osho
私はゴータマ・ブッダを愛している。
ほかのどんなマスターをもこれほど愛したことがないほどに――。
だが、私の愛は盲目ではない。
私は彼のことをできるかぎり厳しく批判してきた。
私が彼を讃えるのは、私が彼を正しいと見たときだ。
現代にとって、未来にとって、来るべき新しい人間にとって正しいと見たときだ。
そして私はブッダを容赦なく批判してきた。
彼が25世紀古く、いまだに様々な条件づけや古びた考えを引きずっているのを見つけたときはいつでも――
そういった条件づけや古びた考えは、新しい人間にとって何の役にも立たない。それは大きな障害になる。
ゴヴィンド・シッダールタは、自分が眼のあたりにしたことを見て、とまどったにちがいない。
私はゴータマ・ブッダが最も乗り物に選びそうにない人間だからだ。
だが、これがゴータマ・ブッダの美しさだ。
彼は理解している。
教えは現在と未来のためにあるべきものだ、ということを。
自分が完全に新鮮な存在を必要としている、ということを。
自分の伝統も含めて、いかなる伝統にも束縛されていない新鮮な存在、まったく伝統や正統にとらわれない人間、そう、
今日咲いているバラのように新鮮な、今日の人間を――
たとえその人間が古いブッダの教えに何度も反対しているとしてもだ。
私はそれを宣言するつもりはなかった。
理由は簡単だ。
もし宣言したら、私にはその古い人を批判するのが難しくなってくるからだ。
だから、私はまったく超然としていた。
私の自由と独立がいかなる意味でもそこなわれないように――
私には私自身のメッセージがある。
もしゴータマ・ブッダが私のメッセージにも彼のメッセージの本質的要素と同じものがあるのを見いだすなら、そのときには、それは彼の選択だ。
それは私にかかる重荷ではない。
私は、それがなんであれ、未来の人類の成長にふさわしくないものを見つけたらいつでも、彼をを批判しつづける。
だが、ゴヴィンド・シッダールタの困難は、彼がそれを秘密にしておくことができなかった点にある。
世の中でもっとも難しいことのひとつは、秘密を守ることだ。
そして、このような秘密は――
だが私は、まったく今まで通りの私でありつづける。
いかなる妥協もしない。
ゴータマ・ブッダや過去のあらゆる導師たちが乗り物として私を選ぶことはできる。
だが、私は彼らが私を汚すことはいっさい許さない。
私のメッセージは私のメッセージのままだ。
そう、彼らは乗り物として私を選ぶことができる。
ゴヴィンド・シッダールタがいみじくも言ったように、川は大海に注ぐことはできる。
何千という川が大海のなかへ注ぎこむことはできる。
だが、それらの川が大海を甘くすることはない。
逆に、それらの川のほうが塩っぱくなってしまう。
ゴータマ・ブッダは、彼の乗り物として私を選んだ。
もうこれ以上、第三身体のなかでぶらぶらしつづけることが難しくなったからだ。
25世紀が過ぎた。
実際のところ、それ以上の少しの年月が過ぎた。
彼は選ばなければならなかった。
だが、彼が選んだ人物は自分自身のメッセージをもっていた。
それが彼の本質的要素と合致するとしたら、それはほんとうにすばらしいことだ。
だが、もしそれが合致しなければ、私はこれまでどおり、彼に厳しくあたる。
それに変わりはない。
私は彼の代弁者になるつもりはない。
私は私自身の声でありつづける。
だが、ゴヴィンド・シッダールタが見たものは、たぐいまれな体験であり、大いなる現実認識だ。
今ここに、さらに二人の体験者がいる。
もし彼らが勇気を奮い起こしたら、そのときには彼らの質問が来るだろう。
勇気を出せなかったら、そのときには彼らは秘密の重荷を背負ったままになる。
それを公開して、それから解放される方がいい。
だが、いずれにしてもそれはすでに公開されている。
ゴヴィンド・シッダールタは、ほとんど9分9厘の仕事をした。
あなた方ふたりにはもうなにも残っていない。
私の近くにずっといた人は誰でも、何度も感じている。
私が自分の考えを描いてみせるために、他の誰よりも
ゴータマ・ブッダや彼の人生、彼の物語を引き合いに出すことを――
ゴータマ・ブッダは私にきわめて近い。
その違いは25世紀も離れていない。
たったの25センチしかないかもしれない。
だが、違いはある。
私は妥協する人間ではない。
私はゴータマ・ブッダにも妥協しない。
だが、究極の真理であるかぎり、なんであれそれはけっして誰の所有物でもない。
究極の真理は、ゴータマ・ブッダのものでもなければ、私のものでもない。
ただ非本質的なものだけが、違いをなす。
本質的なものはつねに同じだ。
私の努力は、非本質的なものをすべて断ち切り、ただ純粋に本質的なメッセージだけをあなた方に与えることだ。
ただ本質的な宗教だけが未来に生き残ることになるのだから――
非本質的な儀式はすべて死ぬことになる。
今世紀の終わりとともに、この世には
〈宗教性〉はあるが、宗教はなくなるだろう。
おそらく、彼はふさわしい人物を選んだ。
彼は、その事実を宣言するしかるべき人――
ゴヴィンド・シッダールタ――をも選んだ。
私はそれを宣言しようとはしなかった。
なぜなら、私の側からの宣言は、私が他者のメッセージの乗り物に
なってしまったかのような妥協をもたらすからだ。
私は誰の乗り物でもない。
だが、実際のところ、私のメッセージとゴータマ・ブッダのメッセージはほとんど似通っている。
あまりにもよく似て、ほとんど瓜二つなので、彼は私の乗り物だったとも言えるし、あるいは、私が彼の乗り物だとも言える。
だが、それはどんな意味においても私の取り組み方を変えることにはならない。
今や、私はゴータマ・ブッダに対して前よりもいっそう厳しくなる。
彼の最も本質的で純粋な部分だけが未来の人間に届くように――
(完)