人間のひとりひとりが数百万のチャンネルを備えたテレビの受像機のようなものです | 覚醒のひかり

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縄文時代にゆるゆる瞑想をしていた、シャンタンこと宮井陸郎(1940.3.13-2022.3.17)のブログ
【地球は国境のない、一つのうつくしい平和な星です】
【いまここをトータルに生きる】
いろんな人の言の葉を、分かち合いたいと思いまあああああああす!
(貫井笑店)

 

 

 

人間のひとりひとりが数百万のチャンネルを備えたテレビの受像機のようなものです。

 

 

 

目覚めた人を受像機に映せば、私たちは目覚めた人になります。

 

 

 

悲しみを映せば、悲しみになります。

 

 

 

微笑を映せば、ほんとうに微笑になります。

 

 

 

ただ一つのチャンネルに支配されてはいけません。

 

 

 

私たちの内には、あらゆることの種が蔵されているのですから、みずからの手で状況を把握し、みずからの主権を取り戻さねばなりません

 

 

 

 

ティク・ナット・ハン

 

 

 




 

 

 

 

人生が困難であり、時によっては微笑することが難しくても、私たちは微笑するように努めなければなりません。

 

 

 

これはちょうど、「お早うございます」というときに、それが心からの「お早うございます」でなければならないことに似ています。

 

 

 

最近、ある友人が質問しました。

 

 

 

「悲しみにみちているとき、どうして無理に微笑することができるでしょうか。そんなことは、不自然です」

 

 

 

私は彼女にこう答えました。

 

 

 

「その悲しみに向かって微笑することができるはずです。

 

 

 

なぜかといえば、自分は悲しみより大きいからです。

 

 

 

人間のひとりひとりが数百万のチャンネルを備えたテレビの受像機のようなものです。

 

 

 

目覚めた人を受像機に映せば、私たちは目覚めた人になります。

 

 

 

悲しみを映せば、悲しみになります。

 

 

 

微笑を映せば、ほんとうに微笑になります。

 

 

 

ただ一つのチャンネルに支配されてはいけません。

 

 

 

私たちの内には、あらゆることの種が蔵されているのですから、みずからの手で状況を把握し、みずからの主権を取り戻さねばなりません」

 

 

 

はっきりした心をもって、平和に座り、呼吸を行ない、微笑しているとき、私たちは、真の自己であります。

 

 

 

みずからの主権を保持しています。

 

 

 

テレビの番組に心を傾けているとき、みずからを、その番組の侵入にまかせています。

 

 

 

時には、よい番組もありますが、大部分は、うるさいだけです。

 

 

 

自分以外のものが、みずからの内部に入り込むことを欲っして、私たちは、テレビのまえに座り、うるさい番組が自分をおかし、攻めたて、破壊することを許します。

 

 

 

たとえ神経組織が呻き声をあげても、私たちには、立ち上がって、テレビを切る勇気がありません。

 

 

 

そうすれば、自分自身に帰らなければならないからです。

 

 

 

瞑想は、その反対です。

 

 

 

みずからに帰る助けとなります。

 

 

 

今の社会で、瞑想を行なうことは、とても難しいことです。

 

 

 

すべての物事が、私たちを真の自己から引き離すために、共に働いています。

 

 

 

ビデオとか、音楽とか、何千もの物が、私たちを真の自己から引き離す働きをしています。

 

 

 

瞑想を行うということは、はっきりとした心をもち、微笑みをし、呼吸を行うことです。

 

 

 

これは、自己から引き離されることとは、反対のことです。

 

 

 

自分の内外で起こっていることを知るために、みずからに帰るのです。

 

 

 

それは、瞑想することが、起こっていることをはっきりと知ることだからです。

 

 

 

今、起こっていることこそ、重要なことです。

 

 

 

ティク・ナット・ハン

「仏の教え ビーイング・ピース 

  ほほえみが人を生かす」

より一部引用以上

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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