覚醒のひかり

覚醒のひかり

縄文時代にゆるゆる瞑想をしていた、シャンタンこと宮井陸郎(1940.3.13-2022.3.17)のブログ
【地球は国境のない、一つのうつくしい平和な星です】
【いまここをトータルに生きる】
いろんな人の言の葉を、分かち合いたいと思いまあああああああす!
(貫井笑店)

 

 

 

生き方と食事には、

不思議なつながりが

あるって考えているの。

 

 


素材の命を

生かすような

料理をすれば、

人も生かされるって。

 


 

佐藤初女

 

 






 

 

 

ひとつひとつ手順をていねいに、その食材が一番生きるように調理していくと、決して無意識には食べられないものです。

 

 

 

 

逆に、ただモノとして作っていると、食事は味わうものではなく“腹を満たす“ものになってしまいます。

 

 

 

 

食材の命が、調理によってもう一度生かされた時に、初めておいしいものができるし、その命そのものをいただくことによって、わたしたちは元気になります。

 

 

 

 

ニンジンもね、生きていると思うの。だから、力まかせにざくざくと切ったら、ニンジンも苦しいと思うのよね。だからわたしはそっと切るの。なんでもそう。

 

 

 

 

ニンジンや大根の皮をむく時も、ニンジンや大根の丸いままの形が残るような剥き方をしています。「もっとよく剥けるける皮むき器がありますよ」と教えてくださる方もありますが、「野菜でも筋が通っているから痛そうでしょ」と言っているのです。

 

 

 

 

野菜もお魚もみんな生きているから、わたしは優しく扱っています。

 

 

 

『いまを生きる言葉「森のイスキア」より』一部引用以上









 

 

 

 

 

貫井投稿

 

 

 

 






自然がいろいろなことをわたしたちにしゃべっています。
 
 

 
この命はなんでしょうかっていうことが本当にわかることが大事だと思う。
 
 

 
今から7世代の子どもたちのために何をわたしたちは渡すのでしょうか。
 


あなたは地球の子どもだと思います。




クララ・シノブ・イウラ









2010年に名古屋で開催されたcop10(生物多様性条約第10回締結国会議)に際し、わたしたち日本人に向けてお話ししてくださったメッセージです
 



クララ・シノブ・イウラさん

 
13人のグランドマザーの一人。日系ブラジル2世。サンパウロの大学で哲学を学んだ後、さまざまな神秘体験を経てアマゾンの奥地に移住。薬草と祈りでアマゾンに自生する植物から薬を作り、多くの病人を救っている。


















↑↑↑ 英語ですが、日本語の字幕をつけることが出来ます。




画面右を押して、歯車印→字幕→自動翻訳→日本語の順に選択。












私は、昔のドラえもんのエンディングの歌、「ぼくたち地球人」が大好きでした。




宇宙意識に目覚めようと、



宇宙人がどう言おうと、



元宇宙人であろうと、



今のわたしたちは地球人です。




意見が合わないこともあるけれど、大きな目的のために心を合わせ、希望のシナリオを共有し、実現出来ますように。







貫井(み)投稿








存在



マインドフルネスの練習が目指しているのは、何かをすることでも、「正しくする」ことでもありません。



それは存在することなのです。



しかも、無知の知を含めて、「知る」ことなのです。




ジョン・カバットジン






「自分を見つめ直すための108のヒント」より一部引用以上





















貫井投稿








 
 
 
 
 
あなたが苦しいのは、問題を解決しようとしているからなのです。
 
 
津留晃一
 
 

 

 

 

 

 

