今日の京都2月15日(木) | 都のかほり日記

都のかほり日記

京都、奈良、滋賀、神戸、東京。私のテリトリーです。
そこでのさまざまな出会いを綴っています。
仏像が大好きで、美味しいもの、スィーツ、美しいものが大好き。あちこちと出没しています。

おはようございます。
昨日、京都では震度4の地震が起こり、肝を冷やした方もおおかったのではないでしょうか。
今年、元日の能登半島地震から地震の恐ろしさ大変さを目の当たりにしているので、恐怖は募ります。
改めて、備蓄と揺れが起こると家ならばどこに逃げると考えておくといいかと思います。能登半島地震でも、繰り返し津波が来たらどこに逃げるという訓練を毎年行っていたので、地震が起こると、住民のみなさん、素早く避難なさったとか。
自然災害は来ないことがいいですが、頭の片隅に考えておく方がいいですね。


出典日本気象協会


また、昨日は季節外れの高い気温になったところが多く、各地で春本番の陽気となりました。
今日は、昨日よりも気温は高くなり、ところによっては春一番が吹くのではという予報です。



出典日本気象協会


さて、今日は京都にゆかりのある西行と兼好の忌日です。

【西行忌、円位忌】


西行

出典Wikipedia


西行(さいぎょう、元永元年〈1118年〉 - 文治6年2月16日〈1190年3月31日〉)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての日本の武士であり、僧侶、歌人。俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。西行は号であり僧名は円位。後に大本房、大宝房、大法房とも称す。

西行
出典Wikipedia

西行の名前を初めて知ったのは、その和歌からでした。
特に、「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月の頃」(願いが叶うなら、春、満開の桜の木の下で、満月(2月15日)のころに死にたいなあ)という和歌に、憧れの念さえ覚えました。しかも、その歌を詠んだ十数年後、その思いを遂げるように願った2月16日より1日遅れの2月16日に亡くなっています。実際の忌日は明日16日ですが、この歌より、今日が西行忌とされています。
2月15日は釈迦入滅の日であり、この前後に亡くなることは仏教の修業をする者にとっての憧れだったそうです。
私も願わくば桜の季節、桜の花を眺めながら、この生を終えることができればと思ってしまいます。

【西行とはどんな人】
西行は歌人として、『新古今和歌集』には最多の94首が入選し、その名を残しています。元は、北面武士(11世紀末に白河法皇が創設した、院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員された。)だったということと、22歳という若さで出家したということが、どうしてと興味を引きました。
平安後期、北面武士と、いうのはエリート中のエリートでした。なんと、北面武士では平清盛と同い年だったそうです。
そして、白河法皇のお好みで北面武士には武勇、和歌の素養に加え、容姿端麗が採用条件だったとか。西行は、今でいうイケメンだったようです。

【西行出家の謎】
西行が出家をしたのが23歳、結婚して二人の子どももいました。
北面武士のエリートがなぜと誰しも思ったようです。
出家した理由として
(1)仏に救済を求める心の強まり(2)急死した友人から人生の無常を悟った(3)皇位継承をめぐる政争への失望(4)自身の性格のもろさを克服したい(5)“申すも恐れある、さる高貴な女性”との失恋。
と、いう説があります。
西行は出家を前にこんな歌を詠んでいる。
『世を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ』
(出家した人は悟りや救いを求めており本当に世を捨てたとは言えない。出家しない人こそ自分を捨てているのだ)
その当時の内大臣・藤原頼長(後に保元の乱で敗死)は日記に「西行は家が富み年も若いのに、何不自由ない生活を捨て仏道に入り遁世したという。人々はこの志を嘆美しあった」と記しています。
とはいえ、西行が延暦寺など大寺院に出家したのではなく、どの特定の宗派にも属さず地位や名声も求めず、ただ山里の庵で自己と向き合い、和歌を通して悟りに至ろうとしたのも不思議に思われたのです。

『西行物語』や『源平盛衰記』という書物には「同僚が亡くなって世の無常を悟ったらしい」「いやいや、高貴な女性に叶わぬ恋をしていたんだよ」とさまざまな推測が書かれています。

