覚醒のひかり

覚醒のひかり

縄文時代にゆるゆる瞑想をしていた、シャンタンこと宮井陸郎(1940.3.13-2022.3.17)のブログ
【地球は国境のない、一つのうつくしい平和な星です】
【いまここをトータルに生きる】
いろんな人の言の葉を、分かち合っていきたいと思いまあああす!(貫井笑店)

 

 

 

 

 

 

ある時代の

終わり


そして


新しい時代の

始まりは


途方もなく大きな

苦痛と混乱の

時期なのです

 


 

ジョーゼフ・キャンベル

 


 

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モイヤーズ

 

詩人イェーツは、現代人は偉大なキリスト教周期の最終段階を生きていると感じていました。

 

 

彼の詩「再来」はこう言っていますー

 

 

「広がってやまぬ渦を描いて舞い回っている/

 

 

鷹には、もはや鷹匠の声は聞こえない/

 

 

万物は崩れ落ち、中心は傾き倒れる/

 

 

ただ無秩序だけが世界に放たれ/

 

 

血で濁った海流が押し寄せ、至るところ/

 

 

無垢の祭儀がおぼれ死ぬ」。

 

 

イェーツはその詩の最後に、どんな野獣が「生まれようとしてベツレヘムに忍び寄っているのか」と言っていますが、それはなんでしょう?

 

 

キャンベル

 

 

イェーツにわからなかったように、わたしにもなにがやってくるのかわかりませんが、ある時代の終わり、そして新しい時代の始まりは、途方もなく大きな苦痛と混乱の時期なのです。

 

 

私たちが、いや、誰もが感じる脅威。

 

 

そこで、ハルマゲドンの戦いというような考えが出てくるんですね。

 

 

モイヤーズ

 

「私は死になった、あらゆる世界の破壊者になった」と、オッペンハイマーは最初の原爆が炸裂するのを見たときに言いましたが、先生はそれがわれわれの終末だとはお考えにならないでしょうね。

 

 

キャンベル

 

それが終末ではないでしょう。

 

 

地球上の生命がそれで終わるかもしれないが、宇宙がおしまいになるわけではない。

 

 

それは宇宙のあらゆる太陽で続いているあらゆる爆発のうち、ひとつの小さな爆発にすぎません。

 

 

宇宙は、私たちの太陽みたいな爆発する原子炉の寄せ集めです。

 

 

だから、それは宇宙全体の大事業のほんのちっぽけな模倣に過ぎないのです。

 

 

 