 
完璧なペースで、今地球の波動は変わりつつあるようです。
 
 
準備の整った方々には、問題がモーレツな勢いで次々と押し寄せてきていることでしょう。
 
 
やって来る問題の原因は、人それぞれに複雑で多岐にわたり、一般論として話したところで、なかなか本人の納得のいくところとはなりません。
 
 
ですが、それを良きものとして捉えられる人は幸せな人です。
 
 
問題が現れた時の態度として、まずそれを「解決しようとしない」という心構えを第一に挙げたいと思います。
 
 
もちろん「するな」という事ではありません。
 
 
ささいな問題も放っておいたら、向き合わずにはいられない状態が必ずやってきますから。
 
 
出来ることならどうぞ早め早めに解決して下さい。
 
 
このニュアンスをうまく伝えられると良いのですが、何であれ「しよう」と行為することはうまくいきません。
 
 
単純なところからお話しすれば、「出来る」と思い込んでいる事だけが出来るからです。
 
 
疑いの心が入ったとたん、出来ていた事も出来なくなります。
 
 
出来なかった事も出来るのだと思い込めた瞬間、出来るようになるからです。
 
 
壁の向こうを透視しようといくら力んでも出来ないのに、ただ見たとき、見える事が何度かありました。
 
 
「しよう」、「しよう」、と働いているのは自我である、という事を知って下さい。
 
 
この事を今はっきりと自覚して下さい。
 
 
自我には現象化そのものの力はありません。
 
 
現象化の力は宇宙(大いなる我)に所属しています。
 
 
ちょっと考えてみて下さい。
 
 
当たり前に出来る事に「しよう、しよう」という思いを働かせることはありません。
 
 
「深呼吸しよう」と思った時の感覚と「壁の向こうを透視しよう」と思った時の感覚の違いに気付いてみて下さい。
 
 
出来ると信じている事をしようと思ったときの心の働きと、出来ないかもしれないと思っていることをしようと思っているときの心の働きは、全く異なったものです。
 
 
現段階の人間にはこの違いをわかる必要がなかった為に、本来違う働きのものに同じ言葉が使われています。
 
 
まずその違いをぜひ自分で自覚してみて下さい。
 
 
そしてその違いに自分で区別がつくならば、それぞれを別の言葉で表現してみる事をお薦めします。
 
 
「しよう、しよう」と頑張ろうとするのは「出来ないかもしれない」と疑っているに他なりません。
 
 
ですからあなたが「しよう、しよう」としている事は出来ないのです。
 
 
さいころの6の目を出そうと想念を傾ければ、その目が出る確率が上がってくることは既に知られていることですが、せいぜいその場合の増加確率は1%とか2%に過ぎません。
 
 
想念の力の使い方を根本的に誤っています。
 
 
片方で出来ないと信じたまま、6を出すぞ、6を出すぞと頑張っているのですから。
 
 
りきんでいる人は、出来ないと思い込んでいる人です。
 
 
単にさいころの目は自分の思い通りに出せるのだと信じ込めた人は一挙にその確率が8割9割と増えてしまう事でしょう。
 
 
よし、その方向でやってみようと思われたあなたに申し上げますが、その想念の力の働かせ方をさいころの目なんかではなく、どうぞ自分の幸せに直接試される事をお薦めします。
 
 
「ああ、そうか私は自分を幸せにする事が出来るのだ」と、「これまでは彼があんな人だから自分の人生は台無しだと思っていたけど、私は自分の力で自分を幸せにすることが出来るのだ」と、
 
 
是非そんな心の使い方をこそお薦めします。
 
 
人は自分にとって都合の悪いことほど頑張って「しよう」とします。
 
 
都合の悪いことほど「出来なかったら」という恐れの思いが強くなり、その思いに比例して頑張ります。
 
 
頑張って改善されることはほんの数%、たいした違いはありません。「もういい、どうにでもなれ」と開き直ったときに事が急に好転し始めた という話を何度か聞いたことがあるはずです。
 
 
「しよう、しよう」と自我が働かなくなるからです。
 
 
人は苦しいから問題を解決「しよう」とします。
 
 
実は苦しいのは、問題を解決しようとしているからなのです。
 
 
逆なのです。
 
 
もう一度繰り返しますが、苦しんでいる理由は問題を解決しようとしているからなのです。
 
 
 
 
 
貫井投稿

 

 

 

 

我々はもはや独力で冒険に挑む必要はない。

 

 

 

古今の英雄が道を開いてくれている。

 

 

 

迷宮は知り尽くされている。

 

 

 

我々はただ英雄の後をたどればいい。

 

 

 

そうすれば、恐るべき怪物に遭うはずのところで神に出会う。

 

 

 

人を殺すはずのところで己の自我を殺す。

 

 

 

外界へ旅するはずのところで自分の内面にたどり着く。

 

 

 

そして孤独になるはずのところで全世界と一体になる。

 

 

 

ジョーゼフ・キャンベル

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神話学の世界的権威であったジョーゼフ・キャンベルはすべては物語からはじまると信じていました。

 

 

 

そこでまず彼のお気に入りの話を1つ紹介しましょう。

 

 

 

宗教に関する会議で日本を訪れていたキャンベルは、あるアメリカ人学者が神道の神官にこういうのを耳にしました。

 

 

 

「私たちは、神道の儀式に数多く参加して、神社もたくさん見ましたが、あなた方の思想も教義も理解できません」

 

 

 

すると神官はしばらく考え込みこう答えました。

 

 

 

「私たちには思想も教義もないと思います。私たちは舞を舞うだけです」

 

 

 

キャンベルも神話についてそう言いたかったのかもしれません。

 

 

 

彼にとって神話は思想でも教義でもなく、時代を超えて受け継がれてきた音楽なのです。

 

 

 

キャンベルは1987年に83歳で亡くなるまで、およそ20冊の著作を世に送り、研究者だけでなく芸術家などにも影響を与えました。

 

 

 

なかでも「千の顔を持つ英雄」や「神の仮面」は古典的名著です。

 

 

 

ジョーゼフ・キャンベルにとって、神話は宇宙の歌であり、人間の意識の底に深く染み込んだ音楽でした。

 

 

 

人間は神話という音楽に合わせて舞っているのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

ビル・モイヤーズ

 

千の顔を持つ英雄とはどういう意味ですか?

