「今です。丹田に入れるときは」チャネリングでoshoにつながり、そのガイドで丹田に入った日のこと | 覚醒のひかり

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縄文時代にゆるゆる瞑想をしていた、シャンタンこと宮井陸郎(1940.3.13-2022.3.17)のブログ
【地球は国境のない、一つのうつくしい平和な星です】
【いまここをトータルに生きる】
いろんな人の言の葉を、分かち合いたいと思いまあああああああす!
(貫井笑店)






2015年1月27日のブログより





アカームさんの日記





今回、倉敷から葉山まで、ゆるゆる瞑想を分かち合うために来ていただいたシャンタンが、おとといの日記で書いている。




「はやまでことばにならないほど、ふかいたいけんがありました」





シャンタンの瞑想の道の師であるバグワン・シュリラジニーシは、その生涯に何度か改名した末に、肉体を離れる前にOSHO(和尚)という日本語名を名乗り、それから肉体を離れました。





最期のレクチャー(講話)が『禅宣言』です。





丹田に入る瞑想をOSHO自身がガイドしました。




丹田に入って行く。




深く深く降りて行く…という瞑想を、具体的にOSHO自らがガイドして行ったのが、最期のレクチャーになりました。





しかも、彼はOSHO(和尚)という名前で肉体を離れます。




ということは、「日本」を指差している。




そして、「丹田」を指差している。




この一点ですべては調(ととの)います。




丹田の中にすべて意識とエネルギーが入ったとき、宇宙の中とつながります。





ここが切腹のときの死のセンターであり、生のセンターです。




(呼吸のとき、吸う息と吐く息のインターバル、隙間、息の出入のまったくないポイントを意識できれば、そこにおいて生死を超えた次元へとつながる次元間ポータルが口を開けて招いているのに出会えます)





あの世とこの世、そして宇宙の中心とつながる場所なので、ここに入ることが悟るのにいちばんの早道です。





芭蕉の「古池や 蛙飛び込む 水の音」という句は、まさに道元 禅師の「心身脱落(しんしんとつらく)」に匹敵する、マインドもハートもすべて丹田(古池)の中へと落ちて吸い込まれ、空そのものとなった悟りの境地を詠んだものでした。





以上がシャンタンのレクチャー(講話)です。




丹田がどうして大事なのかということを、これほどわかりやすく、しかもこの重要性がエンライトメントしたマスターのボディを離れる直前の行為に 暗示されていることを示すストーリーの形で興味深く解き明かした表現はないと思います。





あらゆる物質的発展を犠牲にし、ひたすら精神性と悟りを求めてきたインドという国。




そこには、何千年もかけたブッダフィールドの光明エネルギーが厖大に貯留(プール)されてあり、そこからあまたの覚者、エンライトしたマスターが生み出されてきたということに、シャンタンが注目していることが、今回、彼と話していてよくわかりました。




そのインドの、地球における、地球の次元上昇(アセンション)期における役割、天命をになったOSHOが、今回の肉体生活のファイルナルチャンスで、死を前に「日本を指差して」 ボディを離れ、物質の地球からテイクオフ(離陸)したということは、大きな意味をもっています。





この事実に深く着目しつつ、一人のマスターに限定することにこだわらず、広く今の地球を守り導いているマスター達の力を借りながら、人間側でできるかぎりのワークを試み続けているのが、シャンタンの特異性であり、お役目だろうと認識しています。