『源平盛衰記』には西行の歌としてこんな歌を載せています。とはいえ、この歌も西行のものか定かではありませんが。

「思ひきや富士の高嶺に一夜寝て 雲の上なる月を見んとは」
(高嶺の花だと思っていたあなたと一夜を過ごすことができるなんて、思いもよらないことでした。富士山よりもさらに高い、雲の上に浮かぶ月のように、あなたは私にとって遠い存在です)
と、この高嶺の花とされた女性、鳥羽天皇の中宮「待賢門院璋子(しょうし/たまこ)」とも言われています。この待賢門院には、一冊の本が書けるほどです。白河法皇が若い待賢門院に手を出して、その待賢門院はお腹に子(後の崇徳天皇)を宿したまたま、白河法皇の孫、後の鳥羽天皇のところに嫁ぎます。この出来事が後の崇徳上皇VS後白河天皇の「保元の乱」に繋がっていきます。この「保元の乱」により、平家が力を持ち、次第に武士の時代になっていきました。

話が脱線してしまいました。
この待賢門院が西行に対し、
「あこぎの浦ぞ」と言ったことが出家のきっかけと言われています。
「あこぎ」とは三重県津市にある地名で、神様に奉納する魚を採る漁場で、一般人は禁漁とされていたところです。それが、ある漁師が内緒で漁をしていたところ、発覚して海に沈められてしまいました。そのことを「伊勢の海あこぎが浦に引く網も 度重なれば人もこそ知れ」という恋の歌となりました。秘密の恋も、逢瀬がたびかさなれば人に知られてしまうよ、という意味です。と、いうことで西行はフラれてしまうのです。

今に伝わる西行の出家の理由のひとつですが、長い歴史の中での秘密の出来事、どこまでが真実かどうかはご本人しかわからず、定かではありません。
この西行の法号は阿弥陀仏の極楽浄土が西方にあることからつけたそうです。

【西行のエピソード】

●西行戻し
各地に「西行戻し」と呼ばれる逸話が伝えられている。共通して、権現様が扮した童子が、西行と禅問答したところ、童子のあまりの才人ぶりに、西行が恥ずかしくなって去ってしまったという逸話です。
* 松島「西行戻しの松」



* 秩父「西行戻り橋」
* 日光「西行戻り石」
* 甲駿街道「西行峠」

●西行桜
世阿弥作の能楽作品。成立は室町時代です。
あらすじ
京都、西行の庵室。春になると、美しい桜が咲き、多くの人々が花見に訪れる。しかし、今年、西行は思うところがあって、花見を禁止した。 一人で桜を愛でていると、例年通り多くの人々がやってきた。桜を愛でていた西行は、遥々やってきた人を追い返す訳にもいかず、招き入れた。西行は、「美しさゆえに人をひきつけるのが桜の罪なところだ」という歌を詠み、夜すがら桜を眺めようと、木陰に休らう。
その夢に老桜の精が現れ、「桜の咎とはなんだ」と聞く。「桜はただ咲くだけのもので、咎などあるわけがない。」と言い、「煩わしいと思うのも人の心だ」と西行を諭す。老桜の精は、桜の名所を西行に教え、舞を舞う。そうこうしているうちに、西行の夢が覚め、老桜の精もきえ、ただ老木の桜がひっそりと息づいているのだった。

●西行桜の咲くところ



京都大原野の勝持寺には西行桜と呼ばれる桜があります。
1140年(保延6)この寺で出家した西行法師が植たといわれ、鐘楼の傍らに銘木「西行桜」があります。
京都市西京区大原野南春日町1194
アクセス
阪急「東向日」駅から阪急バス「南春日町」下車(終点)徒歩20分
ホームページ
http://www.shoujiji.jp/

●伊勢神宮に参拝した時に詠んだ歌
「何事のおわしますかは知らねども、かたじけなくて涙こぼるる」

●西行の和歌
全2090首のうち恋の歌は約300首、桜の歌が約230首。勅撰集には265首が入撰しています。

【西行の和歌感】
西行が71歳の時、京都高尾の神護寺へ行きました。その道すがら、まだ少年だった明恵上人に、西行自身がたどり着いた集大成ともいえる和歌観を語っています。「歌は即ち如来(仏)の真の姿なり、されば一首詠んでは一体の仏像を彫り上げる思い、秘密の真言を唱える思いだ」。

その翌年、西行は大阪河内の山里にある、役(えんの)行者が開き、行基や空海も修行した弘川寺の裏山に庵を結び、ここが終焉の地となった。この弘川寺には西行の記念館があります。