 

 

 

ジョーゼフ・キャンベル

 

英雄はそれぞれの土地や時代によってさまざまに異なりますが、実は彼らには決まった行動パターンがあります。

 

 

 

どの英雄も同じ行動パターンを繰り返していて、まるで同じ人物のようです。

 

 

 

同じ人物が千の顔を持って、いくつもの物語に登場しているかのようです。

 

 

 

ですから千の顔を持つ英雄なんです。

 

 

 

ビル

 

神話には英雄の物語がずいぶんたくさんありますが、どうしてでしょうか?

 

 

 

キャンベル

 

それが語り伝えられる値打ちがあるからです。

 

 

 

神話以外の物語でも主人公は英雄的な人物であることが多いですしね。

 

 

 

英雄とは普通の人が成し遂げたり、経験したりすること以上の何かを発見したりやってのけたりする人なんです。

 

 

 

何か自分より大きいもの強いものに人生をかけて挑んだりする人です。

 

 

 

そういう人の物語は語るに値するわけです。

 

 

 

 

ジョーゼフ・キャンベル

ビル・モイヤーズ

TVシリーズ『神話の力』より一部引用以上

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


あなただけの冒険を生きよう!

 

 

 

 

貫井投稿

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

地球という惑星自体が1つの構成体であり、もっと言えば、地球全体を1つの生命体と捉えることができます。

 

 

 

そして私たち人間も切り離すことのできない“地球の一部“なのです。

 

 

 

ガイアで最も重要なのは管理者はいないということ。

 

 

 

人間のように自己調節しています。

 

 

 

私たちは体内の酸素が不足しても呼吸を早めろと体に指示などしません。

 

 

 

同様に地球も自動で調節しているのです。

 

 

 

私たち人間には知恵があり、地球上で唯一系統的な思考力を持つ生物です。

 

 

 

人間が地球の一部なら地球に思考力があるのと同じです。

 

 

 

ガイアは今、地球上のどの生命よりも人々を頼りにしていると思います。

 

 

 

自然淘汰されていく中で、人類は思考力を持つ存在として生き残ってきました。

 

 

 

私たちは地球上のどんな生物よりガイアにおいて有意義な存在です。

 

 

 

自らを管理し地球を守るのが人類の使命なのです。

 

 

 

ジェームズ・ラブロック博士

1919年7月26日ー2022年7月26日

 

 

 



 

 

 

以下、


2016ワッツ傑作ドキュメンタリー

【気候変動がわかる!】

ガイアのメッセージ

地球・文明・そしてエネルギー

ラブロック博士へのインタビューより引用

 

 

 

 

ガイア理論が生まれたのは1960年代でした。

 

 

 

地球大気の力にふと思い至ったのです。

 

 

 

南極の氷に覆われた、石炭の分析によると、少なくとも100万年の間地球の大気は安定しています。

 

 

 

大気中に含まれる酸素やメタンの量はほぼ一定です。

 

 

 

これを可能にするのは、生命の働きだけではなく、“自己調節“が必要です。

 

 

 

そうでないと大気の組成が変化します。

 

 

 

地球では何らかの力により大気や海や地表の岩石の組成が調節されています。

 

 

 

地球という惑星自体が1つの構成体であり、もっと言えば、地球全体を1つの生命体と捉えることができます。

 

 

 

そして私たち人間も切り離すことのできない“地球の一部“なのです。

 

 

 

ガイアで最も重要なのは管理者はいないということ。

 

 

 

人間のように自己調節しています。

 

 

 

私たちは体内の酸素が不足しても呼吸を早めろと体に指示などしません。

 

 

 

同様に地球も自動で調節しているのです。

 

 

 

生物は発生すると種を維持するため、周囲の環境にダメージを与えていきます。

 

 

 

それを繰り返すうち残される子孫は限られていきます。

 

 

 

環境に良い影響を与えるもの以外は淘汰されていくのです。

 

 

 

好ましくないものが排除され、たどり着いたのが今の状態です。

 

 

 

“自然淘汰“ですね。

 

 

 

このままではやがて地球を傷つけることになります。

 

 

 

一部の人にはわかるでしょう。

 

 

 

石炭や石油を燃やし続ければ予定より早い段階で深刻な事態になりかねません。

 

 

 

私たちは地球と共にあります。

 

 

 

このままでは本当に危険です。

 

 

 

始まりは大量の化石燃料を燃やし始めた時です。

 

 

 

それまで地球上の生物は、炭素や石炭や石油という形で使うことはありませんでした。

 

 

 

その存在に注目すらしていなかったのです。

 

 

 

石炭や石油を盛んに使い始めたのは、約300年前でした。

 

 

 

地質学ではこの時代を“人新世“と呼びます。

 

 

 

地球に対し人類の影響が拡大しつつある時代です。

 

 

 

人類の営みの結果として地球には異変が生じています。

 

 

 

自己調節が必要です。

 

 

 

つまり何らかの策を講じなければなりません。

 

 

 

二酸化炭素の増加を抑える対策が必要なのです。

 

