不安と恐怖に襲われる。それはあなたがいつも表層に留まっているからだ。 | 覚醒のひかり

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縄文時代にゆるゆる瞑想をしていた、シャンタンこと宮井陸郎(1940.3.13-2022.3.17)のブログ
【地球は国境のない、一つのうつくしい平和な星です】
【いまここをトータルに生きる】
いろんな人の言の葉を、分かち合いたいと思いまあああああああす!
(貫井笑店)





2018年1月のシャンタン日記。 





不安と恐怖に襲われる。それはあなたがいつも表層に留まっているからだ。

 




2018年になり、ますます、ドンドン、日に日に、エネルギーがつよくなり、ピークにむかって

エネルギーの山登りが九合目をこえて頂上に近くなったので、すべてのひとが 自分の中心に強制的に入らされています。





そうすると、その中心のまわりにあるのがいわれのない不安や恐れです。





それを感じ切ったとき、自分の中心、そこはなにもない

「無」

「空」

に入ることができます。





それが、ぼくたちの丹田であり、深いやすらぎと静かな喜びの源です。












osho





塵のように堆積した死んだ過去が、あなたの鏡のような意識の上につもりつづける。





そうなったら、鏡のような意識は失われ、見えるのは塵だけだ。





私たちは塵に同一化する。





あなたは過去を持たない自分を想像できるだろうか?





過去全体が壊されてしまったら、あなたはどうやって生きてゆくのだろう?





あなたは何をするだろう?





あなたは誰になるだろう?





もし過去のすべてが取り去られたら、やがてあなたは自分が崩れ落ち、消えてゆくのを感じるだろう。





過去がなければ、あなたは誰だろう?





あなたはどこにいるのだろう?





そうなったら、自分を何と同一化させるだろう?

過去がなくても、あなたは依然として存在するが、あり方が変わる。





実際、あなたは過去のあなたと正反対になる。





過去全体が取り去られると、あなたはただの意識になる。





そうなったら、あなたは自我(エゴ)ではありえない。





自我とは集積された出来事、過去だ。





それがあなたから取り去られると、あなたは新しいアイデンティティ(自己確証)を得る。





あなたは、まさにあらゆるものを映しだす鏡のようになる。





ひとたび自分自身が障害物であることを自覚すれば、何をする必要もない。





この自覚そのものがあなたの古いアイデンティティを壊してしまう。





そして、古いアイデンティティが完全に壊されるとき・・





あなたの真の実存とあなたの記憶のあいだにギャップがあり、あなたの自我とあなたのあいだに空間があるとき、その空間のなかで爆発が生じる。





その空間のなかで爆発が起こる!





この爆発はどうあがいても知的に解釈することはできない。





理解しようとすればするほど、ますますわからなくなってゆく。





だから、そのことで力まずに、ただくつろぎなさい。





そして、私を理解しようとしないこと。





それよりも、私が言っていることをあなた自身の内側で感じ取りなさい。





あなたは過去だと私が言っても、その言葉を鵜呑みにしないで、それが本当かどうか考えてみるがいい。





内側に入っていって、何であれ語られていることを感じ取りなさい。





事実の観点でとらえなさい。





それは事実だ。






内側に入って、自分が過去であるかどうかを調べるがいい。





私が言っていることが本当に事実であるかどうかを調べるがいい。





あなたの内側に過去以外のものが何かあるだろうか?





あなたは死んだ過去にすぎないのだろうか?





それとも、あなたの内側にはほんのわずかでも過去とつながりを持たない生きた別の何かがあるだろうか?





それは何だろう?





自分自身のなかに閉じ込めることはできない。





なぜなら、「私」は限られているからだ。





過去は有限なので、限定することができる。





過去は限定することができる。





それは起こったことであり、有限だ。





だが、あなたの内側にある何か、過去ではなく今ここに属しているものを自覚すれば、たとえ過去全体が破壊されても、その何かは依然として存続する。





過去が破壊されても滅びずに存続するものがあなたの内側にあるとしたら、それはまさに純粋な意識、鏡のような意識だ。





そのとき、「あなた」はそこには存在しない。





あなたは、あらゆるものを映しだす鏡にすぎない。





そうなったら、あなたは自分の自我と自分自身のあいだにある間隙を感じるだろう。





あなたは空間を感じるだろう。





この理解、この自覚のなかに留まることができたら、それは瞑想になる。





この理解と自覚のなかに、あなたの真の実存・・あなたの意識・・





と過去のあいだにあるこの空間のなかに留まることさえできたら、蓄積された存在、自我は外側の層にすぎなくなる。





それは境界線にすぎなくなり、中心には純粋な意識がある。





この純粋な意識、中心のなかに留まりなさい。





それは容易なことではない。





なかなか思うようにはいかないし、骨が折れる。





というのも、私たちは一度もそこに留まったことがないからだ。





私たちは常に表層に向かって走っている。





私たちは常に表層に同一化している。





私たちは表層で生き、決して中心で生きることがない。





表層は自我だ。というのも、ものごとはすべて表層、周辺で起こるからだ。





周辺は、あなたが他者と触れ合う点だ。





私があなたを愛するとき、その愛の出来事は表層で起こる。





あなたの表層に触れたり、接触したりできるのは私の表層だけだからだ。





この世の出来事はすべて表層、境界線上で起こるため、私たちはいつも境界線上にいる。





それは行為の領域だ。





だが、実存は常に中心にある。





このギャップ、この空間のなかに留まり、自分自身であることができたら・・





表層ではなく、中心にあることができたら、表層を死んだ過去、表面、肉体にすぎないものとして自覚することができたら・・「あなた」は失われる。





私はこの肉体のことを話しているのではない。





「身体」と言うとき、私は自我を指している。





この空間を知的に解釈したり、論理的に理解したりするのではなく、実存で感じ取るとあなたは居心地が悪くなり、あたかも死んでゆくような不安に襲われる。





あなたはいつも表層に留まっていたからだ。





それがあなたの生だった。





それゆえに、中心に戻ってゆくと、死んでゆくような気分になる。





今現在は表層があなたの生になっている。





あなたはそれ以外の生を知らない。





あなたはまるで自分が沈み、死んでゆくような、窒息するような気分になる。





マインドは言うだろう。





「表層に戻るんだ。生はそこにある」と。





表層に生はない・・あるのは行為だけだ。





あることではなく、することのみがある。





何もしなくてよいときに、何もしないでいるのがひじょうにむずかしくなり、そのままでいることができなくなるのはそのためだ。





あなたは何かをやりはじめる。





新聞を読むかもしれない。





ラジオをつけるかもしれない。





あなたは何かをする。

 




あるいは、何もすることがなければ、眠ってしまうかもしれない。

 




だが、無為の状態に留まるのは、もっとも骨が折れることだ。

 




ほんの片時もあなたは無為の状態に留まっていない。

 

 


だが、存在は無為の状態に留まることができる者たち、

 

 



中心に留まることができる者たちだけに開示される。

 

 

 


 



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