子供が自分の性器と遊んでいたら、それは間違ったこととされる。 | 覚醒のひかり

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縄文時代にゆるゆる瞑想をしていた、シャンタンこと宮井陸郎(1940.3.13-2022.3.17)のブログ
【地球は国境のない、一つのうつくしい平和な星です】
【いまここをトータルに生きる】
いろんな人の言の葉を、分かち合いたいと思いまあああああああす!
(貫井笑店)


osho 


子供がいったん自由の味を知ってしまうと、彼は二度と社会の、

教会の、団体の、政党の一員にはならない。

彼はひとりの個人に留まり、自由なままでいて、自分の周りに自由の躍動感をかもし出す。

彼の存在そのものが自由への扉になる・・・


いつであれ子供が幸せを感じていると、何をやっている時であれ、

必ず誰かがやって来て彼を止めてしまう・・・「そんなことをしてはいけない!」と。

だんだんと子供は「僕が幸せを感じることは間違っているんだ」と理解するようになる。

そしてもちろん彼は、他人がしろと命じたことをやっても少しも幸せを感じない。


それは彼の中から自然に湧き起こって来た欲求ではないからだ。

それで彼は、惨めと感じることが正しいのであり、

幸せと感じることは間違っているのだと知るようになる。

そういった深い連想が生まれて来る。

学校の教室の外でふいに一羽の小鳥が歌い始めたら、

もちろん子供は一心にその小鳥の声に耳をそばだてる・・・

醜いチョークを持って黒板の側に立っている算数の教師ではなくて。

だが教師の方が小鳥よりも力を、政治的な力を持っている。


確かに小鳥には力はないけれど、美しさがある。

小鳥は「よく聞け!これに集中しろ!」と頭を叩くことなしに子供を惹きつける。

単純に、自発的に、自然に、子供の意識は窓の外へと流れ出してゆく。

それは小鳥のもとへと至る。

彼のハートはそこにあるが、目は黒板の方を見なければならない。


見たいようなものなど何もないが、その振りをしなければならない。

幸せであることは間違っている。

幸せになるたびに、何かが間違っているのではないかと、子供は恐れるようになる。

子供が自分の肉体と遊んでいたら、それは間違ったこととされる。

子供が自分の性器と遊んでいたら、それは間違ったこととされる。

それは子供の生にとっては、最もエクスタティックな瞬間のひとつだ。

彼は自分の肉体を楽しむ。


それはわくわくするような体験だ。

だが、全てのわくわくする感じは切り捨てられなければならないし、

全ての歓びは打ち壊されなければならない。

両親達にも彼らの両親から同じことがなされた。

彼らは子供達に同じことをやっている。

このようにして、ひとつの世代が次の世代を駄目にしてゆく。

このようにして私達は、神経症をひとつの世代から次の世代へと伝えてゆく。


地球全体が精神病院になっている。

誰もエクスタシーというものを知らないように見える。

それは失われている。

障壁に次ぐ障壁が作り出されて来た。

ここでは日常的に観察されることだが、瞑想を始めた人々はエネルギーが湧き上がって

来るのを感じ、そこで幸せを感じるようになると、彼らは直ちに私のところにやって来てこう言う。

「とても奇妙なことが起こっているんです。

私は幸せを感じると共に、何の理由もないのに罪悪感も感じています」


罪悪感?

彼らもまた戸惑う。なぜ罪悪感を感じなければならないのか?

何も理由はないことは彼らも分かっている・・・何ひとつ悪いことはしていない。

どこからこの罪悪感は起こって来るのか?


それは深く根ざした条件付けから起こって来る・・・歓びは間違っているという。

悲しくなるのはいいが、幸せになることは許されない。

私はかつてある町に住んでいた。


警察署長は私の友人だった。

私達は大学の学生の頃からの友人同士だった。

彼は私のところにやって来てはこう言った。

「僕はひどく惨めな思いをしてるんだ。それから抜け出すのを手伝ってくれないか」

私はこう言ったものだ。

「口では抜け出したいと言っているが、君は本当に抜け出したがっているようには見えないね。

そもそも何でここの警察署で働くことに決めたんだい?

君はひどく惨めそうだし、しかも他人まで惨めにしたがっているようだね」


ある時、私は3人の弟子達に町中を歩き回って、

町のあちこちでダンスを踊って楽しそうにしなさいと言った。

彼らは言った。

「何の為にですか?」私は言った。

「とにかく行ってやってみなさい」


もちろん1時間もしない内に、彼らは警察に捕まった。

私は警察署長に電話をかけてこう言った。

「なぜ私の弟子達を捕まえたんだい?」彼は言った。

「頭がおかしいと思ったんだよ」

私は彼に訊ねた。

「彼らは何か間違ったことをしでかしたのかい?

誰かを傷つけたとか?」彼は言った。

「いいや、何もしていないさ。

彼らは何ひとつ間違ったことはしていないよ」

「じゃあ、なぜ彼らを捕まえたんだい?」彼は言った。

「でも、彼らは路上でダンスを踊っていたんだよ!

それに笑っていた」


「しかし、誰にも何ひとつ悪いことをしていないのなら、

なぜ彼らの邪魔をしなければならないんだい?

ただ踊っていただけだ。

罪もない連中だ。

ただ笑っていただけなんだから」

彼は言った。

「君の言う通りだが、それは危険なことだ」

「なぜそれが危険なことなんだい?

幸せにしていることが危険なのかい?

エクスタティックにしていることが危険だとでも?」

彼は私が言おうとしていることを理解して、直ちに彼らを釈放した。


彼は私のいるところに駆けて来て、こう言った。

「君が言うことが正しいのかもしれない。

僕は自分が幸せになることを許せないんだ・・・だから他の誰かが幸せになることも許せない」


これがあなた方の政治家であり、これがあなた方の警察署長であり、

これがあなた方の知事だ。

あなた方の裁判官、あなた方の指導者、あなた方のいわゆる聖者、

あなた方の僧侶、あなた方の法王・・・彼らはそういった人達だ。

彼らはみなあなた方の惨めさに多大の投資をしている。

彼らはあなた方の惨めさに依存している。

もしあなたが惨めなら、彼らは幸せだ。


惨めな人だけが寺院に祈りに行く。

幸せな人が寺院に行くだろうか?

何の為に? 

幸せな人は幸せのあまり至るところに神を感じる!


幸せとはそうしたものだ。

彼は天地万物とエクスタシーに満ちた愛の中にあり、見るところ全てに神を見出す。

至るところが彼の寺院だ。

どこであれひれ伏せば、彼は直ちにそこに神の御足を見出す。

彼の畏敬、彼の崇敬は、ヒンドゥー教寺院やキリスト教会に

行かねばならないほど狭いものではない。

それは滑稽なことだ。

それは意味もないことだ。

神を見ることが出来ない惨めな人々だけが・・・

咲いている花の中に神を見ることが出来ない。

歌っている小鳥の中に神を見ることが出来ない。


美しい七色の虹の中に神を見ることが出来ない。


浮かび漂う雲の中に神を見ることが出来ない。



流れる川や大海原の中に神を見ることが出来ない。





子供のあどけない瞳の中に神を見ることが出来ない・・・