 

 

原発の事故や被害に関しては数多くの記録が存在しますが、それらによると、原発事故の件数自体はごくわずかです。

 

 

 

福島ではマグニチュード9という壮絶な巨大地震が発生しました。

 

 

 

起こりうる最大レベルの地震です。

 

 

 

続いて1000年に1度という大規模な津波が発生し、原子力発電所は大きなダメージを受けました。

 

 

 

しかし原発での死亡者はゼロでした。

 

 

 

つまり原子力は安全なのです。

 

 

 

英国でも原発による死傷者はゼロです。

 

 

 

一方、石炭や石油産業では、同時期に数万人も亡くなくなっています。

 

 

 

生物の進化においてまず重要なのは光合成生物でした。

 

 

 

太陽光をエネルギー源とし栄養素と酸素を生成したのです。

 

 

 

最初の重要な1歩です。

 

 

 

人類は2番目に重要な種であり、ガイアの存続には欠かせません。

 

 

 

なぜなら人類は初めて太陽をエネルギーとして利用し、情報として保存・加工することを学んだからです。

 

 

 

私たち人間には知恵があり、地球上で唯一系統的な思考力を持つ生物です。

 

 

 

人間が地球の一部なら地球に思考力があるのと同じです。

 

 

 

畑にソーラーパネルを置けば何も栽培できませんし、太陽光も効率よく集まりません。

 

 

 

考えれば分かることです。

 

 

 

その他の設備も同じく食物の栽培を妨げてしまいます。

 

 

 

日本は人口が多くただでさえ食料の自給自足は困難でしょう。

 

 

 

風車やソーラーパネルで土地を覆うなど無茶です。

 

 

 

私の個人的な見解としては、化石燃料を太陽光や風力に置き換えるというのは不条理です。

 

 

 

別に不可能だとは言っていません。

 

 

 

10年後は無理でも40〜50年もすれば技術が進み、太陽光がガソリンに替わるかもしれません。

 

 

 

太陽光で地球全体のエネルギーを賄うことも十分に可能だと思います。

 

 

 

しかしまだ時期尚早です。

 

 

 

今エネルギーを置き換えれば、多くの混乱を招き非常に非効率です。

 

 

 

不適切なエネルギーを使うのは愚かなことです。

 

 

 

ですから私は原子力エネルギーの利用を強く支持します。

 

 

 

原子力エネルギーは安全で理にかなった選択であり、化石燃料から再生可能エネルギーへ移行する際の繋ぎとなります。

 

 

 

技術が未熟なまま、再生可能エネルギーに急いで移行するべきではありません。

 

 

 

ガイアは今、地球上のどの生命よりも人々を頼りにしていると思います。

 

 

 

自然淘汰されていく中で、人類は思考力を持つ存在として生き残ってきました。

 

 

 

私たちは地球上のどんな生物よりガイアにおいて有意義な存在です。

 

 

 

自らを管理し地球を守るのが人類の使命なのです。

 

 

 

失敗は宝であり、失敗なくして進歩はありません。

 

 

 

失敗を正すことで学びが得られます。

 

 

 

過ちを犯したこと自体にとらわれてはいけません。

 

 

 

それを受け止め、訂正すれば良いのです。

 

 



 

引用以上

 

 

 





 

 

 

 

7月26日、今日はガイア理論を提唱したイギリス人の科学者、ジェームズ・ラブロック博士の誕生日であり命日です。

 

 

 

ラブロック博士は2022年7月26日103歳で亡くなりました。

 

 


以下、

ニューズウィーク日本版

『「ガイア理論」のラブロック博士が死去、いま振り返る成り立ちと意義』

より一部引用

 

 

https://www.newsweekjapan.jp/akane/2022/08/post-31.php

 


「広い視野で複合的な問題に取り組むべき」というメッセージ




ラブロック博士は、後年は地球温暖化への警鐘に力を注ぐようになりました。




80歳を過ぎても精力的に活動し、2004年に「原子力だけが地球温暖化を停止させることができる」と断言したことで、「ガイア理論」によって良好な関係だった環境保護活動家たちと袂を分かちました。




『ガイアの復讐』(中央公論新社、2006年)では、「人間による環境の収奪はガイアの調節可能な範囲を既に超えてしまったのではないか。




ただちに対処したとしてもせいぜいよくて悪化の速度を緩めることくらいであり、もはや回復は望めない」と悲観し、




「『ガイアの復讐』により文明が崩壊した後に生き残る術を、子孫に語り伝える用意をすべきだ」と主張しました。




近年は精神論や新興宗教のように扱われる「ガイア理論」ですが、ラブロック博士は英国で最も尊敬されている科学者の1人に数えられています。




英サウサンプトン大のトビー・ティレル教授(地球システム科学)は、




「ガイア理論自体は否定しつつ、同時にラブロック博士の独創性と視野の広さは高く評価している。ガイア理論は、地球を理解するためには総合的な大きな視点が必要であることを示している」




