osho
自分が喜びを感じる方向を見つけるがいい。
あなたのハートの鐘を鳴らす星に向かって進むのだ。
どこへ向かうかはあなた自身が決定すべきであって、ほかのだれにも決めさせてはならない。
私が極端の道に従う人々を批判したとき、
何度も中庸の道について語ったのはそのためだ。
なぜなら、極端はけっして全体にはなりえないからだ。
それはいずれか一方の極端にすぎない。
一方の極端にとどまることはもう一方の極端を見逃すことであり、生の半分だけを生きることにしかならない。
あなたはとてつもなく価値のある何かを見逃したまま、それが何であるのかをけっして知ることはないだろう。
そういった文脈のなかで、私は中庸の道について語ってきた。
中庸の道、中道――ちょうど真ん中――を歩く人は、はるかかなたまで伸ばされたふたつの翼のような両極をもっている。
彼はその両極を自らの存在の内に包み込んでいる。
彼は真ん中に立っているが、その翼は両方の極に同時に届いている。
彼は全体的な生を生きる。
しかし、別の文脈においては、私は中庸の道に“対立すること”を語ってきた――生を理解することはそれほど単純ではない。
それは世界でもっとも複雑な現象だ。
そうであって当然だ。
なぜなら生は、この全存在のなかで意識がもっとも進化した状態だからだ。
生は実に複雑な現象なので、人にはけっしてそのすべてを語ることはできない。
あなたはたったひとつの局面についてしか語ることができない。
そして、生のひとつの局面について語るとき、
あなたは知らないうちに他の局面を否定することになる。
あるいは、少なくとも無視せざるをえない。
生はそういったすべての矛盾対立するものの組み合わせなのだ。
だから、あなたがひとつの局面について語っているとき、それに対立する局面――それもまた、あなたが今語っている局面と同じように生の一部なのだが――否定され、打ち消されることになる。
私の話を理解するということは、
特定の文脈において語られたことを理解するということだ。
けっして何かをその文脈から切り離して受け取ってはならない。
そうでないと、あなたはただただ当惑し、混乱するばかりだろう。
ときとして私は中庸の道について語るが、
それはさっきも言ったように、それが生の全体を含んでいるからだ。
その美しさはその全体性にある。
またときとして、私は極端の道を擁護する立場でも語ってきた。
なぜなら、極端には極端の美しさというものがあるからだ。
中庸の道を歩く人の生は、つねに生ぬるい。
彼はきわめて用心深い。
彼は極端に走ることを恐れて、ひとつひとつのステップを実に計画的に進む。
中庸の道に従う人は、情熱的に生きることができない。
彼は、生の松明を両端から同時に燃やすことができない。
それができるようになるためには、
人は極限を生きることを学ばなければならない。
極限を生きることには強烈さがある。
が、それには全体性がない。
だから私が強烈さについて語るときは、極端の道の方を強調してきた。
だが、こういったことはすべて、一定の文脈のなかで語られている。
私はまた、道はないとも言っている。
道という考えとともに、いつも私たちはすでに完成された高速道路、
超高速道路を想像する――あなたがただその上を歩くだけでいいような。
私が、道などないと否定しつづけてきたのはそのためだ。
現実の世界において、あなたは歩くことによって道をつくり出さなければならない。
あなたたが歩くにつれ、一歩一歩、小道がつくり出される。
別の言い方をすれば、あなたは境界線も、道も、道路標識もない、未知の領域に入りつつある。
あなたの歩みが道をつくり出していることは確かだが、あなたがその上を歩くことはできない。
あなたはすでにそこを歩いてきてしまった――そうやって道は拓かれてきたのだ。
そして覚えておきなさい。
“あなたの”の道はほかのだれのための道にもならないということを。
なぜなら、それぞれの個人はきわめてユニークであり、もしだれかほかの人の道に従ったら、その人は自分自身のアイデンティティーを失い、自分自身の〈個性〉を失ってしまうからだ。
だが、アイデンティティーや〈個性〉をもつことこそが、〈存在〉におけるもっともすばらしい体験なのだ。
自分自身をなくして、あなたはいったい何を得ようというのか?
ただ偽善者になるだけだ。
いわゆる宗教的な人々がみな、世界で最悪の偽善者なのはそのためだ。
彼らはイエス・キリストやゴータマ・ブッダやマハヴィーラに従っている。
これらの人々はただ偽善者であるだけではない。
こういった人々は臆病者でもある。
彼らは自分の生を自分自身の手につかんでいない。
彼らは自分自身の尊厳に何の敬意も払っていない。
彼らは自分がだれなのかを見いだそうとしていない。
彼らは自分ただ、ほかのだれかを真似ようとしているにすぎない。
彼らは上手な役者にはなれるだろうが、けっして自分自身にはなれない。
そして、あなたの演技がいかに美しかろうと、いかに正確だろうと、それはつねに表面的な何か、あなたの上に積もったほこりの層にとどまる。
ちょっとした状況の変化だけでそれは吹き払われ、あなたの現実が姿を現わす。
あなたが自らの独自性を失うということはありえない。
それはまさにあなたの本性だ。
とりわけ反逆者にとっては……この独自性の主張こそが、彼のまさに基盤、彼のまさにスピリチャリティ、彼の全存在となる。
だがそれは、彼が自分のエゴを主張するという意味ではない。
なぜなら、反逆者はあなたの独自性をも同様に尊重するからだ。
人々は平等でもなければ、不平等でもない。
そういった哲学はまったく心理学的な事実、科学的真理に基づいていない。
平等というまさにその考え自体が、まったく根拠のないものだ。
それぞれにユニークな人間たちが“等しい”などと、どうして考えることができるだろう?
もちろん、人々には平等の機会が与えられるべきだ――
が、何のために?
とても奇妙な目的のためだ。
人々は自分自身になるためにこそ平等の機会を与えられるべきなのだ。
別の言い方をすれば、等しくはない。
ユニークな存在になるためにこそ平等の機会を与えられるべきなのだ。
そうなれば、さまざまな花、さまざまな色彩、
さまざまな香りの多様性が、この世界を豊かにしてくれるだろう。
貫井投稿