深く生きてきた人は死を恐れない。 | 覚醒のひかり

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縄文時代にゆるゆる瞑想をしていた、シャンタンこと宮井陸郎(1940.3.13-2022.3.17)のブログ
【地球は国境のない、一つのうつくしい平和な星です】
【いまここをトータルに生きる】
いろんな人の言の葉を、分かち合いたいと思いまあああああああす!
(貫井笑店)

 

 

深く生きてきた人は死を恐れない。

Osho

深い愛の中で愛する者たちは
いつも「もう死んでもいい」と思う。
そのような瞬間には、
たとえ死が起ころうと
その死でさえ
喜んで受け容れる。

二人はオープンだ。
死に対してさえオープンだ。
生に対してオープンであれば、
死に対してもオープンだ。
生に対して閉じていたら、
死に対しても閉じている。

死を恐れている人々は、
基本的に生を恐れている。
彼らは未だ生きていない。
だからこそ死を
そのように恐れるのだ。
その恐怖は当たり前だ。

まったく
生きていなかったら、
当然のことながら、
死を恐れる…
まだ自分は
生きていないのに、
死が生きる機会を
奪ってしまう。

死がやってくるとするなら、
一体いつ生きたらいいのか。

深く生きてきた人は
死を恐れない。

彼は成就している。
そして死がやって来たら、
それを歓迎する、
受け容れる。

生は既に与えうる全てを
与えてしまった。

彼はもう生の中で
知りうる全てを
知ってしまった。
だから
たやすく死の中に
入っていくことができる。

かえって彼は死の中へ
入るのを楽しみにする。
そうすれば未知のもの、
新しいものを
知ることができる。

セックスの中、
愛の中で、
あなたは恐怖を知らない。

それは別に、
未来のものを求めて、
戦うことではない。

今この瞬間こそが楽園だ。
今この瞬間こそが永遠だ。

でも私がこう言ったからといって、
必ずしもあなたがセックスを通じて
それを体験していると
いうわけではない。

もしあなたが恐れ、
抵抗していたら、
生物学的な放出、
性的な放出なら可能だろうが、
タントラの語るエクスタシーに
到達することはない。

ウィルヘルム・ライヒ によると
セックスの中で深いオルガスム に
到達しない限り、
セックスを知っているとは
言えない。
セックスとは単なる
性エネルギーの放出ではない。

肝心なのは
身体全体がくつろぐことだ。

その時、
性体験は
性センターに極限されず、
身体全体に広がっていく。

あらゆる細胞が
それに浴し、
あなたは絶頂を迎える。

その絶頂の中で、
もはやあなたは
身体ではない。

もしセックスの中で、
絶頂に到達できなかったら…
もはや身体ではなくなるような
絶頂に到達できなかったら、
それはセックスを
全く知らないということだ。

だからこそ、
ヴィルヘルム・ライヒは
実に逆説的なことを言ったのだ。
いわく、
セックスは精神的だ。

これはまた
タントラの言葉でもある。
その意味はこうだ。
深いセックスの中で、
あなたは全く身体では
なくなる。

空に浮かぶ魂になる。
身体ははるか後ろに
置き去りにされ、
完全に忘れ去られる。

身体はもうない。
あなたは
もう物質世界の
一部ではない。
非物質となっている。

そして初めて
オルガスムが存在する。

そこに現れるのは
全面的なくつろぎ…
自分は成就してるという感覚、
何物も要求する必要が
ないという感覚だ。

この感覚、
この無欲求の感覚が
セックスの中で起こらない限り、
セックスを知っているとは
全く言えない。

たとえ子供作ったことが
あったとしても、
それは簡単なことであり、
また別問題だ。

セックスの中で
このような精神性に
到達できるのは
人間だけだ。

それがなければ
セックスとは
ただの動物本能に
過ぎなくなる。

教師や僧が
セックスを罪悪視すると
あなたは
「その通りだ」と頷く。

タントラの言うことは
なかなか信じがたい。
なぜならあなたは
それを体験してないからだ。

だからこそ
タントラは未だ世に広く
知られていないのだ。

でもその将来は明るい。
人間の知恵と理解力が
増すに従って、
タントラは認識され、
理解されるようになる。