と語っています。




ラブロック博士は20年に受けたAFP通信のインタビューで




「新型コロナウイルスの大流行への対応を迫られる中で、世界は広い視野を失った。より大きな問題である地球温暖化への対策に注力するべきだ」




と述べて、不興をこうむりました。




けれど、1つの災いだけでなく、地球を見回して複合的な問題点に取り組むべきだというメッセージは、私たちも真摯に受け止めるべきでしょう。




引用以上、






 

 

 

気候変動の影響をより身近に感じるようになりました。

 

 

 

雨の降り方、雷の音、暑さ、湿気、これまで経験してきたものとは違って感じられます。

 

 

 

私は原子力に関するラブロック博士の見解を伺って、深く考えさせられました。

 

 

 

私の母方の親戚は福島に住んでいます。

 

 

 

私が小学4年生の時、祖母が福島原発に見学に行き、「とても立派な設備だった」と嬉しそうに話してくれました。

 

 

 

お土産でもらった丸い文鎮を私にくれました。

 

 

 

3.11の数年前から歯車が狂うように色々なことが上手く行かなくなり、うつで仕事が続けられなくなりました。

 

 

 

2011年1月末で仕事を退職し、1ヶ月くらい何も出来ず、この先どうしたらいいのか先行きも見えず人生のどん底にいるような気持ちにになり、ほとんど引きこもって暮らしていました。

 

 

 

なんとか立ち直らなければ!と一念発起してハローワークに出かけた日、手続きを終えて外に出たところで3.11が起きました。

 

 

 

この年、導かれるように原発に関わっている某会社2社の株主総会の仕事をさせていただきました.

 

 

 

怒る株主と無機質な会社の対応にむなしさを覚えました。

 

 

 

何よりもむなしく感じたのは、同じ仕事をした人たちの問題に対する無関心さでした。

 

 

 

私に原発のことを嬉しそうに話してくれた祖母は3.11を機に大好きだったゲートボールをやめて、外出を控えるようになりました。

 

 

 

「庭の土を自分で除染した」と話す祖母は以前よりも元気がありませんでした。

 

 

 

3.11を経て、生活も価値観も大きく変わりました。

 

 

 

私自身、これまでは、原子力発電も反対だし、太陽光・風力発電にも反対という立場でした。

 

 

 

原子力のゴミ問題も気になるし、あちこちに増えるばかりのソーラーパネルにも違和感を感じるし、風力発電のエネルギーにも圧倒されます。

 

 

 

しかしながら電気がなければ生きられない。

 

 

 

暑さが続く中、エアコンなしでは眠ることも出来ませんし、こうやって皆さんに情報をお伝え出来るのも電気があるおかげです。

 

 

 

エネルギー問題

 

 

地球環境問題

 

 

 

国や企業にお任せしっぱなしではなく、勉強し、自分の頭でしっかりと考えることが大切だと思います。




激しい感情をぶつけられても動じないよう自らを整えて、さまざまな人の意見にフラットな気持ちで耳を傾ける。




消費や生活を見直すことも大切。




ストレスにならないよう、持続可能な自分に整えながら取り組むことも大切。




出来ることをコツコツと。

 

 


 

「自らを管理し地球を守るのが人類の使命なのです」

 

 

 

とおっしゃるラブロック博士の言葉を胸に置き、宇宙・地球全体に意識を合わせて瞑想し、浮かんできたことを実践します。

 

 

 

小さなことからでも変わっていく希望の未来を信じて。

 

 

 

バタフライエフェクト












 

 

 

お読みくださりありがとうございました。

 

 

 

貫井(み)投稿

 

 


 



 






ご覧くださりありがとうございます。




この場をお借りして、お知らせをさせていただきます。




菩提樹の数珠とフランキンセンスオイルのハッピーセット、ハッピーセールを開催いたします。




他では入手できません。




シンギングボウルやプルパをお買い上げいただいたお客さま、このオイルを使って柔らかい布でシンギングボウル、プルパを磨くのがとてもオススメです。





売上の一部はネパールに住むチベット人学生の学費や支援に使われます。




ご縁のある方へ届きますように。



ありがとうございます。



貫井投稿








 

 

 

 

人間の心は願う気持ちはだれでも一緒なんだと思いましたね。

 

 

 

お国が違ったり、肌の色が違ったって、この同じ地球の上に住まわせてもらっているんだからね。

 

 

 

そこのところを真摯に考えていけば、人類の未来はきっと明るくなると思いますよ。

 

 

 

酒井 雄哉(さかい ゆうさい)

 








 

 

違いを乗り越える

 

 

 

池上

 

人が憎みあったり、争わないためにはどうしたらいいでしょうか。

 

 

酒井

 

1995年にイタリアのキリスト教の聖地・アッシジのサンフランチェスコ教会を訪ねたことがあるんです。

 

 

 

ちょうどその時、教会では世界平和会議をやっているって聞きましてね。

 

 

 