亡くなる10年ほど前に詠んだ冒頭の「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月の頃」で、願ったように、西行が来世へ旅立ったのは2月16日。釈迦の後ろを一日遅れてついて行きました。

悟りの世界に強く憧れつつ、現世への執着を捨てきれず悶々とする中で、気がつくと花や月に心を寄せ歌を詠んでいた西行に心惹かれます。

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【兼好忌】



出典
Wikipedia

今日は兼好忌でもあります。
鎌倉時代末期から室町時代初頭の歌人で随筆『徒然草』の作者として知られる兼好法師(俗名・卜部兼好)の1350(正平5)年の忌日。ただし、1352年にはまだ存命だったとの説もあります。
一般に「吉田兼好」と呼ばれていますが、これは兼好の生家・卜部家が京都吉田神社の神官をしており、その子孫が吉田姓を名乗ったために後世の人がつけたものです。



吉田神社大元宮

日本三大随筆の一つとされる『徒然草』の作者です。
そうです。
「つれづれなるまゝに、日くらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。」
高校生の時、誦じました。

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早いもので2月も半分が過ぎました。
まさしく、2月は逃げるですね。
どうぞ、今日もお元気でいい1日でありますように!
行ってらっしゃい!

【今日の京都令和6年2月15日(木)】(No.3377)

※掲載の情報等が変更になる場合があります。お出かけ前にご確認ください。

中止になっている行事もあります。
お出かけの際にはご確認の上、お出かけください。

https://ja.kyoto.travel/news/format.php?id=143

○常楽会/智積院



常楽会とは、お釈迦さまが入滅された2月15日にその徳を偲び、感謝を捧げるために行う法要で、一般的には「涅槃会(ねはんえ)」といいます。

涅槃(ねはん)とは、お釈迦さまの入滅(にゅうめつ)と、お釈迦さまが完全な悟りを得たことを指しますが、私たちの宗派ではこの涅槃会を、煩悩を滅し涅槃を得たお釈迦さまの徳性を表す四徳「常・楽・我・浄」から、その前の二字「常楽」をとって「常楽会」と呼んでいます。「常」とは永遠に変わらぬこと、「楽」とは苦悩がなく安らかなこと、「我」とはなにものにも縛られず自由自在であること、「浄」とは一切の汚(よごれ)を離れていることです。

常楽会(涅槃会)では普通、涅槃像を掛け『涅槃経』や『遺教経(ゆいきょうぎょう)』などお釈迦さまの入滅時の様子や、最後の教えを説いたお経を読誦します。涅槃像には、お釈迦さまの入滅されたお姿と、それを嘆き悲しむ多くの弟子や信者、動物たちの姿が描かれています。 
総本山智積院では、2月14日の夜にお釈迦さまの遺言を基にした『遺教経』を読誦してお逮夜(たいや)法要を厳修(ごんしゅう)し、15日の当日は『常楽会発則(ほっそく)』という特別な法式による法要を行っています。 
アクセス
市バス東山七条

○ 三千院 涅槃会



三千院の宸殿で、お釈迦様の入滅された2月15日に、その様子が描かれた「涅槃図」を掲げて遺徳を偲ぶ法要が行われます。「涅槃」とは、迷いのなくなった境地のことで、仏教の教祖であるお釈迦様がお亡くなりになったことも「涅槃」と呼ばれます。参拝者には五色豆が無料で授与されます。

日程2月15日  
時間9:00~16:30(17:00閉門)
場所 京都市 三千院 宸殿
アクセス 
地下鉄烏丸線「国際会館駅」から京都バス「大原」~徒歩10分、またはJR「京都駅」から京都バス「大原」~徒歩10分
料金 参拝料700円

○涅槃会/萬福寺

○浄焚式/金戒光明寺

○涅槃会/百萬遍知恩寺

○釈迦涅槃会/妙心寺

○釈迦涅槃会(2/15)/高山寺

○ 加持大祭/松ヶ崎大黒天
百ヶ日の荒行を修した荒行僧による、水行やご祈祷、護摩木焚きが行われます。毎年、境内で接待される大黒天蕎麦やお茶席は、コロナウイルスのため中止となります。
日程2月15日
時間13:00頃~
アクセス
地下鉄烏丸線「松ヶ崎」下車 徒歩約20分市バス北8「松ヶ崎大黒天」下車
ホームページ
https://www.kyoto-matsugasakidaikokuten.com/

○涅槃会(〜2/15)/知恩院

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