誰かだけの責任を問うためというよりも、繰り返さないために歴史をちゃんと検証したい。 | 三宅洋平 オフィシャルブログ「三宅日記」

誰かだけの責任を問うためというよりも、繰り返さないために歴史をちゃんと検証したい。

 

Facebookにて、ある投稿に対して、コメント欄に以下のようなアホで失礼なコメントが来たので、少し真面目に返答してみました。

 

しつもん
「つまり原爆投下は日本が悪いと言いたいのか? どう考えても落としたアメリカが悪いだろ。 アホかお前は。」(大分中津在住の32歳男子)

 

こたえ
「もちろん、原爆を落としたアメリカの責任がもっとも最初に問われることだ。次に、制空権と制海権を失ってもうボロ負けの戦局からほぼ1年、徹底抗戦の軍部を押さえ込もうとしながら、講和派が努力した中で、なぜ天皇の決断に時間がかかったのか(天皇に降伏をすすめた近衛上奏文は1945年2月だ。沖縄上陸戦は3月から始まり、本土空襲は前年11月から半年以上続いている。そして広島長崎が8月だ。長崎の後にようやく、ポツダム宣言を受諾している。ポツダム宣言が出されたのは7/26だ。)。
沖縄戦前の、1944年末に降伏していれば、80万人の命が救えた時に、「国体護持」の取引を、連合国としていたわけだよ。
さらにこの頃、皇族や権力層は敗戦に備えて戦前から蓄えてきた資産の海外への移動を、着々と行なっていると言う説がある(説というか当然の経済活動として、そう言うことはしているはずだ)。スイス銀行の天皇と皇后の口座の凍結を連合国側が要求しているが、ス銀はそれを断っている(ここら辺に、この世の権力構造の真実が出ているよな、わかるか?)。最終的に一時凍結されたが、4、5年後に返還されている。
いろんな時間稼ぎの間に、沖縄戦があり、本土空襲があり、原爆が落とされた。
どこからが天皇や日本政府中枢の意思決定の判断の及ぶところで、どこからが連合国の意図だったのか。そもそもなぜス銀は連合国の要請を断りきることができるのか。開戦のみならず、終戦にも、正史に隠された事実が色々ある。
もちろん、戦局が既に見えていた1944年下半期以降は、原爆を落とすところまで含めて、終戦の段取りを既に連合国側に舵取りされているようなもんだから、そういう中での「やむを得なかった」という発言なんだろうな。
君も、歴史と、日本語を、よく勉強するんだぞ。」

 

 

【そもそもの最初の投稿】

 

僕は、原爆はやむを得なかった、とは思えない。
 
ポツダム宣言(7/26)をなぜもっと早く受諾しなかったのか、その決断は御前会議だけに委ねられていたのか?そこらへん、日本人はもっと歴史検証すべきだ。
 
ポツダム宣言受諾までの奇妙な空白の間に、広島(8/6)・長崎(8/9)の原爆投下が行われた。
 
沖縄戦は7/2に終了しており、この時点で降伏を受け入れることもできたはずだ。
 
もっと言うなら、沖縄戦に突入する前の1944末の時点で日本軍は制空権、制海権をほぼ喪失しており、沖縄の犠牲者たちは「講和条件を少しでも良くする」ために死んでいったとも言われている。
 
条件とは?天皇制の保持だ。
 
さらに、東京大空襲は1944年11/24から106回行われ、10万人以上の死者、それ以上の負傷者を生んでいる(空襲による全国の死者は58万人ほど)。
 
制空権取られて本土空襲受けてる時点で戦局は決していた。
 
なぜ直ぐに降伏しなかったのか。それは連合国側の意向だったのか?日本側の意向だったのか?
 
連合国と天皇の間で、どのような終戦の握りがなされたのか?
 
日本の民間犠牲者が約80万人とされる中での60万人が1944年11/24以降の空襲と原爆で亡くなっている。20万人が1945年3/26からの沖縄上陸戦だ。
 
日本側では兵隊が230万人ほど、民間人が80万人ほど死んだと言われる中での話だ。
 
終戦のタイミングが遅れて犠牲が増えたことの検証をすべきだ。
 
そして終戦から30年後の1975年、天皇裕仁は初の公式会見にて「原爆はやむを得なかった」と発言した。当時のメディアに「どのように、やむを得なかったのですか?」と聞き返すものは一人もいない。