ぼくはいつも山を歩いていて、世界平和や国家安穏を祈り、千日回峰行をさせてもろうてましたから、それを聞いたら、いてもたってもいられない気持ちになってね、いきなり断りもなく、お加持をはじめたんですよ。

 

 

 

宗教色の違うぼくが突然拝み始めちゃったんだから。

 

 

 

現地の人たちは、皆驚いてしまったんだけど、お加持が終わると、協会の総長さんが、ぼくに近寄ってきて握手をしてくれて、




「結構なお祈りでした。これから自分たちは式典があるから、後から食事に来てください」って誘われましてね。

 

 

 

人間の心は願う気持ちはだれでも一緒なんだと思いましたね。

 

 

 

池上

 

不思議と、キリスト教も仏教も、祈るときには両手を合わせますね。

 

 

 

酒井

 

先ほど言ったみたいに、受け取り方や解釈、考え方でいろいろ違うことはあるけど、それでも拝むという気持ちは共通なのかもしれません。

 

 

 

はるか昔からの争いで、領土を取ったの取られたのとかいうのはおいといて、みんなが心を一つにして、人類の平和を願えば、地球上の戦争はおさまるんじゃないかなぁと思いますけどね。

 

 

 

池上

 

人は、拝むことで通じ合える。

 

 

 

酒井

 

そして、相手をよく知ることも大切だと思います。

 

 

ぼくは、千日回峰行をニ度満行して、その後も伝教大師(最澄)や慈覚大師(円仁)の足跡をたどって国内や中国を歩いたり、バチカンやインドなどの世界の聖地を巡礼したりしてみて、知らなかった人たちと接して、たとえ言葉がうまく通じなくても、気持ちは届きますから、じかに見て、触って、話してみて、初めてわかることはたくさんあるんですよ。

 

 

 

池上

 

私も現地を訪ねて、実際に大勢の人と話し、今まで抱いていたイメージが変わったということがよくあります。

 

 

 

酒井

 

お国が違ったり、肌の色が違ったって、この同じ地球の上に住まわせてもらっているんだからね。

 

 

 

そこのところを真摯に考えていけば、人類の未来はきっと明るくなると思いますよ。

 

 

 

 

 

 

千日回峰行

 

 

比叡山中を千日間、回峰巡拝することで知られる天台宗独特の修行法。

 

 

満行には約7年間かかる。

 

 

天台宗第三世座主、円仁が839年、遣唐使として唐に渡り、山西省五台山で修行。

 

 

その行を帰国後、弟子の相応に伝授、相応が天台宗の教養と日本古来の山岳信仰の流れを加え、原型をつくったとされている。

 

 

初年から3年は山中二百数十カ所を巡拝しながら、 1日30〜40キロの道程を毎年100日歩く。

 

 

4〜5年目は毎年200日、計700日の回峰をする。

 

 

700日の回峰行を終えると、不動堂に9日間こもり、断食、断水、不眠、不臥で不動明王の真言を10万回唱える「堂入り」という行が課せられる。

 

 

6年目は1日60キロに。

 

 

最終年の前半100日は山中と京都市中85キロ、後半100日は山中30〜40キロを歩く。

 

 

7年間で歩く行程は延べ約4万キロ、地球1周分に相当する。

 

 

 

 

酒井 雄哉 池上 彰『この世で大切なものってなんですか』より一部引用以上

 

 

 

 

 

 

 

 





 



真言宗の声明とグレゴリオ聖歌のコラボレーション




世界平和という大きな目的のために違いを越えて共に祈りを捧げること




地球に住まわせてもらっている者の一人として今出来ることを一歩ずつ

 


 

貫井投稿

 

 

 

 

 





