どんなにあと少しあと少しって、帰る時間を伸ばしたところで、帰らなくちゃいけないものは帰らなくちゃいけない。
いつまでも居るわけにはいかない。
夕飯もご馳走になって、食後に相葉くんのつわり以来欠かさないっていう月の名がついたお菓子とコーヒーもご馳走になって、俺はもう帰ろうって、とにかくずっと俺の横とか膝とか背中にべったりな環を最後によいしょって抱っこした。
雅月はどうしたのか、空気を読んでるのか、もう俺に飽きたのか、あんまり俺の方には来なかった。
今もおもちゃの車に乗ってぶーぶー言いながら暴走してる。
それをでれでれ顔で見てる翔さんと、でれでれ顔で雅月を見てる翔さんをコーヒーを飲見ながら幸せそうに見ている相葉くん。
「じゅー」
環が俺を呼ぶ。全力で口を尖らせて。
俺はそんな環を、ぎゅって抱き締めた。
柔らかな柔らかな髪に顔を埋めた。
そしてありがとなって、小さく環に言った。
ありがとな。環。
相葉くんにフラれて、それから新しい恋をする気にもなれなくて、幸せそうな翔さん見て悪態ついたりしてたけど、環のおかげでやっとちゃんと吹っ切れたような気がする。
「じゅー?」
「そろそろ帰るな」
環をラグの上におろして言ったら。環は。
また。
下唇で上唇を噛んだ。ううって。
「だからその顔な」
まただ。
言葉をちゃんと理解してる証拠だ。
みるみるうちに涙が浮かんだ。
色素の薄い、少し赤みがかった目に。
「環、どうした?」
俺を見ながら泣くのを我慢してる環に気づいた翔さんが、優しく聞いた。
でも、環は返事もしないし微動だにもしない。
ただただ、ううって。
「そろそろ帰るって言ったら、さ」
俺が泣かせたみたいで………って、まあ俺が泣かせてるんだけど、弁明。
翔さんに怒られるようなことはしてないよって。
翔さんは、ん?って感じで俺を見て、そして環を見た。
笑み。
微笑み。
それは親の。父親の。
幸せだな。
こんな顔をしてくれる人が毎日すぐ側にいてくれるなんて。
「………そっか。寂しいな。潤が帰っちゃうの、悲しいな」
なあ?環。
翔さんの手が、小さな環の頭に乗る。
「大好きになっちゃったもんな、潤のこと。だから嫌なんだよな」
「………」
翔さんは、先輩。
会社の先輩。
同じ営業で、営業のいろはを1から俺に叩き込んでくれた尊敬すべき先輩。
同じ男として、どうかと思うヘタレな部分はあるけども、真面目で頭が良くて頭の回転が早くて話術も巧みでイケメンで人あたりが良くて面倒見が良くて責任感があって情も厚くて。
プラスで。これ。
そんな翔さんと環を、やっぱりこの上なく幸せそうに見る相葉くんが居て。
これでよかったんだなって、また、思った。
後ろ髪は引かれるけど、もういい加減帰ろうと、心を鬼にして立ち上がった。
お邪魔しました。ご馳走さまでしたありがとうございました。
翔さんと相葉くんに言って、雅月じゃあなって。環にまたなって。
環を見てると鬼にした心がゆるむから、敢えてもう見ないようにして玄関に向かった。
じゅーって小さな声と、ついてくる気配。
2、3歩歩いてバランスを崩して、それからはいはい。
じゅー。
じゅー。
じゅー。
声がどんどん涙声になっていく。
だからさ。
お前、俺の何がそんな気に入ったの?
俺はただのお前のお父さんの後輩。お前を生んだ人を好きだったやつ。それだけだよ。
また会えるし。また来るし。誘われればだけど、誘われたらすぐ来るよ。すぐ来られる。
だから、今生の別れみたいに追ってこなくていいんだって。
玄関。
靴を履いて振り向いたら、はいはいで追いついて来た環が立ち上がった。
そして手を伸ばす。俺に。
だから抱っこした。またな、の意味を込めて。
翔さんと相葉くんと雅月が、少し離れたところで俺らを見てる。
「じゃあな、環。今日はすげぇ楽しかったよ」
「………じゅー」
「じゅんだよ」
「じゅー」
「だから、じゅ・ん」
「じゅー」
コントか。
泣きそうな顔。
今にも落ちそうな涙。
俺は環を、はいって翔さんに渡した。
その時だった。
パラパラって。
何か。
音がして。
音を追って視線をやった先に。
丸………って言うには少し歪な、でも丸っこい、真珠みたいな粒が何個か落ちていた。
これ、どっかで見たことある。
って、思ってる間にも、パラパラパラパラ。
パラパラパラパラって。いくつもいくつもいくつも。
驚いて、何?って翔さんを見たら、翔さんもびっくりしたみたいな顔で環を見てた。
つられて環を見たら、環が。環の目から。
涙が粒になって、パラパラと。コロコロと。
「………え?」
パラパラとコロコロと、後から後から、転がった。