ところで、インドにおいて「第三の眼」が重視されるのにたいし、禅のマスター(老師)たちの日本において重視されきたのが「丹田(ハラ)」でした。




しかし、これらはどちらが欠けても真理を悟ることはできず、互いに協力して働くもののようです。 




悟るということは、頭(マインドとの同一化)を落とすということでもあります。




私たちの帰る場所は丹田を扉として宇宙の根っこ、いのちの故郷に帰ることです。




このことを、シャンタンはゆるゆる瞑想として、必ずワークの最後でカラダと意識に覚えこませるようガイドしてくれています。





ワークショップでやったことを思い出してください。




意識してゆっくりと自分のカラダを確かめながら回して行く。




これがコツ。




決して、無意識に、機械的に、習慣的には、カラダを動かさないこと。




骨盤の中は倉庫みたいで、不要になった悲しみなどがたまっている。




女の人はとくに子宮にこれがある。




悲しみは深い層にたまっているが、この悲しみが日本人を悟りに導く。





シャンタンは、いいます。




「悲しみ、苦しみがあるから、悟りに向かうことができます」




「悲しみは、味わうことが大事。悲しみをなかったことにするのでは なくて、それとしっかりと向き合って味わうことができたなら、その悲しみは喜びに変わります」





これは富士聖地の祈りの丘で、樹海の上にみごとに裾野を広げた富士山を目の前に教えてくれた。






カルキヴァガバンの言葉


“悟った者は苦しむ。故に苦しみがない。
悟っていない者は苦しみを避ける。
故に苦しみがある。”





不安とか恐れはだいたいハートに関係している。




それから、怒り。




これは顎から首にたまる。




これらをまず丹田のほうから、まず深い悲しみを感じたそのことを、すりつぶし砕く石臼を回すように、丹田、骨盤、腰を回して行きます。




骨盤を開いて行くと、大地、地球からのエネルギーを止めることなく、上半身まで持ってゆくことができます。




ここをゆるめながら、回してあげることがコツです。




思い切り骨盤、腰をゆるめながら回してあげます。




そして、平面の回しだけでなく、慣れてきたら、縦、斜め、八の字を描いたりして、自分の中で愉しみながら、体の感覚を確かめながら回すことができます。




ゆるゆるは、オナラフリーです。周りの人は少し我慢してもらい、オナラが出るようでしたら、出してください。




そして、骨盤をゆるめ、腰をゆるめ、背中をゆるめ、つぎは肩甲骨に なります。




もう一度、肩甲骨が羽のように体から剥がれると、体はとても楽になります。




ハートが開き、エネルギーが通って行きます。




肩甲骨がさびついてていると、肩甲骨がくっつているからエネルギーがここで止まります。




こうやって、カラダの中をお掃除し、浄化してゆきます。





ところで、今回のゆるゆる瞑想会は、これまでにない画期的なものだったと、シャンタンから聞きました。





そこがシャンタンをして、「はやまでことばにならないほど、ふかいたいけんがありました」と言わしめた所以(理由)ではないかと思います。 





それが今回、起きたのです。




そして、それが可能だったのは、もちろん、シャンタンとシエルさんという二つの魂の出会い
があってのことでした。





シャンタンから伝えられた話によると、13日は、ひたすら浄化 のステージで、媒体のお役目であるシエルさんの体を通して五井先生から高次元宇宙の光が送られ続けたということです。





この五井先生のお働きがなかったら、大変なことになっていたはずと、シエルさんは話していました。




五井先生はいわば川の 上流の清らかな、宇宙神とつながった光のエネルギーを流す役目だったとのことです。





15日には、13日以上に全面的にOSHOからのメッセージがシエルさんを通して降りました。




それは、つぎのようなものです。




まずは、「ハラの中にあるものを出しなさい」
この指示を受けたシャンタンのリードで、ジベリッシュ(意味のない言葉を発声しながら、頭や手や体をシェイクさせる)に始まり、動物のように四つん這いになってうなだれように頭をぶらぶらに下げ、そこにたまったエネルギーを解放してやりながら、おなかにたまったネガティブな感情を思いっきり放出して空っぽになるくらいまでに叫び続けました。