ジョーゼフ・キャンベル

ビル・モイヤーズ

『神話の力』より一部引用

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





バガヴァン

『悟りとは何でしょう』

悟りは様々な方法で定義されるでしょう。

悟りに対する私の一般的な定義は、五感の開放です。

さて、あなたが見る時、マインドの介入なしには見ません。

もし、あなたが、マインドの介入なしに

見ることができれば、それは悟りです。


もし、あなたが、マインドの介入なしに

聞くことができれば、それは悟りです。


同じことが、においや触覚または思考においてさえも、当てはまります。

思考も、あなたが思考に関わることなく観察することができます。


さて、何が起こっているかというと、あなたが考えている時、

あなたは‘あなた’が考えていると思っています。


しかし、実際、思考が、まるであなたから独立しているかのように、

それが流れているのを見ることができます。

これが、身体に起こる現実です。

実際に思考の流れが見えます。

あなたにやってきたり、あなたから去っていく

どんな種類の思考も、あなたは見ることができます。

これが悟りの状態です。

それは、五感がマインドのコントロールから完全に自由になることです。

そのような人が、本当に生きています。

マインドがコントロールされていないとき、あなたは生きていません。

マインドがそこに無い時、あなたは実際に生きています。

そのため、人々が私に「人生の目的って何ですか 」

と聞くとき、私は「もしあなたが生きているならば、

そんな質問はしないでしょう」と答えます。


人生の目的は、生きることです。


それがどういう意味かというと、

五感の人生を生きる、ということです。

五感は、マインドから独立していて自由でなければなりません。

現在、何が起こっているかというと、あなたは全く現実を体験していません。

あなたにとって現実とは、五感を通して流れているものです。

いつでもあなたは、何であれ、あなたに入ってくる情報を解釈しています。

木を見る時、大きい木、小さい木、緑の木、マンゴーの木などなど。

いつでもコメントが続いています。

あなたが食事の席につき、食べ物を食べているとき、

あなたは食べ物を食べていません。

あなたは仕事のことを心配しはじめたり、

家族のことやあれやこれや心配しはじめたりします。

又は、その食べ物自身についてのコメントなどが出てきたりします。

食べ物自身は体験されていません。


もし現実をそのままに体験したなら、あなたはただ至福を体験します。

あなたは、この全ての創造物は完璧だと分かるでしょう。


ここが一番美しいところで、あなたはすでに天国にいます。

あなたがこれを地獄にしました。

五感を、思考の支配から自由にすることは可能です。

思考は、要求されたときには必要です。

しかし、そうでなければ、なぜ思考が干渉すべきでしょうか。

思考が実際の体験を干渉する必要はありません。


五感が、思考又はマインドの支配から自由になったとき、

その時私達は、あなたが無条件の喜び、無条件の愛を発見したと言います。

このように無条件の喜びと共にいると、

あなたは皆とつながっていると感じます。

こうしてあなたは本当の愛を発見します。

本当の愛と本当の喜びは、別々のものではありません。

この二つは、一つの同じものです。


これは自然の現象です。

あなたは、そうなるようにデザインされているのです。

これが、常に人類が体験するはずのことなのです。



あなたはそれを体験しないので、人生が苦痛(みじめ)になったのです。

その精神的苦痛から逃れるために、

あなたは様々な逃避手段を作ってきました。

あなたは、いつも精神的苦痛から逃れようとしてきました。

この精神的苦痛それ自身、あなたが現実を体験しないことから作られています。

そのため人々は、アルコールや薬物やセックスなどなどに走ります。

そうしなければ、あなたの人生にあるものが、意味のないものになってしまうからです。

ですから、この運動の全ての試みは、

あなたが現実をあるがままに体験することを助けることです。

それが起こる時、あなたは、無条件の愛と無条件の喜びを発見し、

あなたは、全ての物、全ての人とつながっていると感じます。

あなたは、切り離された個人とは感じません。

あなたは、もう、あなたのためだけに生きることは、なくなります。

あなた自身が皆になります。


あなたは人類のために生きます。


これは概念でも想像でもありません。



これは、あなたが悟れば、又は、ムクタ(悟った人)になれば



日常の現実になります。



何千人もの人が、すでに、この状態になっています。




まさに、今ここに座っている数人の人たちも、その状態になっています。








映画「森に聴く」


木々は語り

思考する


森には知性が

満ちている


多種共存の姿から 

私たちの未来を問う

ネイチャー・ドキュメンタリー











osho


愛はひとつになるという体験だ。

壁が取り壊されること、ふたつのエネルギーの融合、それが愛の体験だ。

愛はふたりの人間の間の壁が消え去る時の、ふたつの生命が出会う時の、

ふたつの生命がひとつになる時の、エクスタシーだ。

ふたりの人間の間にそのような調和が存在する時、私はそれを愛と呼ぶ。

そして、それがひとりの人間と多数との間に存在する時、

私はそれを神との交合(コミュニオン)と呼ぶ。


もしあなたが、障害すべてが溶解し、スピリチュアルなレベルでの浸透が起こるようにと、

「私」と共にその交合(コミュニオン)の中に沈むことが出来たら、その時それは愛だ。

もし「私」と他者全ての間にその合一が起こり、「全て」なるものの内に「私」が

自分の存在証明を失ったら、その時には、その達成、その融合は「神」とのものだ。

「全知の神」との「宇宙意識」との「至上者」との、

それはあなたの呼びたいようにするがいいが、それとの融合だ。

このゆえに私は、その愛が最初の一歩で、

「神」が最後の一歩、最高に素晴らしい終着点だと言う。

「私」を消すことはどうしたら可能だろう?


自分を消さない限り、どうして他者と一体になることが出来ようか?

他者は私の「私」への反応として作り出される。

私が大きな声で「私」と叫べば叫ぶほど、他者の存在はそれだけ強力になる。

他者は「私」のエコーだ。

ではこの「私」とは何だろう?

あなたは落ち着いて考えたことがあるだろうか?

それはあなたの足の中にあるのか?

あるいは手の中、頭の中、あるいはハートの中にあるのだろうか?

それとも、それはただのエゴなのか?

あなたの「私」、あなたのエゴはどんなもので、どこにあるのだろう?

何かそれらしいものはある。


だがどこか特に定まった場所に、それが見つかるという訳ではない。

しばらく静かに坐ってその「私」を探してごらん。

あなたは驚くだろうが、厳しい探究にもかかわらず、

あなたはどこにもあなたの「私」を見い出さない。

あなたは奥深く内側を探せば、「私」などないのだということを理解する。

エゴのようなものはない。自己の真実がそこにある時、そこに「私」はない。

あなたはその「私」をどこにも見い出さない。

それは多くのエネルギーの現われ、ただそれだけだ。

それぞれの手足について考えてごらん。

ひとつずつ、あなた自身の部分について考えてみるがいい。


そして、ひとつずつ何もかも除いていってみることだ。


最終的には何もない状態が残る。


愛は、その無から生まれる。その無が「神」だ・・












津留晃一


「あなたにとって今この瞬間が最善です」と言われたらどのようにお感じになるでしょうか? 


