様が
まさに自我の思うつぼというか。
で、ひたすら自己紹介的悪口や文句を
思いつく限り並べて
お腹の中にある幼稚で黒いもの全出しで
聞いてもらったんだけど、
散々聞いてもらった結果
「それ全部ももこじゃないね。」
って言われたの。
え。。
。。。何が?
どこがですか?
どういう事ですか状態。
私が熱弁してるこの不平不満たち、
全部私の言葉ではないと言うわけ。
そんなことあるかーーーい
って思ったよね。
いくら敬愛するまりあさんとはいえ、
何をおっしゃるんでしょうかと。
わたくしこんな自分で
39年やってきており、
この私が私でないなら
これ以外の私なんて
見たことも聞いたこともなく。
この私が私である故に
こんなにも
頭を抱えているんじゃありませんか、と。
変えたくても
抜け出したくても
どうしようもなく鎮座し続ける
この自分が自分でないなら
そりゃ私だって
その方がどんなにいいか。なわけです。
意味が分からない私に
被せてまりあさんは
「あんたは全部分かってるし、
ちゃんと全部許してる。」と。
分からなすぎて固。
簡単な日本語なのに、
意味が全く分からない不思議。
こんな自分のことや
ほんとのほんとのことを分かりたくて、
「わかった!」ってなっても
出口は全然出口じゃなくて、
一生マトリョーシカは続いてて🪆
イライラやモヤモヤと共に
何十年持ち続けてる
“お前は何も分かってない感”、
寝ぼけたままアホみたいに生きてる
脳のないミミズ。
に向かって
「全部わかってる」とは。?
腑に落ちるところと言えば、
これまで生きてきた中で
“私は私でいる気がしない”
というモヤモヤを
ずっと持ち続けてきたな、ということ。
まりあさんが言う
「それはあんたじゃない」が本当なら、
この、私が“私でいる気がしない”
モヤモヤも辻褄が合う。
(‥ちょっと待ってこれ
書き始めたはいいけど
色んな角度から話を聞いてもらって
膨大な言葉の果てに見えた
切れ間のことやから
まとめるの難しいと今頃落ち込む。
とりあえず
差別的、排他的で
お腹の中が真っ黒な腐った人間
と自分のことを思ってる私に
まりあさんが返した言葉を
箇条書きにしてみる。
◯嫌いと思うものを受け入れられない、
キーッてなるのは
同時に「受け入れなければならない」が
発生してる。
そのことを考えてる時
その延長には
自分が本当にちゃんとやれてるか、
正しく出来てるかって
自分のことを裁くいつものストーリーがある。
◯受け入れられるものと
受け入れられないものがある、
という世界にいて
「だってほらお前
これ受け入れられないでしょ?
受け入れられないってことは
それは愛じゃないんだよ」とか
「そういう風に考えてしまう私」
という夢を見させられてるだけ。
それは自ら執着しにいってる
エゴの望んでる罠。
「そう思っちゃう」じゃなくて
「そう思っちゃう私なんだ」
という夢を見てる。
考えてもいないことを
考えてると思い込まされてる。
◯で、そうやって
「どっちなんだ」って選ばせたり
出来ないって自分を責め立てることで
今まで父や母に操を立て
自我を保ってきてる。
そういう自分がいるって
思わされてるだけで
それはももこじゃない。
◯そもそも本当は
そんなこと考えてもない。
考えなくていいことだと知ってる。
◯それは自分の
“愛したい”の裏返しでもあり
全部を受け入れ許すのが愛なのに
それを受け入れられない自分は
器の小さいすっとこどっこいや。と
毎度恒例のももこマジックが発動してるだけ。
そこにキーッてなったり
固執してしまうことが現れた時に
そう思ってることが嘘やと気付いてほしい。
(そのことを考え“させられてしまってる”
◯ももこの本質としては
仲良くしたかったし、
受け入れられたかったし、
拒否したいわけじゃなかった。
から、相手を責めるんじゃなくて、
自分にも何か原因があったと
考えざるを得なかった、的な。
でも重要なことは
現実、事実にはもう、
こんな考えにしがみつかなければいけない
ももこはいないということ。
というか、そもそもそんな
黒いももこは存在してなかった。
こうした思いは消えない、のではなく
毎瞬消えていくのに
私たちの方がそれにしがみつき、
何回も何回も同じ思いを新たに作り出しては
そこに執着している。
自分を叩き潰したい、のではなくて
私は自分を叩き潰したいんだ、
と自分に思わせたいだけ。
そう思ってないと不安だから。
だから大事なことは
そう思ってしまうことに
意味を見出さないこと。
そもそも全部が嘘で
1回もそんなもん存在したこともないものを
そうかもしれない