「ハートの開花、蓮の花は、泥の中から咲く」



ハートの花は、 一度だけ咲くのではなく、 一度咲いたら、その花の中心から、 また、花が咲き、 更にまた、その中心から、花が咲く。


 
無限に咲きつづけ、 決して枯れることを知らない花なのです。 


  
そんなハートを、 どんな人も持っているのです。 



あなたも、私も。 



そんな無限の花をハートに咲かせているのです。




Kenji Kato/フロウライト










ハートの開花、蓮と泥の仕組み



「蓮の花は、泥の中から咲く」 



これは、瞑想者たちに語りつがれた名言の一つです。


最近、この言葉を思い出し、 その意味を深く味わいました。

私たちのハートは、 とても繊細です。 



そのために、過去の人生の中でのハートブレイクの傷みを、 大切に記憶しています。


ハートを開こうとすると、 その傷みが、再現されることもあるのです。


傷みの記憶は、様々な感情を引き起こします。 



怖れ、哀しみ、怒り、無力な感じ。 



実は私たちのハートは、 そう言った感情たちの泥の中に根を張って、 感情が持っているエネルギーによって育って来たのです。 



私たちのハートは、そのエネルギーの本質的なエッセンスを知っています。



私たちのエゴは、 そのエネルギーをマイナスだとか、ネガティブだと言って解釈し、 それは、封印すべき悪しきものだと言ってジャッジしたのです。



でも、ハートは知っていたのです。 



それらの感情のコアに、 愛や情熱や優しさや勇気と言うエッセンスがあることを、 知っていたのです。



ハートは、それらを汲み取り、愛の花を咲かせるのです。 
  


「蓮の花は、泥の中から咲く」 



その言葉を言い直すなら、 



「蓮の花は、泥と共に咲く。」 



泥だけでも、花だけでもなく、 両方が大切なんですね


更に、 ハートの花は、 一度だけ咲くのではなく、 一度咲いたら、その花の中心から、 また、花が咲き、 更にまた、その中心から、花が咲く。


 
無限に咲きつづけ、 決して枯れることを知らない花なのです。 


  
そんなハートを、 どんな人も持っているのです。 



あなたも、私も。 



そんな無限の花をハートに咲かせているのです。


傷みを持ちながら、 迷いながら、 それでも、愛を思い出すとき、 ハートの花が開きます。


つい、相手に開きなさいと言いたくなる。 



あなたが開かないからと、言いたくなる。


そのとき、あなたのハートは、閉じています。


でもそれを、手放して、 そこから、自分を開くとき、ハートの花が開きます。



誰かにハートを開いて欲しいと望むとき、あなたのハートが、開こうとしているのです。



あなたのハートは、新たな開花を体験しようとしているのです。



あなたは、開花のために、一度、閉ざしたハートに気づく必要がありました。



相手に開いて欲しい。



それは、私が新たな花を開かせたいということの、あるいはこれから私のハートが新たに開きますということの、前兆だったのです。



そして、あなたの花が開くとき、相手の花も、一緒に開くのです。


そんな、開花の連続の人生が、 成長と成功と幸福の人生です。


この人生での、 最初の開花は、 バースポイント、誕生のときです。 



私たちは、いつでも、 どんな人でも、自己の誕生を祝福することが出来ます。 



この祝福が、人生をどれだけ幸福にするか?


この祝福がどれだけ人生を喜びに溢れさせるか!


未来を開くために、過去を祝福するのです。 



それは、素晴らしいワークとなります。


一人一人のハートに、 美しく優しく鮮やかに咲き誇る花が花開いています。


その花を、自分に咲いた花を見るのです。



その花を、相手のハートに咲いた花を見るのです。


それぞれが、個性的で、 卓越さに溢れた花です。 



その花が更なる開花を迎えられますように。 



この世界に、生まれてきてくれて、ありがとう。


 
そして、私と出会ってくれて、ありがとう。



すべてのすべてに、ありがとうございます。






 


貫井投稿

 

 

 

「むなしさ」というものは、救いがないものであり、どうすることもできず、取り返しがつかないものなのです。

 

 

その「仕方のないこと」もまた、「むなしさ」につながる。

 

 

空っぽであり、実態として何もないので、それを捕まえてどうにかしようとする試みさえ無駄になってしまいます。

 

 

だから「むなしさ」はさらに深まってゆく。

 

 

 

きたやま おさむ

 

 





 

 

 

悲しくてやりきれない

 

 

「むなしさ」といって、私が最初に思い浮かべるのは、かつて所属していたフォーク・クルセダーズの歌「悲しくてやりきれない」(サトウハチロー作詞、加藤和彦作曲)の一節です。

 

 

胸にしみる 空のかがやき

 

今日も遠くながめ 涙をながす

 

悲しくて 悲しくて

 

とても やりきれない

 

このやるせない モヤモヤを

 

だれかに告げようか

 

 

白い雲は 流れ流れて

 

今日も夢はもつれ わびしくゆれる

 

悲しくて 悲しくて

 

とても やりきれない

 

この限りない むなしさの

 

救いはないだろうか

 

 

深い森の みどりにだかれ

 

今日も風の唄に しみじみ嘆く

 

悲しくて悲しくて

 

とてもやりきれない

 

このもえたぎる 苦しさは

 

明日もつづくのか

 

 

この歌の二番で「むなしさ」という感覚を歌っています。

 

 

しかし、サトウハチローさんの詩に「救いはないだろうか」とある通り、歌ってみたところで、その思いはなかなか救われないものなのです。

 

 

ここが「むなしさ」の難しいところで、メロディーを付けて歌いあげても、結局、その思いはどうしようもないのです。

 

 

「むなしさ」というものは、救いがないものであり、どうすることもできず、取り返しがつかないものなのです。

 

 

その「仕方のないこと」もまた、「むなしさ」につながる。

 

 

空っぽであり、実態として何もないので、それを捕まえてどうにかしようとする試みさえ無駄になってしまいます。

 

 

だから「むなしさ」はさらに深まってゆく。

 

 

そも、「むなしい」の語源は、「みなし」ともいわれます。

 

 

「み」とは身や実、味などのことです。

 

 

中身がない、果実などの実(じつ)がない、味がない、意味がない、といった状態のことを指します。

 

 