冗談じゃない、ちっともいいことなんかないよ」と思われる方も多いと思います。


しかし、「あなたにとって最も深い意味において、もし今より良いところが在るとするなら、

あなたは今そこにいるでしょう」と伝えられました。

 あなたの今いるべき場所は、常にここであり、他のどんな場所でもありません。

今いるあなたの場所が、あなたにとって意識の進化のために最善の状態なのです。

今ある状態が、あなたのハイヤーセルフがあなたのために

しつらえた最高の学びのステージだと考えて下さい。


 「私はこんな状態には耐えられない、私にはもっとふさわしい場所があるはずだ」と思っている

としたら、だからこそ、そこがあなたにとってクリアーすべき課題であるといえるでしょう。

真に、「今、ここ」が自分にとって最高の場所であると思えたとき、

次なるステージがあなたの前に現れます。

その時、あなたはそこに留まり続けることはできません。

満足しきったあなたは更なる夢を描き飛翔することでしょう。

それこそがあなたの人生の輝きです。

 あなたはどんな現実も産み出せますし、現に産み出し続けています。


しかし今あなたが産み出している現実は、はたしてあなたの満足のいく現実なのでしょうか。

あなたが望む現実を産み出すには、一つだけ条件があります。

それはあなたの意識に欠落感がないという条件です。

あなたの心が満ち足りている時、あなたに不可能はありません。


 人は完全である事を悟る旅をしています。

完全であるとは、足りないものがないという事です。

もともと深い意味において、人間に不足しているものは何もありません。

しかし肉体が人間であると勘違いしている人にはなかなかこのことが理解できません。

ほとんどの地球人は、自分が何か欲しいものを手に入れるには、

何かが必要だと考えているようです。

例えばお金です。

お金がない人はスポンサーをさがそうとします。


 地球上のあらゆるものはエネルギーにより成り立っています。

そして人間とは完全なエネルギーの魔術師です。

人は意識を使って自由自在にエネルギーを操る能力をもともと備えています。

しかしまだそのことに気付いていません。

 しかし、人はとうとうその事に気づき始めました。


やっと真の成人になろうと覚醒を始めました。

人が自らの本質を取り戻すべく覚醒し、飛翔を開始しました。

 覚醒は1990年頃から徐々に起こり始めました。

全国各地でそれぞれの人達が、それぞれの方法で真の自己を取り戻し始めました。

意識の突然変異が起こり始めました。

そしてその覚醒者達が徐々に出会い始めました。


 これまでの価値観で言えば、超能力者といわれてきた人達が、集い始めました。

出会ってゆく新人類達は、一人一人皆明らかにその能力に違いがあります。

それぞれの個性を持った、新たな世界を造り上げようとする

意識で満ち満ちたパワフルな能力者ばかりです。

それぞれの個性が、互いを認め合い、それぞれの個性を輝かせています。


真のネットワーク社会の輝ける見本として、

新たな時代の創生に向けて、着々とその態勢を整えつつあります。

集い始めた人達は、皆自分が新たな世界を創造していくのだという確信を持って行動しています。


誰がリーダーということもありません。

そして何よりも一番はっきりしていることは、我々はどんな地位も、名誉も、富も所有していません。

権威も権限もありません。

しかし新たな宇宙時代における社会システムを

構築して行くというはっきりとした意図と、情熱と、確信を持っています。

 それは、今自分に足りない物は何もないことを知っているからです。


あらゆるものはひとつあり、自分の意識が世界を作り上げている事を熟知しているからです。

手に入れたい状況などありません。

それは今が、この瞬間がベストであることを知っているからです。

 今ここで、私は宇宙の全エネルギーを使えることを知っています。

今、私に降り注ぐ無限のエネルギーを使える瞬間は、今、ここでしかありません。

私に出来る事は、今ここにあるエネルギーをただ流して行くことだけです。


 今この瞬間に喜びを生み出したいと考えています。

 今この瞬間に美しさを創造したいとだけ考えています。

 今この瞬間に私のセンターにある愛の泉を全開にすることだけを考え続けています。


 あなたは、これまでどの瞬間も完璧であり、


そして今後のどの瞬間においても完璧でありつづけます。


真の深い意味において、あなたが完全でない時を持つことは出来ません。






osho

全面的なリラクセーションは究極的なものだ。

それは人がブッダになる瞬間だ。

それは悟り、光明、キリスト意識の瞬間だ。






 あなたはたったいまは全面的にリラックスすることができない。

奥深い中心ではいまだに緊張が続いている。

 
だが、くつろぐことを始めなさい。

周辺部から始めなさい――

私たちはそこにいるし、ものごとは自分がいるところからしか始めることができない。

自分の存在の周辺をリラックスさせなさい――

肉体をくつろがせ、振舞いをくつろいだものにし、行為をくつろいだものにする。


くつろいだ歩き方をし、くつろいだ食べ方をし、くつろいだ話し方、聞き方をしなさい。

 
どんなプロセスももっとのんびりとしたものにしなさい。

急いだり、焦ったりしないことだ。

 
まるで永遠の時間があるかのように振る舞いなさい――

じっさい、永遠の時間があるのだから。

ものごとに始めと終わりがあるのだとしたら、

私たちはここに最初からいるし、いちばん最後までここにいることだろう。

だが、実際には始めもなければ終わりもない。

私たちはいつでもここにいたし、いつまでもここにいつづけることだろう。

形は変わりつづけるが、本質は変わらない。衣装は変わっていくが、魂は変わることがない。


 緊張とは性急さ、恐れ、疑いだ。

緊張とは自分を守ろうとする、安全でいようとする、安心していようとする絶えざる努力だ。

緊張とは明日のために、あるいは来世のためにいま準備をすることだ――

あなたは明日を恐れているので現実に直面することができず、だから準備をする。

緊張とは、ほんとうに生きることなくその傍らを通り過ぎてしまった過去のことだ。

そのわだかまりが残っていて、いまに持ち越されて、自分にまとわりついている。

 
生についてとても基本的なことを覚えておくといい――

生きなかった経験は自分にまとわりついて、いつまでもそこに残っている。

「私を終わらせてくれ! 

私を生きてくれ! 

私を完了させてくれ!」と。

どんな経験にも最後まで至ろうとする、完了しようとする傾向が必ず含まれている。


いったん完了すると、それは消えうせてしまう。

まだ終わっていないと、そこにとどまって、

悩みの種となり、あとをつけまわし、あなたの注意を引こうとする。

それは言う。


「僕をどうしてくれるんだい? まだ完了していないんだよ――最後までやりとげてくれ!」

 
すべての過去が宙ぶらりんの状態でまとわりついている――

なぜなら、あなたは本気で生きていなかったし、いつも逃げてばかりいて、

適当に、生ぬるく、部分的にしか生きてこなかったからだ。


そこには強烈さや情熱がなかった。

あなたは夢遊病者のように、まるで夢のなかのように振る舞っていた。

だからその過去がまとわりついて、一方では未来が恐れをつくりだしている。

そしてこの過去と未来があなたの現在を、唯一の現実を押しつぶしてしまう。

 
あなたは周辺からくつろいでいかなければならない。

くつろぎの第一歩は肉体から始まる。

いつでも思い出したら肉体に目を向けて、

例えば首や、頭や、脚などに緊張がないかどうかを確かめてみるといい。

もし緊張があったら、そこを意識的にリラッスさせなさい。

肉体のその部分に意識を持っていって、やさしくこう言い聞かせなさい。

「楽にしろよ!」と。

 
すると驚いたことに、注意を向けた肉体の部分は、ちゃんと言うことを聞くし

、素直にそれに従ってくれる――自分の肉体なのだから! 

