

ブログネタ:
自殺について考える
参加中
ちょっと、クチコミ番付を進められたので、参加してみることにしました。ネタは、最近「死」とか「生」とかについて考えていることもあって、これに決めました。
自殺を考えるときに思うのは、「死ぬ自由って何?」ということ。
「死んじゃダメだ」とはよく言われます。でも、「自分の意志で死ぬ」ことを、否定する理由はない。
「死んだらなにもかもおしまいだよ」
→ 「いや、むしろ終わらせたいから。」
「死んだら周りに迷惑がかかるよ」
→ 「それは、周りのあんたがたの都合でしょ。」
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哲学的な思考の結果、自ら積極的に死を受け入れた研究者の、哲学研究としての最後の事業=自死の過程=遺書です。「自殺者は死にたくて死んだんじゃない。」と言われますが、「死にたくて死ぬ」という理屈、間違ってないんですよね。本当に考えさせられる本で、論じたいことはたくさんあるけれど、まずは哲学的に、ないしは倫理学的に、「自殺はダメ」という論理が組み立てられないことを確認するに、留めておきまして。
で、福祉と情報を掲げるこのblogで、あえて考えてみたいのは、「死ぬ自由って本当にあるの

」ということです。
そもそも、私たちが自由になるモノが、自分の生活の中で、どのくらいあるでしょうか?
この問いは、実は障害のある方、生活に困っている方にすごく実感してもらえるのでは、と思います。身体的な制約が大きいと、本当に自分の思うとおりにならないことが多い。行きたいところがあっても自由に行けないし、買い物をするにも自由に入れないお店が多い。噛む力や飲み込む力の問題で、好きなものが自由に食べられない、ということさえある。
ただ、では障害が無い人、健常者だという人が自由かというと、そうでもありません。つきたい仕事に就けない。好きな人に嫌われた。ゲームしてたいけど会社に行かなければならない。田舎に生まれてしまった・・・東京に生まれたかったのに。女に生まれてしまった・・・男に生まれたかったのに。アメリカに生まれれば、英語で苦労しなくてすんだのに。
単なるわがままでしょうか? いえ、そもそも私たちは、自分の行動でさえ、まったく思いどおりにならないのです。
私たちは、自分の想いさえ、言葉にできない。伝えられない。理解しあえない。
そもそも、最初から生まれたくて生まれたわけじゃない。
何一つ、自分の思いどおりに、自由にならないじゃないか。自由に生きている人なんているのか? そう思っている人がいたら、それは誤解か自己欺瞞してるだけなんじゃないか? そもそも社会に、自由なんてあるのか?
では、そういう中で、なぜ、「死ぬこと」だけは自由だといえるのでしょうか

最近私は、そもそも「自分が自由である」っていうのが、実は勘違いなのではないかと考えています。というのも、自分で思いどおりにできたり、自分だけで決定できることが、あまりに少なすぎるからです。
一見、自由に感じていることでさえ、よくよく思いなおしてみると、あらかじめ選択肢が決められている中でしか選んでいない。その選んだ選択肢も、人の助けがなければ実現しなかったりする。
ものすごい限られた状況、環境でしか、そもそも生きられないんですよね。人間は

。当たり前です。だって、私たちは独りで生きているのではない。周りに多くの人がいて、みんなそれぞれの都合で、意思で生きている。周りにがんじがらめなわけです。私たちは。そして、自分がすることは・・・会話も、愛も、食事も・・・すべて、周りの他人との相互のやりとりの中でしかできない。
そもそも最初から、社会的なんです。私たちは。自分の周りに社会がある。それはどうしようもない。
でも、だからといって、私たちがまったく自分で決められなくて、すべて周りから強要されているか、というと、これも違う。
限られているとはいえ、選択肢のどれを選ぶかは、明らかに自分が決めていますから。つまり、私たちはそもそも、自分の思いどおりにできるという「自由」な世界には生きていない。でも、限られている中で少しとはいえ、明確に自分の考えや意思を実現できる場所はある。その中で、どう選択していくかが勝負。これが自己実現であり、人生なのではないか。
この二つは区別して考える必要があると思います。なので私は、前者を<自由>、後者を<自律>=自分で自分のことをコントロールすること、と呼ぶようにしています。
で、その限られた選択肢の中に、「自分で死ぬ」というのは、入っていないのではないかと思うのです。
だって、将来「自由に死ぬ人」を、私たちは生み、育て、付き合わなくてはいけないのですか? 死ぬ自由を表明した人とビジネスをして、死なれたらどうするのですか? 自由に死ぬ人の将来を願って教育しなければならないのですか? 自由に死ぬ人と会話し、思い出を残していかなくてはいけないのですか?
もちろん、自殺された方が苦しんだ末であることはわかります。でも、残された方は、やはりもっと辛い。せっかく良い関係になったのに、せっかく生み育てたのに、せっかく共に生きてきたのに、「自由に死なれ」るなんて、しかも、その後その人がいない日常が続いていくなんて、残酷すぎる。
〈自由〉って、周りにやさしくないと思うんです。周囲への思いやりや配慮の視点が見出せない。それに対して、〈自律〉は、周りを理解してその中で、自分を表現していくことなんじゃないかと思うんです。周りの人や環境と共存しながら、自分として生きていく術なのではないかと。
私たちはそもそも、とても不自由です。だからこそ自分らしく生きることができる。〈自由〉ではないけど、〈自律〉している。そんな風に考えれられれば、「死ぬ自由」まで追い詰められずに、生きる術を考えられるのではないか、そんな風に思いました。