これはダイナミック瞑想の第二ステージですが、ダイナミックをやろうとして行ったのではなく、自然発生的に起こったという点が重要だとシャンタンはいいます。





参加者の誰もがまったく予期もしないタイミングで、しかもチャネリング能力をもつシエルさんを使ってOSHOによる指導が入り、カオス(混沌)の中に参加者全員が投げ込まれたということです。





これこそが存在にゆだねるということです。




そこには、指導する人がいません。




指導される人もいません。




あるのは、一人ひとりの参加者の内なる可能性、潜在性への 信頼だけです。





さらに、OSHOから来たメッセージは、




「喜びなさい。自由になり なさい」というものでした。





「真面目にやり過ぎることで悟りに最も遠くなってしまう」というメッセージをシエルさんが伝えると、あたりに笑いのさざめきが広がりました。




それは午後の陽射しが水面にキラキラと反射するような感じで、浄化のプロセスで自らの内なるネガティビティと向きあうことでともすれば深刻になりがちなその場の張りつめた空気を和らげ、楽にしてくれるものです。





そこで、シャンタンがみんなに呼びかけたのは、畳の大広間を歩き回ってください、それから自在に駆け回ってくださいというものでした。





空気をかき混ぜ、空間のオーラを壊してゆくことで、ひろびろとした大海原を泳ぐ魚のように、果てしなき大空を飛翔する鳥のように、私たちのカラダが自由になれるんだという感覚を呼び覚まされてゆきました。




めちゃくちゃに走り回り、人とぶつかりそうになりながら、カラダは習慣的でメカニカルな動きから放り出され、危険はカラダの細胞がより注意深く醒めてあることへと誘います。





参加者は子供のように生き生きとしてきて、頭から思考が去り、ハートに降りてきて、顔の表情が笑いや喜びに満たされてゆきます。




そこで、「さあ、踊りましょう」というシャンタンの声とともに音楽が流れ始めます。




丹田からハートへ。



そして、ハートから手へ。



木でいえば根っこのような足からカラダに入った大地のエネルギーが幹を昇ってゆき、枝葉から空へと抜けてゆく感じです。




さんざん踊ったあとで、そのまま畳の上に身を投げ出して、静止したカラダに意識をおいて、台風の吹きまくったあとのまだ荒い呼吸がしだいに静まってゆくのを見守り続けていました。




ダイナミック瞑想がそうであるように、たいていの動きのある瞑想では、踊って、横たわって、それで終わりを迎えるのですが、今回はそれで終りませんでした。





つぎの瞬間、シエルさんに降りてきたメッセージは、こういうものでした。




「今です。丹田に入れるときは。今はみんなのマインドが静かになり、止まっている。丹田に入る、今がそのときだ」





そして、「覚醒に導きなさい」というメッセージ。




シエルさんのコメントによると、「目覚めを呼び起こしなさい」にたいして、終了後に「目覚めたね」とは、シュゴイでちゅねヽ〔゚Д゚〕





それから、隣りの人と肩がくっつきあうほどの小さな輪をつくり、手をつないで座りました。




吸う息と吐く息。そして、それらを往ったり来たりする間の、吸うでも吐くでもないはざま(狭間)にしばし留まるようにと、シャンタ ンが指示しました。




そして、眠りと覚醒のはざまが大事であるように、このはざまに悟りがあるということが伝えられました。




せわしなく、激しく動いてから、横たわるだけで終わるなら、世間に戻り、また日常生活に戻るなら、瞑想性を失うことなくキープするのは難しい。




そうならないように、マインドやハートのエネルギーも意識も丹田まで届かせ、そこにくつろぐ。




マインドが静まっているために、このインターバル(間隙)を意識し、見守りやすくなっていることからも、先ほどの「今が丹田に入るときだ」というメッセージが絶妙のタイミングであるということがうかがえます。





シャンタンの話によれば、ゆるゆる瞑想をリードするようになって以来、数ある経験の中でも、今回の経験は、「全く、新しい学び」をもたらしてくれたという意味でも画期的だったそうです。














貫井投稿