目を閉じて、足の先から頭のてっぺんまで

体のなかのどこかに緊張がないか探ってみるといい。

緊張を見つけたら、まるで友人に向かって

話しかけるように、その部分に話しかけてみなさい。

自分と肉体のあいだに対話をつくりだしなさい。

それにリラックスするように言いなさい。

「何も恐れることはない。

私がここで見守っているんだから、リラックスしてもいいんだよ」

と言い聞かせる。

だんだんとそのコツがわかってくるだろう。

すると肉体はリラックスするようになる。

 
そうしたら次の一歩、もう少し深くまで進んで、

今度は 心 にリラックスするように言いなさい。

肉体が言うことを聞くのなら、心も言うことを聞くはずだが、

最初に心から始めることはできない――第一歩から始めるしかない。


途中から始めることはできない。


多くの人たちが心から始めて失敗する。


まちがった場所から始めるから失敗するのだ。

ものごとはすべて正しい順序に従ってなされなければならない。

肉体を自発的にリラックスさせることができるようになったら、

心が自発的にリラックスするように手助けすることができる。

心はもっと複雑な現象だ。

肉体が言うことを聞くようになり自信が深まってくると、

自分自身を新たに信頼することができるようになる。

そうなると心でさえあなたの言うことを聞くようになる。

心はもう少し時間がかかるけれど、それは必ず起こる。

 
心がリラックスしたら、今度はハートをリラックスさせようとしてみなさい。

ハートは感情、フィーリングの世界であり、さらに複雑で、もっと微妙だ。

だが、いまやあなたには信頼があるから、

自分自身を完全に信頼しきって進むことができる。

いまではそれが可能であることを知っている。

肉体にはそれが可能だったし、

心にもそれが可能だったとしたら、ハートにもそれが可能に違いない。

そうして初めて、これら三つのステップを

通り過ぎたあとでなら、第四歩めを踏み出すことができる。

あなたは肉体、心、ハートを超えた

自分の存在の最も奥深い中心に入っていくことができる。

自分の存在のまさに中心に。そしてそこもリラックスさせることができる。


 このリラクセーションがもっとも深い歓び、

究極のエクスタシー、受容をもたらすことは間違いない。

あなたは至福と歓喜に満たされる。

あなたの生そのものがダンスの質を持つようになる。

人間を除けば、ほかの全存在がダンスを踊っている。

全存在がとてもくつろいだ動きのなかにある。

確かに動いてはいるが、それは完全にくつろいだものなのだ。

木々は育ち、小鳥はさえずり、川は流れ、星々は動いている。

あらゆるものが深いくつろぎのなかで進んでいく。

急ぎも、焦りも、心配も、疲れもない。

人間だけは例外だ。

人間は自分の心の被害者になってる。


人間は神々よりも高く昇ることができるし、

動物よりも低く堕ちることもできる。

人間には広大な幅の領域がある。

最も低いところから最も高いところまで、人間は梯子のようなものだ。

肉体から始めて、だんだんと深いところに進んでいきなさい。

最初に基本的なところを解決しないかぎり、その先へ進んではいけない。

肉体に緊張があったら、心から始めてはいけない。

待ちなさい。まず肉体に働きかけなさい。

そのとき、このちょっとしたことがこの上もない助けになるだろう。

 
あなたはいつも一定のペースで歩いている。

それは習慣に、自動的なものになっている。

そこでゆっくりと歩こうとしてみなさい。

仏陀は弟子たちによくこう言った。

「とてもゆっくりと歩いて、一歩一歩をよく意識するがいい」

一歩一歩を意識的に歩いたら、ゆっくり歩かざるをえない。

走っていたら、焦っていたら、意識することを忘れてしまう。

だから仏陀はとてもゆっくりと歩く。

とてもゆっくりと歩こうとしたら、あなたはきっと驚くことだろう――

肉体のなかに新しい気づきの質が起こってくる。

ゆっくり食べたら、あなたはきっと驚くだろう――深いくつろぎを感じる。

すべてのことをゆっくりやりなさい……

古いパターンを変えて、昔の習慣から抜け出すがいい。

最初に肉体が、まるで幼い子どものように完全に

リラックスしたら、そこで初めて心に取りかかることができる。

科学的にことを進めなさい。

簡単なものから始めて、より複雑なものへ進み、次はもっと複雑なものへと。

そうして初めてあなたは究極の核心でくつろぐことができるようになる。

 
あなたはこう尋ねている。

「リラクセーションについてもう少し話していただけませんか? 

