なでしこジャパン ナンバー8 宮間 あや の、小学5、6、年の頃。 | 宮間文夫 オフィシャルブログPowered by Ameba

なでしこジャパン ナンバー8 宮間 あや の、小学5、6、年の頃。

全日本女子サッカー代表チーム、通称 なでしこジャパンは、昨日、FIFAワールドカップドイツ大会出場の為、


日本を出発致しました。その中の一人、ナンバー8 宮間 あや は、千葉県山武郡大網白里町立白里小学校、


および、白里中学校の卒業生です。  今回は、前回にひき続きまして、あや の小学校高学年の時のエピソー


ドを書きます。あやが、五年生の時、アメリカで開催された、ナイキサーフカップ国際大会に日本選抜チームの


メンバーに選ばれた事が、あやのサッカー人生に大きく関係している事は、間違いありません。


後の血反吐をはくような、苦しみを味わう時も、この、人生最初の海外遠征の時の監督である、本田美登里さん


、との出会いが無ければ、今の なでしこジャパン 宮間 あや は、誕生しなかったと思います。


一回目の海外遠征ですが、私 父親であり、偶然 あや の才能を見つけさせられてしまった、太平洋に隣接


した、九十九里は、白里の少年サッカーチームの指導者だった、 みやま文夫も同行しました。


まず、驚いたのは、会場となった、カリフォルニヤ州サンディエゴのポロ競技場の広さでした。


正式なサッカー場が十八面、もっと驚いたのは、雨のほとんど降らないところなのに、その日のゲームが終わる


と、スプリンクラーが芝生に水を満々とまいている。遊びにお金をかける文化でした。


日本女子チームは、よく健闘しましたが、決勝トーナメント進出は、果たせませんでした。


しかし、世界中のナショナルチームの同じカテゴリーの選手との、ゲーム体験は、貴重なものだったはずです。


今、ワールドカップで対戦する国の選手の中にも、あの大会に出場した人が、いるはずです。


アメリカチームとのゲーム終了後、負けて泣きくずれている日本チームのメンバーをどうしたの、どこか痛い


の?と心配しているアメリカチームの女の子の姿をみて、ゲームに対する文化の違いを感じました。


次回は、あや が、六年生になり、中学生の大会に出場するようになる頃からの事を書きます。