そうに違いない
でも悲しい
とか思わされてる
このゲームに気づくこと。
頭や心が、余計な事を言わなくなる事はない。
大事なことは
それが嘘だと知って、
それが来た時に取り合わないこと。
事実を見る。
起きてる事を見る。
あなたの感じたことに
黒い、と囁くのは思考(心、エゴ)の仕業。
それは嘘。
◯嫌だなと思うことはあっていい。
好きじゃないと思う物や人はあっていい。
全部肯定的でなければならないと
自分に背負わせているから
否定的なものが浮かんだ時に
過剰に反応してるだけ。
自分を裁いてるから、そうなる。
否定的な事を思うことを禁止してるから
そこに張り付いて
ずっと嫌な気持ちを膨らませてしまう。
否定的な事思ったら
思って当然だと思っていい。
黒いももこなんかいない。
あんたは白い。
白いからそんな事を自分に課してる。
生まれてこのかた
自分を黒だと思って生きてきた私に
「それは違う。
あんたが黒かった時なんて一度もない。
あんたは優しくていい子やんか!w
純粋な白やんか」
と繰り返し言ってくれて、
そしてそれに
「いやいやいやいや!笑
それは単に私が
まりあさんの前で猫被っとるだけで
ほんとはほんとに黒なんですって!」
と被せ続けるという
面倒臭い頑固なミミズ劇場。
本当に申し訳ありません。
だから何ゆえそんなに
自分を裁き続けなきゃいけないのか。
ってことで。
飽きるほどやってるのに、
しっくりこなくて居心地悪いのに、
まだ飽き足らず居続けてしまう
このループ。
私の中では
この「私」で生きてきた感じがするから
この私以外の私を知らないし、
なりようがない、
抜けようがないというか。
じゃあどうすれば?っていう
39歳自分迷子。
白髪は日々見つかるのに
自分は見つけられないという哀しさ←
難しい、難しいと苦悶しながら
まりあさんの言葉を
30回、40回自分の中で繰り返す。
分からないことを繰り返し聞く。
で、数ヶ月。
なんとこの石頭人間に
腑に落ちた瞬間があったの。
「わかった」瞬間があった。
びっくりした。
目から鱗というか
ぶ厚い霧が晴れて
あれ!今目が覚めたわ!みたいな感じ。
全私が号泣。
本当に
まりあさんはやばい。(小2感想文
つづく。
いつ終わるんでしょう‥
👧🏻
このクリーン命な社会の中で
悪口満載のお話になりそうで
すみませんなんやけど。
そしてこれ、
書いたところで損しかないと
思ってしまうけど🫠
絶対これも
そのうちすっかり忘れてしまうであろう
意味不明な自我の話やから、
覚えとるうちに残しとこうと思います🫡
おしさしぶり
私、自分のお金で
生活するようになってからかな?
たぶん17,18歳くらいで
自由なお金を持つようになってから
特になんやけど。
今の今までずっと自分のこと
差別的で排他的なミミズだと思っていて、
それがめっちゃ苦しかったの。
そう私、
“これが私”だと思ってた自我は
ほんとに普通に(?)人を差別して、
自分の物差しで人を分類して
あの人は馬鹿だ、
しょーもない、
嫌い、
あんな人と
一緒だと思われたくない、
だから関わりたくない。
みたいな。
言うだけ言って落ち着いたあと、
そんなふうに言っちゃう
自分の小っささに心底嫌気がさす。
のに、やめられない。みたいな
まあまあとても
面倒くさい持病があったの。
あんまり過去形でもないんだけど。
ねずみ飼いました。
幼少期は散々惨めで
自分の存在が恥でしかなくて
何年も何年も底辺を彷徨って
いつ死ねるのかばかり
考える子どもやったから
勉強も何もかも
ほんとなんにも出来なくて、
だからクラスの子一人残らず眩しくて
普通に生活できてることが羨ましくて、
誰に対しても
四方八方から劣等感が発動して
ほんとに自分のことが
嫌いって言葉じゃ表せない程
憎いし気持ち悪いし消滅してほしかったし。
そんな感じで
みんなが必死になる受験の年になっても
教科書一つ開くこともなく、
こんな馬鹿なドブネズミが
今更頑張ったところで何にもならんやん。
何を頑張ったところで
結局無力を思い知らされるだけで
そんな惨めったらしい自分を
二重三重となぞってたまるか。って
一生懸命防衛線張って
そのうち早々に働き出して。
そしたら
今まで絶対に敵わないと思ってた、
どう足掻いても
何を取っても勝てないと思ってた
「成績が良くて
先生からも誰からも好かれる
育ちのいい優等生」より
なんなら私をクズと呼んで
「お前みたいなもんに将来なんかない」
と吐き捨てたあのミミズ先生より
あれ、私の方が全然稼げてるやんか。
ってなった時に
え、そうなん?
世の中ってそんなもんなん?