そこから派生して、価値がない、本質的なものがない、空虚である、つまり一般にいわれる「むなしい」へとつながっていきます。

 

 

 

二つの「むなしさ」

 

 

「むなしさ」を理解するために、便宜的に二つの種類に分けて考えてみます。

 

 

一つは、何か大切なものや欲しいものを探しているのに、中身が見つからない、あるいは、相手に何かを期待していたのに、裏切られた、もしくは、愛していた相手が亡くなってしまったといった、自分という存在の外側に空虚なものができてしまう場合です。

 

 

外に何かを求めていたのに、何か意味のあるものが得られなかった。

 

 

そんな時に感じる外的な「むなしさ」です。

 

 

コンサートやゲームで、楽しいことが終わってしまった「祭りの後」にも、これを感じやすい方がおられるでしょう。

 

 

もう一つは、自分自身に価値や中身がないのではないかと感じたり、自分が生きている意味がないと感じてしまったりする場合などに訪れる内的な「むなしさ」です。

 

 

このような場合には、自分の内側に空虚なものが生じています。

 

 

自分の心の中にぽっかりと穴があいてしまい、どうしてよいのかわからないというときの「むなしさ」です。

 

 

ただし、この二つは完全に分けられるものでもなく、多くの場合、連動して起こります。

 

 

たとえば、大事な相手が亡くなってしまったという場合、もし相手と相思相愛の関係にあって、一体感が強かったり、あるいは、相手に対する依存が強かったりすれば、相手の死は自分自身の喪失にもつながってしまいます。

 

 

自分の生きている意味もわからなくなり、希望も見い出せず、心の中にぽっかりと穴があいてしまい、どうしてよいのかわからなくなってしまいます。

 

 

この分類の仕方は、フロイトの精神分析の知見を応用しています。

 

 

フロイトも喪失という経験を、同じように、二つに分類して考えました。

 

 

前者の喪失、すなわち、自分の外側にある物や人を失った場合、あるいは、探しているものが見つからない場合などを、フロイトは「対象喪失」として論じました。

 

 

この喪失した対象が、いま述べたように、たとえば自分と愛し合っていた人など、自分と一心同体的な存在だとすると、自分自身が深く傷つき、自己を喪失することになってしまう場合があります。

 

 

フロイトは、単なる「対象喪失」よりも、それが後者の「自己の喪失」へと連動する方がより深刻であるとしています

 

 

つまり、依存心や依頼心が強く働いている関係における対象喪失が、この身に深刻な事態を招くことになります。

 

 

したがって、自分というものがなく、周囲に影響されたり、左右されやすく、外側の世界に強く依存していると、それが失われたとき、深刻な「むなしさ」や空虚に陥ることになってしまいます。

 

 

つまり、外も内も空っぽになるわけです。

 

 

 

きたやまおさむ『「むなしさ」の味わい方』より一部引用

 

 

 

 

 

 







 

 

『悲しくてやりきれない』を作曲なさった加藤和彦さんは2009年10月に自ら命を断ちました。




精神科医でありながら加藤さんを助けられなかったきたやまさんの想いが『「むなしさ」の味わい方』に綴られています。




さて、『悲しくてやりきれない』は『イムジン河』が発売出来なかったことで生まれたそうです。







魂を込めて作った曲が突然発売中止に追い込まれ、ショックから気持ちが癒えないまま



次の曲を3時間で作曲するように言われ、ある会社の社長室に缶詰になった加藤さん。



1時間くらい社長室の戸棚や引き出しを開けてみたりして部屋の中で過ごしていたものの、作曲をしなければいけません。



イムジン河のメロディを紙に書き起こしているうちに、音符を逆から書いてみようと思いつき、あるフレーズが出来て曲になったんだとか。




当時は詩が先に出来ていて、後から曲をつけるのが主流で、詩を後からつけることは珍しかったそうなのですが、




「サトウハチロー先生とはほとんど打ち合わせもしていないのに「悲しくてやりきれない」という詩が出来てきた。音と歌詞がピッタリと合っている」




加藤さんのインタビューを拝見して、発売出来なかった曲の逆再生を思いつくとは、なんてすごい方なんだろうと思いました。




想いを汲み取って詩を書かれたサトウハチローさんもすごい。




曲の背景を知ってから聞く『悲しくてやりきれない』



これまでとはまた違って聴こえます。



大勢のアーティストがカバーしていて、時代を超えて受け継がれるいい歌だなぁと思います。

 

 

なんともいい表せない気持ち

 

 

どうしようも出来ないこと

 

 

悲しくてやりきれない気持ち・むなしさを何度も味わって、生きている今。

 



落ち込んでも何度も立ち直ってきたこれまでの自分が今の自分を後押ししてくれているようにも、未来の自分が手招きしてくれているようにも感じます。




これから先のことはわからない。




この先、「むなしさ」を感じることがあっても、「むなしさ」と共に生きていく。




長い記事になりました。




本日もお読みくださりありがとうございました。

 

 



貫井(み)投稿