私は自分の奥深い中心に緊張があるように感じるのです。

いままで一度もほんとうにリラックスしたことがないのではないか、と」

あらゆる人間が同じ情況に置かれている。


それに気がついたのはよいことだ――多くの人はそれに気がついていないのだから。


気がついたのは祝福だった。


気がつけば何か手を打つことができるからだ。


気がついていなかったら、何もすることはできない。


気づきは変容の始まりだ。

 
あなたはさらにこう言っている。


「先日、あなたがくつろぐことは


最も複雑な現象のひとつだとおっしゃられたとき、


私には次のようなことがひらめいたのです――


それはリラクセーションの糸やレットゴー(手放し)の糸、


信頼の糸などが複雑にからみあい、そこに愛の糸が織り込まれ、


さらに受容、流れること、溶け合い、歓喜の糸なども加わった、


重厚なつづれ織りのようなものではないか、と」


そのとおり、リラクセーションは最も複雑な現象のひとつだ――



とても重厚であり、多次元的だ。



これらすべてのものがその一部になっている――



レットゴー、信頼、明け渡し、愛、受容、



流れること、存在との溶け合い、無我、歓喜。




これらすべてがその一部としてあって、リラックスすることを学んだなら、





これらすべてのことが起こりはじめる。













osho





炉祖師は言った。

様々な種類の確証の体験がある。





確証の体験は、あなたが我が家に近づきつつあるしるしだ。

人は確証の体験を理解し、それに気づいていなければならない。

なぜなら、そこから勇気と希望が得られるからだ。

それは活力を与えてくれる。


あなたは探求が無駄ではないことを、朝がすぐそこまで来ていることを感じるようになる。





まだ夜は暗いかもしれないが、最初の確証の体験がこもれ日のように差し込みはじめている。




星が消えてゆき、東の空が赤く染まりつつある。



太陽はまだ昇っていないが、空はもう明るくなっている・・・・・・


もうまもなく太陽が顔を出すにちがいない。

東の空が赤く染まれば、もうじき太陽が地平線から顔をのぞかせる。


鳥たちは朝の到来を讃えている。

樹々はいきいきとし、眠りは消えてゆく。

人々が起きはじめた。

これが確証の体験だ。


それとまったく同じように、霊的な道においても、紛れもない確証の体験が起こる。





それはまだ目には見えない美しい庭園に向かって歩いてゆくと、近づけば近づくほど、風が涼しくなってゆくのが感じられるようなものだ。







庭園から遠ざかってゆくと、涼しさも消えてゆく。

近づいてゆくと、再び涼しくなってくる。

もっと近づいてゆくと、風が涼しくなるだけでなく、

花の香りが、たくさんの花の香りが漂ってくる。

遠ざかってゆくと、香りも次第に消えてゆく。


近づけば近づくほど、梢で歌っている鳥たちの声が聞こえてくる。

樹は見えないけれど、鳥たちの声が聞こえてくる

・・・・・・遠くでカッコウが鳴いている・・・・・・

マンゴーの茂みがあるにちがいない。

あなたはどんどん近づいてゆく。

これが確証の体験だ。


それとまったく同じことが内なる庭園――

内なる生命、喜び、沈黙、至福の源泉へと進んでゆくときに起こる。

中心に向かって進んでゆくと、いくつかのことが消え、

いくつかの新しいことが現れてくる。


人は小さな要求に満足せず、

生命あるものをすべて救済せんとする

高邁(こうまい)な決意をもたなければならない。


そして、いいかね、確証の体験が現れはじめても、

すぐに満足してしまってはいけない。

涼しい風が吹いてくると、あなたはそこに坐りこんで到着したと考える。


涼しさはすばらしい、涼しさは喜びに満ちている。

だが、あなたは先に進んでゆかなければならない。

小さなことで満足してはならない。


それらが起こりはじめたことを喜び、

それらを道標(みちしるべ)と見なしなさい。

だが、そこはまだ目的地ではない。


それらを楽しみ、神に「ありがとう」と感謝して、確証の体験がやって来る方向に進みつづけるのだ。




小さな要求で満足してはならない。

例えば、安らぎは小さな要求だ。

それはたやすく達成することができる。

緊張のない心の状態はたやすく達成することができる。

それは大したことではない。

心安らかで心配や不安がないというのは、それほど大したことではない。





では、偉大なこととは何だろう?

人は目標として何を胸に抱きつづければよいのだろう?


生命あるものをすべて救済せんとする

高邁(こうまい)な決意をもたなければならない。


これが判断の基準になっていることにあなたは驚くだろうが、

それはいつも判断の基準とされてきた。


仏教ではこれを「菩薩の誓願」と呼んでいる。

内なる中心に近づけば近づくほど、

この世界に住む生きとし生けるすべてのものの

苦しみを感じるようになってゆく。


一方では深い穏やかさと静けさを感じ、

一方では苦悩するすべてのものたちへの深い憐れみを感じはじめる。


苦しみに次ぐ苦しみ、そしてまた苦しみ。

どこもかしこも苦しみで満ちている。

一方では大いなる喜びが沸きあがってくるが、

一方では深い悲しみもまた湧いてくる。


何百万もの人々が苦しんでいるからだ――

それも何の理由もない馬鹿げた苦しみを味わっている。



       あなたが味わっている至福を達成することは、

                 彼らの生得権でもある。



だから、もう自分は至福に満ちているから、

すべては終わったのだと満足してはならない。

あなたが至福に満ちるようになっても、

すべてが終わったわけではない。


今や旅は新たなる方向へと転じる。

覚者(ブッダ)の境地を達成し、わが家にたどり着いたら、

いよいよ真の仕事(ワーク)がはじまる。


これまでは夢にすぎなかった。

今や、他の人々が夢から出てくるのを助ける真の仕事がはじまる。

弟子が達成したら、彼は師にならなければならない。


キリスト教で「キリスト意識の誓い」と呼ばれているのはこれだ。

それを本当に理解しえたキリスト教徒はいない。

彼らはそれを誤解してきた。

彼らはイエスだけがキリストであると考えている。


    「キリスト」という言葉は「クリシュナ」から来ている。


それは誓いだ。

自分が救われたら、

あらゆるものを救わなければならないというのがその誓いだ。


苦しみから救われることは無上の喜びだが、

他の者たちを苦しみから救ってゆくことと比較すれば何でもない。

自分が苦しみから救われることは、

依然として自己中心的であり、

自己に焦点が合わせられている。

自己の何かが依然として残っている。

あなたは自分のことにしか関心がない。


あなたが救われたからといって、

どうしてその旅をやめることができるだろう?


