全ての命はひとつ | 覚醒のひかり

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縄文時代にゆるゆる瞑想をしていた、シャンタンこと宮井陸郎(1940.3.13-2022.3.17)のブログ
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【いまここをトータルに生きる】
いろんな人の言の葉を、分かち合いたいと思いまあああああああす!
(貫井笑店)

アンマ、バガヴァン誕生秘話




私にとって、すべての生命は、ひとつです。
そこには一つのいのちしかない のです。


バガヴァンは、Natthamという、Tamil Naduの小さな村に、
1949年3月に生まれました。
彼は生まれたときの状況を、こう描写しています。
私の母は、村出身のとても無邪気な女性でした。
インドの伝統では、神が子供として生まれることがある、
と信じられています。
彼女は13歳で結婚しました。
彼女はよく寺院に行き、そこで
クリシュナ神にこのように言って祈りを捧げていました。
「あなたは私の元に子供として生まれてこなくてはいけないわ。」 
彼女は赤ちゃんのクリシュナとして、
神を自分の(おなかの)中に見ていました。
クリシュナはよく彼女の中から彼女に話し掛けました。
そして彼女は彼こそが彼女の元に
生まれてくる者であろうと感じていました。
彼女が出産したとき、クリシュナの形は彼女の中から消え去りました。
おそらくそれが私に影響を与えたのでしょう。
私には分かりません。
しかし、私が覚えている限りずっと前から、私は私の周りの人々が、
私が経験していることを経験していないことを感じていました。
私はいつも疑問に思っていました。
「どうやったらこれを彼らにあげることができるんだろう?」 
それから私はそれは実際に彼らに転写されなければ
ならないことに気がつきました。
だから、この運動は私が子供のときから始まったのです。
 バガヴァンの父親は、地方鉄道会社の会計課のチーフでした。
彼は又ネーマンの村 に小さな農場を持っていました。
マドラスの州都からそれほど遠くないところです。
バガヴァンが6歳のとき、彼の家族はマドラスへ越してきました。
バガヴァンの父親は無神論者であり、
意味のなさないことを許さない 人でした。
私はほとんどの時間を一人で過ごしました。
彼はよく私にこう聞きました。
「君は人生で何をしようと考えているんだい?」 
私は答えました。
「僕は世界を変換(transform)させるんだ。」 
それから彼はこう聞くのでした。
「いったい君は自分が誰だとおもっているんだい?」
 そして私はこう答えるのです。
「僕は神だ。」それは本当に彼に恐怖を植えつけたようです。
家族が集まって私を精神科に連れていくべきか悩んだそうですー
おそらく私がメシア(救世主)コンプレックスで
苦しんでいるに違いないと。
しかし、彼らはバガヴァンがほかのことに関しては
極めて普通であると分かりました。
私は勉強がよくできました。私は自分のやるべきことをよくこなし、
他人に迷惑をかけたりしませんでした。
父親は、長い、長い、長い間、これに関して我慢してきました。
彼はよく私にこう聞きました。
「おまえは何をやっていきたいんだね」 
そして同じ答えがいつでも返ってきたのです。
 私はしばしば自分は神である、といいました。
これは注意深く理解されなければなりません。
私にとって、すべての生命は、ひとつです。
そこには一つのいのちしかない のです。
それはあなたの中を流れ、私の中を流れ、ライオンの中を、象の中を、
トラの中を、☆アリの中を、太陽と月と世界の中を流れています。
同じひとつの生命が、これらすべての形を通して自身を表現し、
その生命こそが、私たちが神と呼んでいる のなのです。
だから、私は神であり、あなたは神であり、アリは神であり、
象は神であり、牢屋の中にいる人は神であり、かたわの人は神であり、
聖人は神であり、賢者は神であるのです。
これらは神の異なった現れです。神はこのすべてになります。
彼は創造以外の何者でもありません。
それは巣をつくるために。糸を自分の体から吐き出すクモのようです。
神こそが、このすべてになるのです。
 神の体験は現実の体験であり、
すべての人々にとって可能な領域にあります。
それはフィクションではありません。
それは哲学的な推測ではありません。
これは、あなたの日々の生活の体験になり得るものです。
それは、ディクシャ が最終的にあなたを連れていく場所です。
そしてあなたははっきりと言えるでしょう、「私は神だ」と。
だから私は「私は神である」という態度をとるのです。
それは私が子供のときからの感じ方です。
 子供のとき、バガヴァンは彼が世界を体験しているように、
ほかの人々は世界を体験していない、と認識しました。
これを理解する前は、彼は自分自身を
アヴァターだとは思っていませんでした。
彼は単純に彼の体験はノーマルだと思っていたのです。
 私は人々のふるまい方を見ていました。
そしてどうしてそんな風にふるまうのか不思議でした。
私は生まれたときから、ほかの人々が
経験しているものを経験するこ とができました。
私は、彼らの現実は私のものとはかなり違うことに気がつきました。
私が世界を感じるとき、私は音を聞きますが、
それを翻訳していないことに気が つきました。
私が何かを見るとき、こちらも何の翻訳もついてきません。
聞いている人は存在せず、見ている人は存在しません。
そこには誰もいません。 
そこにはただ、見る、聞く、考える体験があるだけです。
私が自分に、ほかの人々が体験しているものを
体験することを許したとき、彼らは、誰かがそこにいて
これらのことをやっている感覚がある、ということに気がつきました。
私にはそういう風に感じられたことは一度もありませんでした。
私は彼らがどのように世界と関わっているのかを知るために、
他の人々を体験しなければなりませんでした。
私は「enlightenment,目覚め、覚醒、悟り」のプロセスを通ったことがありません。
なぜなら、それは最初からいつもそこにあったからです。
☆だから私はここで何かがなされなければならないと思いました。
私が(何かを)体験しているとき、私は喜びを得ていました。
私は他の人々が喜びを全く得ていないことを発見しました。
そこに誰かがいるという概念が去らなければならないとわかりました。

すべてはそのようにして始まったのです。




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