って拍子抜けして。
これまでの規律正しく狭い世界での
ルールや基準、常識と、
自立して世の中に出たそれとは
全然また違うんやと知って
劣等感の塊やった私は
生まれて初めて
胸がすっとするような優越感を感じた。
劣等感も優越感も
どちらも正体は同じだろうが
それなら優越感を味わってる方が
よっぽどいいやん、と
こんなドブネズミでも
世間に通用する物差しはあるんだ。
って、初めて力を得た気になった。
そしたらもう、
あとは足りない足りないと思ってた
自分自身に詰め込むように
買い物依存みたいになったり
派手に遊んでみたり
“惨めで気持ちの悪いほんとの自分”を
どうにか誰にも気付かれないように
とりあえず自分を高く見せるものを欲しがり
私を下に見たあの人には負けない。
もっと色んなものを所有して
舐められないようにしなきゃ。と
虚栄心の奴隷になってた。
けどどう頑張っても結局あの、
あの時のクラスの子達の誰にも
勝ったなんて思えなかった。
「なんだかんだ言っても
結局今のこの世の中は
お金がものを言うわけで、
じゃああんなに頑張って勉強して
良いといわれるとこ就職したのに
安月給で時間もなくて
難しい顔して働いてばっかのあの人達より
遊びながら好きな時に仕事して
余裕ある私の方が断然幸せなんじゃない?」
と思いつつ、
そしてそうやって
何事にもひたむきに
真っ直ぐ生きてるように見える人を斜に見て
「生真面目で愚直なそういうとこだわ。」
と嘲りながら、
心の裏側では
「そういう私はまともじゃない
ズルい横道ばっか通って
騙し騙し生きとるだけやし
こんな人間が普通の人のフリをして
この世の中に紛れ込めとるのは
小賢しい横着者やからこそやし
やっぱり自分はどうしたって
ドブネズミでしかなく、
このドブ臭は消えんやん。」って。
結局先の人達が言うように
お金を手に入れたところで
幸福度なんて大して変わらない、
ということが腑に落ちただけだった。
大した額ではなかったけど、
当時の私にしてはでかいお金だったから。
私が欲しかったのは
お金ではなく安心感であり、
よしとして認め許されることだったし、
実際そういう意味では
私はお金に興味ないんやなってよく分かった。
だからあっという間に
上滑りな自分も虚しくなって
お金に付随する幻想が
ある程度消えたんだけど。
それが22、3歳の時。
本題はここからなんだけどね。←
世の中結局お金だと思ってた時は
自分より稼ぎがないのに
張り合ってくる人間に対しては
ある程度下に見てたし、
稼いでからもの言ったら?
みたいなミミズだったんだけど、
(それはそれで全然ありだけど
それちょっと違うな。
ってなってからは
「自己を肯定したい
=とりあえず金持ちになりたい」
的な人に引くっていう。
なにこれ珍百景。
なんていうか
それに留まらず、
今でいうキラキラ女子とか
億女?的な
稼ぐことを目的とする集団とか
それに憧れる腰巾着的人々とか
ワクワクとか引き寄せとか
ドーパミン中毒で
上昇志向を人にまでふっかける
そういうテンションの人達に対して
寒いなって思ってしまう。
んだよね。。
超個人的見解の印象の感覚の主観、
というか妄想だけど。
そうかと思えば
反対にスピに偏る人にも反応する。
これも主観でしかないけど、
スピに偏る大半の人が
持って行き場のない諸々
(不甲斐なさなり恥なり恨みなり)を
スピを知ったことで
自我の都合に合わせて歪めて解釈して
己を納得させてるだけのように
見えるんだよね。
それで終わればいいのに、
更にそれをあたかも
“私は全てを知って分かってる”
かのように振る舞うさまが
薄ら寒く思えてしまう。
何でもかんでも感謝病とかも。
見て聞いて読んでる側も、
馬鹿じゃないから
その奥にあるものくらい
透けてみえるわけで。
あんたのそれは、
自我の防衛でしかないんじゃない?
そうくるならまずこの、
今生きてる世界で人間やってるんだから、
そうするしかやり場のない己の方を
どうにかしたらって思ってしまう。
んだよねぇぇぇ。
白目。
別にいいやん。
人は人なんやから。
私とは趣味が合わないね、終わり。
で済むことなのに、
「それ変ね。」って
言わずにはいられないの。
普通に生きてたら
絶対出会うことはない人達で、
別に関係もないのにこうやって
どうでもいいはずのことまで
手に取ってしまう。
それでこうなる構造は
頭では全然分かるわけ。
勘違い女が嫌いなのは
自分のことを誰よりも
馬鹿なくせに勘違いするなよって
見張って戒めてるからこそだし、
この自我の安全性を保つために
人をジャッジして
「あんな人よりは私はまともだ」
と言い聞かせてなきゃ
不安でやってられないんだろうね、とか
過去の色々を握りしめてるだけで
何にせよ
まだ自分を叩き潰したいんやなとか諸々。
でもどーしても
実際にそれを剥がす
とっかかりが掴めなかった。
お前はなんにもわかってない感が
一生付き纏ってた。
で、「そんな時にはまりあさん」
という言葉があるように
まりあさん達の前で
ぶぅわぁぁぁああああーーと
私のお腹の中の黒いものを広げて
このしょーもない泣きごとを
聞いてもらってきた。
それはもう、
ちっさい自分が恥ずかしくて
言いながらめっちゃ凹んだ。
つづく。

