さあ、今度は他の者たちを救わなければならない。

イエスが救済者と呼ばれるのはそのためだ。

だが、彼が唯一のキリストではない。

彼の前にもたくさんのキリストがいたし、

彼の後にもたくさんのキリストがいた。

これからもたくさんのキリストが現れるだろう。


覚者(ブッダ)になる者はみな、

必然的にあらゆる者を救済しなければならなくなる。


人間の喜び、安らぎ、至福は小さなものだ。

そういうもので満足してはならない。


いつか分かち合わねばならないことを、

いつか他の人々が目覚める手助けをしなければならなくなることを

片時も忘れてはいけない。


   この種子をあなたのこころ(ハート)の奥深くに植えつけなさい。


仏性が花開いたときも、あなたが世界から消えてしまわないように。

仏教には二つの言葉がある。

ひとつは「アルハト」だ。アルハトとは、光明は得たのだが、

すべてが終わり、為すべきことは完了したと考えている者をいう。

彼は消え失せてしまう。


もうひとつは「ボーディサットヴァ」と呼ばれる。

彼は光明を得たが、消えず去らずに、

懸命にこの世にとどまろうとする。


彼は滞在を引き延ばし、可能なかぎり

この世にとどまろうとする。


こんな話がある。仏陀がねはん(ニルヴァーナ)の扉に到達した。

すると扉が開き、天上の音楽が奏でられ、黄金の花が降り注ぎ、

花輪を手にした天人たちが彼を歓迎しようと待ち構えていた。


ところが、仏陀は入ることを拒み、扉に背を向けた。

天人たちは驚いて、目を疑った。彼らは何度も何度も彼に尋ねた。

「何をしておられるのです?あなたは今生だけではなく、

 何生にもわたって< この扉>を探し求めてこられたのでしょう。

 ようやくたどり着かれたのに、扉に背を向けられるとは?


 私たちはあなたをお待ちしていました。

 またひとり覚者(ブッダ)が増えたと、

 天国は喜びで湧きかえっています。

 どうかお入りください!

 一緒にあなたの仏性の開花を祝おうではありませんか」


だが仏陀は言った。

「苦しんでいる者がひとり残らず救われないかぎり、

 私は中には入らない。私は待たなければならない。

 私は最後に入るつもりだ。

 他の者たちを先に入れよう」


この美しい物語によると、仏陀は今も

なお扉の前で待ちつづけているという。


扉は開いている。

いつ仏陀が入りたいと言うかわからないから、

天人たちも扉を閉めるわけにはいかない。

彼にはなかにはいる権利があるので、扉は開いている。

仏陀のために扉は開け放しになっている。


こうして天上の音楽は流れつづけ、花は今も降り注ぎ、

天人たちは花輪を手にして待ちつづけ・・・・・・

そして仏陀は外に立っている。


彼は人々を勇気づけている。

呼びかけ、挑み、奮い立たせている。

彼は人々に言っている。


「扉は開いている。

 この機会を逃してはならない。

 なかに入りなさい!

 私は最後に入ることになるだろう。

 もう扉は二度と閉まらない。

 すべての人が救われ、光明を得ないかぎり、

 扉が閉まることはない」


これは寓話にすぎないが、とほうもなく意義深い。

それを歴史的事実だと見なしてはならない。

そんなことをすれば要点を見逃してしまう。

扉もなければ、天人もいないし、

花輪もなければ、天上の音楽もない。


そして仏陀は、光明を得た瞬間に消えてしまった。

その彼がどうして扉に背を向けたまま立っていられるだろう?

誰がそこに立っているというのだろう?

だが、その誓いは・・・・・・。


仏陀が<存在>のなかに解き放ったエネルギーは今もなお作用している。

<真に>探し求めている者たちは、

今でもそのエネルギーを手に入れることができる。

そのエネルギ-はどこまでも作用しつづけてゆく、

永遠に作用しつづけてゆく。


イエスはもはやいないが、そのキリスト意識は新しい位相に入っている。

マハーヴィーラはもはやいないが、

その意識はこの生命の大海に入っている。


これらの人々は<存在>の一部となり、波動を放っている。

それがこの寓話の意味だ。

彼らは今もあなたを奮い立たせている。

そのメッセージを受け取る用意があるなら、

彼らは今でもあなたを向こうの岸辺に連れてゆこうとしている。

死を迎える瞬間、師(マスター)は無限のエネルギーの一部になる。

そのエネルギーには仏陀が加わっている。

マハーヴィーラが加わっている。

ツァラツストラが加わっている。

老子、イエス、マホメットが加わっている。

師が死を迎えるたびに、より多くのエネルギーが解放され、

それが大きな潮のうねりになってゆく。


じつに多くの人々が光明を得てきたので、

それはひとつらなりの潮流になってゆく。


         あなたがたは幸運だ。


       あなたの憧れが本物ならば、



       あなたの願いが本物ならば、





        この潮のうねりに運ばれて






      向こうの岸辺に行くことができる。







      それを胸の奥に刻んでおきなさい。










      小さなものごとで満足してはいけない。













津留晃一



 

あなたはどうありたいのでしょうか? 

あなたは何を感じていたいのでしょうか? 

どんな自分でいたいのでしょうか? 

本当は自分は何が欲しいのだろう。

自分の心から望む状態とはどんな状態なのでしょう。

幸せな状態とはどんな状態なのでしょうか?

 どんな人も「あなたは輝きたいのではないですか? 

いきいきと自分の生を輝かせたいのではありませんか? 

