『退屈』は、人間の生活の中で最も重要なことだ。瞑想とは、『退屈』に正面から向かうことなのだ。 | 覚醒のひかり

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縄文時代にゆるゆる瞑想をしていた、シャンタンこと宮井陸郎(1940.3.13-2022.3.17)のブログ
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【いまここをトータルに生きる】
いろんな人の言の葉を、分かち合いたいと思いまあああああああす!
(貫井笑店)

 

 

 

osho

 『退屈』は、人間の生活の中で最も重要なことだ。瞑想とは、『退屈』に正面から向かうことなのだ。


それは、大いなる理解があなたの中に生じつつある

兆しであり、マインドが覚醒にどんどん近づいたときに起こるものだ。

 そこから逃げる方法は無数にある。

しかし退屈とは人間の成長の一部であり、それに直面しなければならない。

それについて瞑想し、それと一緒にいて、それになりきるのだ。


瞑想とは、『退屈』に正面から向かうことなのだ。

瞑想者は黙って座り、自分のハラを見据え、呼吸を観察する。

こういうことを彼らは楽しんでいると思うかね? 

彼らは実は、まったく退屈しているのだ!

もし逃げずに退屈を見つめ続ければ、それはどんどん強烈になって、

やがてピークに達する。

そして突然、退屈が消える。

 退屈はただの覆いに過ぎず、その中にはあなたの『大いなる無』が詰まっている。

退屈から逃げるのは、自分自身の無から逃げているのだ。


 あなたはここで、生の究極の無を見る。

つまりあなた自身が消えるのだ。

すると誰が退屈するのだろうか? 


何に退屈するのだろうか? 

あなたはもう存在しないのだ。

退屈とともに生きるならば、それこそが瞑想である。

 退屈は作り出されなければいけない。

退屈がやってくるのを待つのではなく、自分から進んで退屈の中に入り、退屈を探求するのだ。

退屈に直面するには大きな勇気がいる。

それはほとんど死ぬようなものだ。

実際のところ、それは死ぬよりも難しい。

 しかし、仕事をしたり、お金を稼いで貯金をすることに喜びを感じ、

レストランで食事をし、映画や旅行に行ったり、あれやこれや参加しているうちは――、


人は退屈なんかしないし、楽しんでいる。


しかしそれは、まだ本当の人間ではないのだ。
 


人は退屈を感じはじめたとき、初めて人間になる。