マリオンジョーンズのドーピングと引退 | 田中ウルヴェ京オフィシャルブログPowered by Ameba

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メダルを返上ってニュースが出ていましたね。

裁判所の前での彼女のコメントは、行間を思わず読んでしまうようなものですね。


「とくだね」で、小倉智昭さんは、マリオンさんの生育環境やありすぎた才能が周囲に利用されてしまったことからの結果ではないか、という考察をしていらっしゃいました。


そして、

「彼女にとっては、ドーピングしてでもメダルを取りたかった理由があったのでしょう」

ともおっしゃっていました。


小倉さんは、いつも選手側の立場をご存じであるコメントをおっしゃいます。


はい。

ドーピングとか倫理とかどうでもいいからメダルを欲しいと思ってしまうくらい、アスリートはそのことに集中している時があります。

そのことがいいことだなんてもちろん思っていません。そう言っているのではありません。


しかし、実際は自分だって、現役の時にもしも「息こらえがラクになる薬」とか、「乳酸が演技中にたまらない薬」とか、そういった身体を作るための「無酸素運動にも有酸素運動にも何にも耐えうる強靱な身体を作れる」という薬があったら、実際に手を出したかどうかは別として、「手を出したい!」と思い、苦悩したと思います。


実際、ドーピングのシンポでもそう発言したことがあります。


どんなに倫理観を問われても、どんなに教育されても。

「もっともっと自己の限界へ」

「もっと強くなりたい、もっと速くなりたい、もっと上手に演技したい」

と思ってしまい、乳酸で苦しくなった時、ふっと理性がくずれ、人間として堕ちてしまうことはあると思うのです。


ドーピングはもちろん堕落です。

だから、使っては、その時から自己の限界への挑戦ではなくなるわけです。

だから、使っては意味がないのです。


しかし。

使ってしまう気持ちはわかる。アホだなあ、なんでだよ、と言いながらも、イヤだけどわかってしまう。


しかし同時に。

アメリカの大学院でのクラスメートで、実際、現役時代にドーピングをしていた人と話したことがあります。

自分は、「薬が日本にあったら、もしもコーチに勧められたら、自分は理性をなくすかもしれない。誘惑には負けてしまうかもしれない」と思っている身でしたが。

実際、話をしたら、そのドーピングと知って、常用していた人と話していたら。

正直。

ぶんなぐりたくなりました。


スポーツをなんだと思っているんだと。

それで、本当にメダルを取れてもおまえは嬉しいのか、と。

自分だけは知っているんだぞ。自分の努力だけの勝ちではなかったと。それでいいのか、と。


くさいかもしれない。

でも、どんなに朽ちても、どんなに堕ちても、フィールドに立つ者、プールにいる者、コートに立つ者。その本人がその限界の一瞬を試す時に、朽ちていていいのか、と。


自分はメダルを取ったからといっても報奨金などは出ない時代だった。

でも、メダルはノドから手が出るほど欲しかった。

理由は、証明だ。

絶対に結果を出す、ということを決めたからだ。

見える結果は世の中に少ない。

でも、競技はその少ないなかでの結果を顕著に出せるものだ。


はっきりいって、誰も知らないけれど、私がソウルオリンピックで最も嬉しかったことは、バックウォークオーバーという足技で9,0を取れたことだ。それまでずっと柔軟性を必要とされる種目は苦手としていた自分が「ちゃんとできた」「そして高得点を取れた」

単なるそんなことだ。

そして、滅多に褒めることなどない、井村先生が、プールサイドに座っていて、

「おおお、」と半ば、驚いた様子で、「京さん、やったなあ」と笑いながら言ってくださったことだ。

そんなことだ。


そういう小さなつまらない経過だ。


そしてそういうつまらない経過を、すっごくすっごく喜べて、こんな20年近く経った今でも、こうやって、

「それにしてもあの頃の自分は本当によくやったなあ」と自己満足できることだ。


結果よりももしかしたら経過を大事に心のなかに温めておけること。

それって、結果優先にしていたら、絶対にできないことじゃないのかなあ。