太平洋沖地震のここ半年の震源の分布と規模。可視化すると凄いです。この列島に原発建てた人達の浅はかさは、ひとつの文明周期の終わりを象徴するに相応しい愚行と呼べるでしょう。でも、それを下支えしたのは全ての国民の生活の在り方だということも忘れてはいけないでしょう。

房総沖など指摘されていますが、まだまだ大きな地震は来ると思います。M9が想定外なんていうけれど、山で云ったら地球人が知ってる最高峰がエベレストで8,848m(NPL政府公認)だけれど、例えば火星には余裕で20,000mを越える山がある(火星最高峰のオリンパス山は標高約25キロメートル)ように、今後M10だの11だのって事が起きないという保証もないと思うのです。

図で見るように、大洋沖のプレートの潜り込みは凄まじい力を生み出すし、過去に地球であった最大の地震で検索したところ「ジャイアントインパクト」という凄まじい天体現象が出てきました。月が出来た要因として有力な説のようです。宇宙からすりゃ、ワシらチッぽけやなー!ということを是非、再度認識して、謙虚にやっていきましょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジャイアント・インパクト説




そして改めて、311に起きた津波被害を人間の目線で振り返る事も大切だね。巨視的になり過ぎると、命の尊さや、愛や哀しみを忘れてしまいがちです。東北の人々が負った心の傷を、コツコツと出来る事を続けて支援していきましょう。




先日、沖縄の浜で出逢ったオジイがこう云ったのを忘れられません。
「おじさんたちの時はね、日本から助けなんてなんにも、本当になーーんにも来なかったんだよ。だから、東北で助かった人達は恵まれてる!頑張らなくちゃならない。」

去る10月に、南部は佐敷(沖縄県・南城市)の毛遊び(もーあしび)に呼ばれて出演した時、出演を依頼してくれた地元の青年マーシー君が佐敷の浜を指差して「洋平さん、あすこの浜で13万8千人が死んだんですよ」。本土返還後、日本のナショナリズムに対抗するために根強く発展していった琉球独自の民謡と芸能文化の象徴である毛遊びに、ナイチャーの僕を出演させてくれたというのは、かなり奇跡みたいな話であり、その感謝の念は生涯消えないと思う。

また、本部の市場でみせてもらった戦争写真集で見た、沖縄戦直後の那覇の街並みが、文字通り巨大なクレーターのようにえぐれて、一切、全くなにも残っていなかった。あの景色も、目に焼き付いては離れない。日本人のどれほどが、広島、長崎を凌駕するこの歴史を認識しているだろうか。

(WIKI:沖縄戦より抜粋)陸海空において日米の大兵力が投入され、両軍最高指揮官が戦死するなど第二次大戦における最激戦地のひとつであり、使用された銃砲弾の数は、アメリカ軍側だけで2,716,691発。このほか、砲弾60,018発と手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が発射された[3]。また、地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、この戦闘を沖縄県では「鉄の雨」や「鉄の暴風(英:Typhoon of Steel)」などと呼ぶ。[4]そのため、不発弾処理は陸上自衛隊第101不発弾処理隊と海上自衛隊沖縄基地隊の手により、現在も継続中である。
沖縄戦での全戦没者は20~24万人とされる。沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄出身者が122,228人[5]、そのうち94,000人が民間人である。日本側の負傷者数は不明。アメリカ軍側の死者・行方不明者は12,520人で、負傷者72,012人であった。


南部、中部、北部、逃げ場の無い沖縄の地は、日本のナショナリズムの押しつけのために、米軍の嵐のような艦砲射撃と上陸作戦によって完膚なきまでに焼き尽くされて、沖縄民間人の死者数はいまだにハッキリしないのです。

基地問題、沖縄の歴史。
縁あって沖縄へ移住した僕は、日本国内で実に軽視されているこの問題とも、向き合う義務を感じます。

ひとつの文明周期が終わりを告げて、僕らは意識高く変化の道を歩み始めました。民を忘れた経済と政治の論理に、悲劇が繰り返されるのを停められるのは、他ならぬ僕ら民の力です。文化の力です。

頑張ろう。

平和ー