輝き続けていたいのではありませんか?」

と問うと例外なくそうだと答えます。

 ありたい自分でいればいいのに、
なかなか人はありたい自分でい続けようと
思考を働かせないようです。

「思いは実現します」と言うと、

そんなことは知っていると言います。

ではありたい自分の状態を思い続ければいいのに、
なかなかありたい自分でいることに
時間を惜しみなく割き続けている人はいないし、

その事に意識を向け続けている人もいないようです。

 人から非難されたら、
どうしたら非難されずに済むだろうかと考え、

「非難されないようにすること」に
大切な時間と労力を注ぎ込んでいるようです。

非難されなくなったら輝けると思うからでしょう。

それは人から非難されて輝けなくなってしまった
という経験があるからです。

非難された時しぼんでしまったから、
そのしぼんだ原因を取り除こうとするわけです。

 こうして人はいつもいつも人生の大切な時間を、
苦しみの原因退治に費やしてしまい、
喜びを産み出すことには時間を割きません。

本当に自分のしたいことは輝いていることであるはずなのに。

非難されないために大半の時間とエネルギーを浪費し続けます。

どうか、どの瞬間も、どんな瞬間も、

ただただありたい自分でい続けることに意識を向けて下さい。

 好きなことをしなさいというと、
車が欲しいからお金を貯めるといいます。

ではあなたは今お金を貯めたいのですかと問うと、
そうです目的があるから
今は我慢してお金を貯めますといいます。

では今は我慢したいのですかというと、
いえ我慢したいわけではありませんが仕方がないと答えます。

 「仕方がない」、
ここにあなたの固定観念が隠れています。

あなたのジレンマです。

究極の目的を遂げるためには
今は我慢しなければならないとする固定的観念です。

我々の集合意識がこれまでそう思っていたから、
そんな現実世界が今現れているわけです。

 あなたが目的を遂げるのに
何かを我慢しなければ達成できないとする

固定観念はそろそろ手放してもいい時期に
来ているのではないでしょうか。

「今は我慢しないと」とするあなたの思いが、
今は楽しめないという現実を産み出しているのですから・・・。

 我慢して我慢して我慢して、
ついにやり遂げて達成感を味わう。

それもなかなか捨てがたいゲームであることは認めます。

でもこれからは、
今を楽しむゲームに変えてみることもできるのです。

 これが出来ないのは、今楽しんでばかりいたら、
必ず後で泣きを見るという価値観があるためでしょう。

あなたがそう信じているのですから、
そう信じているあなたは必ずそんな体験をすることになります。

 この世には恐い出来事が、
災いのように降りかかってくることがあるのだ

と信じている人には、
そんな体験が待ちかまえているということです。

「でも実際にこれまで多くの苦い体験をした、
だからそれは事実だ」と主張し、
その現実をより強固にしているわけです。

あなた方がこれまで環境から被害を受ける
という体験をいやというほど積み重ねてきたことは
重々承知しています。

 
でもそれは過去の記憶です。

創造主であるあなたは過去からの影響を受けることもできますが、影響を受けないようにすることももちろん可能です。

どうすれば過去からの影響を受けずに済むようになるかというと、あなたが「もう過去からの影響は受ける必要がない」ことをはっきりと意図し、そう決めることによってそうなります。








