あなたが瞑想的になると、肉体は想像もつかないほど敏感になる。 | 覚醒のひかり

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縄文時代にゆるゆる瞑想をしていた、シャンタンこと宮井陸郎(1940.3.13-2022.3.17)のブログ
【地球は国境のない、一つのうつくしい平和な星です】
【いまここをトータルに生きる】
いろんな人の言の葉を、分かち合いたいと思いまあああああああす!
(貫井笑店)

 

osho



あなたが瞑想的になると、
肉体は想像もつかないほど敏感になる。
私たちは決して正確には聞いていないし、
正確には見ていない・・
中途半端だ。
あなたは庭を通る。
見ているようだが、ぼんやり眺めているだけで、
見てはいない。
眼が鈍感になっている。
あなたが眼と闘ってきたからだ。
肉体が鈍感になっている。
あなたが肉体と闘ってきたからだ。
文化全体が肉体を敵にまわしている。
この文化のすべてがだ・・東洋の文化であろうが
西洋の文化であろうが違いはない。
この惑星の上で発展してきた文化は、ある意味で病んでいる。
それは肉体を敵にまわしている。
だが、肉体は大いなる神秘だ。
肉体を敵にまわすことは、宇宙に敵対することだと
言ってもよい。
肉体は小宇宙だ。
宇宙との絆、宇宙への橋、宇宙に到達するための道具は
肉体を通してもたらされる。
肉体は、まさに途上にある駅だ。
だから、肉体と闘ってはいけない。
どれが肉体の記憶で、どれがマインドの記憶であるかを
常にはっきりと識別しなさい。
空腹は肉体の記憶であり、知ることができる。
だが、マインドにも独自の記憶がある。
それは実存的なものではない。
実のところ、それには生存に関わる価値がない。
肉体の記憶には生存に関わる価値がある。
そこが二つの記憶の基本的な違いだ。
肉体の記憶を否定し、それと闘えば、
生き延びることができない。
だが、心理的な記憶には、実際には生死に関わる
価値がない。
それらはたんなる堆積物、廃棄物・・
溜まってきたら捨てねばならないもの、
持っていれば重荷になるだけだから、
捨てる必要があるものだ。
だがこういったマインドの記憶もまた古く、歳を経ている。
あなたが腹を立てるときには、常に二つの可能性がある。
それは肉体の記憶かもしれないし、
マインドの記憶かもしれない。
肉体の記憶とマインドの記憶のあいだに一定の区別を
設けなければならない。
あなたの怒りに生存に関わる価値があり、
それなしでは生き延びることができないとしたら、
それは肉体の働きだ。
だが、あなたの怒りに生死を決する価値がなければ、
それはたんなるマインドの習性、マインドの機械的反復に
すぎない。
そういう場合はマインドの記憶だ。
何度も何度も腹を立ててきたので、それがあなたの
条件づけになってしまっている。
誰かがあなたを、あなたのボタンを押すたびに、
あなたはまた腹を立てる。
ちょっと、それに気づいてごらん。
心理的な怒りや習慣的な怒りを一度も
起こしたことのない人・・
そういう人の肉体的な怒りには独自の美しさがある。
それは決して醜くない。
それはその人が死んでいるのではなく生きているという
証にすぎない。
習慣的に腹を立てれば立てるほど、肉体的な怒りを
起こせなくなる。
そうなったら、あなたの怒りは醜いだけだ。
それから得られるものは何もない。
あなたと他人をかき乱してゆくだけだ。
別の角度からそれを理解することもできる。
例えば、セックス。
セックスは肉体の記憶でもある。
その場合には生存に関わる価値がある。
だが、習慣から生まれた精神的、知的なセックスに
すぎない場合もある。
そのときには生存に関わる価値はない。
たんなる習慣的なパターンに陥ってしまったら、
セックスは醜いものになる。
そこには愛もなければ、美しさもない。
音楽もなければ、より深い感応もない。
セックスが知的なものになればなるほど、
肉体はいっそうそのなかに参与しにくくなる。
セックスについて考えれば考えるほど、セックスの真の姿、
その最も深い神秘はわからなくなる。
マインドはセックスについて考えつづけ、肉体はそれに
従わなければならなくなる。
いつであれ肉体がマインドに従うとき、
そこには生命がない。
肉体は鈍重なおもりのようにただ引きずりまわされる。
何に対しても・・セックス、怒り、貪欲、何であれ・・
そこに生存に関わる価値があるかどうかを常に
識別するがいい。
そこに生存に関わる価値があるなら、戦わないことだ。
それがたんなる精神的な習慣にすぎなければ、
醒めているがいい。
私たちの過去のあらゆる行為からなるこの知的な記憶は、
条件づけられたものになっている。
あなたは延々とそれをくり返し、まるで機械のように
行為する。
これを意識していなさい!
怒りにマインドが介入しなければ・・
その怒りがある状況に対する全一な感応、
身体全体の感応にすぎず、そこに前からある
知的な条件づけがなければ・・そのときには後悔が
ないことを知って驚くだろう。
あなたはその状況の下で、状況が求めるままに全一に
行為した。
そのときには、後悔する必要はまったくない。
さらにもうひとつ・・後悔がないときには、
心理的な蓄積は起こらない。
何ひとつあなたの習慣にはならない。
何も蓄積する必要はない。
マインドは、なぜ記憶を蓄積しなければならないのだろう?
それは、ある状況のもとで全一に行為できるかどうか
自信がないからだ。
マインドは準備する。
マインドは色々と下稽古をすませなければならない。
これこれの状況下で、うまくやれるかどうか自信がない。
マインドは、かつて起こったことがあるすべての状況を
知っておかなければならない。
マインドはものごとを判別しなければならない。
特定の状況のもとでは何をやればいいのかプログラムを
練っておかなければならない。
マインドが記憶を蓄積するのはそのためだ。
だが、蓄積すればするほど、あなたは全一に行為できなくなってゆく。
そして、全一に行為できなくなればなるほど、
ますますマインドが必要になってくる。
だから、肉体で行為しなさい。
マインドで行為してはいけない。
私がこのことを・・宗教的な人間が口にするとは
思いもよらないようなことを言うと、
奇妙に見えるだろう。
それでも私は言う。
「肉体から行為しなさい!」と。
そうすれば、その行為は測り知れないものとなり、
その感応は全一になる。
マインドを介入させてはならない。
そうすれば、記憶はなくなる。
心理的な蓄積はなくなる。
後悔は起こらなくなる。
行為は完結する。









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