おじゃましたお宅のベースを持ち、撮ってよーとポーズをきめるシャンタンさん


シャンタンからのことば

全エネルギーを自分自身に転じる

今ここをトータルに生きる








バガヴァン


生命は動きです。

秩序と無秩序、光と影、成長と衰退のあいだを揺れ動きます。

秩序から無秩序への動きが、

あなたをワンネスから分割へと動かすのは、自然の成り行きなのです。


意識的な存在として、あなたはこの祝福(ディクシャ)のパワーを、

この流れを分割からワンネスへと戻すために用いることができるのです


人体の中ではどこでも、さまざまな細胞を結ぶ情報が途絶えると、ワンネスから乖離します。

人体の様々なシステムのあいだでのワンネスが回復すれば、健康を取り戻します。


家族の中では、いたるところで痛みと不信があり、それはワンネスから離れる動きです。

ハートの癒しと愛の開花は、ワンネスへの道です。


あなた自身の中では、正しいか誤っているか、

正しいかもっと正しいかという葛藤の瞬間に、内面の無秩序があります。

それはあなたの一部分です。


それらの願望や声を無視することを、あなたは選んでいるのです。

これは不可避であり、人生のドラマの一部なのです。

いずれにもせよ、あなたの中のこれらのスピリチュアルな部分は癒され、

受容される必要があるのです。

人生を受け入れ、抵抗することなく自分自身を経験することを通して、

ワンネスへの回帰が可能です。


普遍的な力が、人体の中での、さまざまな人格の間での、

家族の中での、国際礼譲においての、そして多様な形の生命に

無秩序をもたらすところに、生命をより高いレベルの秩序とワンネスに導く機会があるのです。


ですから、無秩序と分割の形で現れるそれぞれの呼びかけは、

あなたをより高いレベルの秩序とワンネスに

さし招いているのだということを忘れないでください。

この揺れ動く運動は、決して終わることのない創造のダンスなのです。

ですから、今日では、人生のどの活動の局面においても秩序が無秩序へ

向かって動いているパターンに気づいていることを意図して、祝福(ディクシャ)を受けて下さい。


これらのパターンに、全体的に、そして抵抗することなく気づいているのが、ワンネスなのです。


繰り返しましょう。


これらのパターンに、全体的に、そして抵抗することなく気づいているのが、ワンネスなのです。









あなたの運命に目覚めなさい。あなたの影響を必要としている何千もの命があります。




アンマ






私の心の中にはいつも特別な場所があります。

その場所は人類の解放という理想ために尽力している人々の為の場所です。



覚えておきなさい。あなたの考えはあなたしか知りません。

あなたの言葉も、あなたとそれを言葉を聞いている人しか知らないのです。


そして時間の経過と共に結局は忘れ去られます。

しかしあなたが尽力した事、それ自体は永遠に残ります。

すべての人の人生の助けになります。



もっとも高次の状態が、セヴァ(奉仕)という状態です。

そのセヴァの精神は、全ての洞察、気づき、

神秘体験、ムクティ(解放)に組み込まれています。


この精神こそが、あなたに授けられたものを、

あなたが世界とシェアする原動力なのです。


ディヴァインは身体で、人は細胞のようなものです。

それらの細胞がガンになった時に、

身体は自分で自分を癒そうと必死になって努力します。


身体は個々の細胞よりも、無限大に強力です。

しかし個々の細胞も身体から学ぶ力を持っています。


細胞はその力を使って、身体と協力したり反抗したりします。


ですから人と神もそうです。

人は今、強くなりすぎて、ディヴァインに反抗しています。

ディヴァインの助けなくして、この世界を変容させるのは不可能です。


ですがこの状況は長くは続きません。

それが実現されるのが究極的にはディヴァインの意志なのです。


地球の変容は、少数の賢者や予言者だけの責任ではありません。

よりよい世界を創造する事は、あなた方すべて、ひとりひとりの責任です。

この生き残りをかけた戦いに、

今や純粋さや愛、そして価値観が失われています。

が、これらの価値観を支えるべきなのは他の誰でもない、あなたなのです。



自分の事を只のありふれた存在だと思ってはいけません。

あなた方のひとりひとりそれぞれに、

無限大のディヴァインのパワーが内在しています。

あなたはすべての人間のハートの中に、

神様を見る事ができるパワーを持っているのです。




そしてあなたが一旦、ディヴァインを全ての人の中に

見る事ができるようになったら、あなたは全ての人間、

すべての個人を愛する事が出来るようになります。


あなたを通して、神様の力が世界に流れ込みます。

あなたの言葉を通して、あなたの愛のある行動を通して、

あなたの奉仕を通して、愛のない状態に慣れてはいけません。

あなたは全ての人間を、その人の酷い苦しみや、

その人が創りだした不幸や無知から目覚めさせる事ができるのです。

あなたのおかげで、全世界が目覚める事が出来るのです。

あなたがこの責任を受けて立つ事が、

ゴールデンエイジ・黄金時代の始まりなのです。


あなたの影響を必要としている何千もの命があります。


このワーク・みわざが、あなたを通して

おこらなければならないというのが、私の意志です。

どんなに多くの人が出て来ようとも、

あなたにとっての役割を成就させなさい。

変容の時期やってきたら、プレゼンスは

津波のように人間を呑込んで、その意識を変えさせるでしょう。

ひるんではなりません。



あなたが期待されている事を行いなさい。

あなたの知恵とワンネス・ブレッシングの力を他の人と分かち合いなさい。

後の事は面倒みてもらえます。

自分の仕事とうまく付き合い、他の方々を助けなさい。

すべての事が落ち着くべき所に落ち着きます。


あなたの考えが何であれ、私はあなたを解放して自由にします。

マインドの本性は他の人のあらを探し、ジャッジし、

非難し、既成の概念の型にはめ込んで決めつける事です。

その認識が否定的であれば、マインドは、

『彼は悪い、彼女はうるさい、彼は私を理解してくれない、

彼女は疑り深すぎる、人は私を愛してくれない、

家族に誇りを持てない、皆が自分を利用する』などなどと、

ずっと語り続けます。


全てを色眼鏡で見るようになります。

従って人を非難し続け、よって嫌悪感を募らせます。

嫌悪感は少しずつ憎悪に変わり、人間関係をダメにします。

この壊れた人間関係のせいで、どんなに他の人が良かろうとも、

私たちは真実を『見る』事ができないのです。

マインドというものは恐れからロジック・論理を作り出します。


しかしハートは真実を発散します。

恐れは家族や社会の中で、憎悪、嫉妬、怒りそして暴力として現れます。

ストレスというのは肉体労働からくるのではなく、

ネガティブな態度によって生じます。

私たちは他の人を愛する事ができて初めて真実を見る事ができます。

ロジックは愛を破壊します。

ジャッジをした後に愛する事は不可能です。


ですから私たちは苦しむのです。

私たちが自分の内側に正直になって『見る』技術を学ばない限り、

真実を見る事ができず、愛を見つける事ができません。

愛する事ができて初めて、私たちは許す事ができて、許しを得ようとします。

人間関係に愛と平和を維持するために、

人は極力我慢する事を学ばなければなりません。

神様の恩寵・グレースは特に、親との関係が正しく

整えられた人のところに自然に流れます。


あなたの運命に目覚めなさい。


それがあなたがここにいる理由です。


未来がミステリーに包まれているのは創造の本質です。



しかしながら、あなたが自分の未来にすべき事は、



あなた自身が決める事です。

委ねる事は怠ける事ではありません。

あなたは自分で選択する能力と力を持っています。

あなたにやってくる全てのチャンスを活かしなさい。

あなたの望む目標が達成されるように私が助けします。

栄えある未来のために、願望は情熱として花開かなければいけません。

そして行動が伴われなければいけません。

あなたの注意は、自分の目標に集中しなければいけません。


ディヴァインに委ねるという事は、行動しない事ではありません。


これはカルマ・ブーミと言って、行動面です。

従って外側の世界では、努力は不可欠です。

私のグレース・恩寵が、あなたの努力と、行動を共にします。

あなたの状況がなんであれ、あながが求めたので、


あなたは私のパワーの経験をします。

家に帰りムーラ・マントラを唱えなさい。

私のグレースを自分でわかるでしょう。


安心感は神様に委ねた時にのみ可能です。


信仰があろうと無かろうと、私はあなたの中にいます。



そしていつもあなたと一緒にいます。




『いつまで?』というのは間違った質問です。





グレースが洪水のように流れるまで祈りなさい。





貫井投稿