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日本のプロ野球最大のスター長嶋茂雄
打って守って走って、まさに千両役者。
そんな長嶋にも辞める日が来た。
1974年10月14日は17年間の現役生活に別れを告げた日。
日本中が泣いた長嶋の引退。
その陰には知られざるドラマがあった。
視点1 延期された引退
1965から1973年、空前絶後の日本シリーズ9連覇を達成した。長嶋の天才的なバッティングがチームの黄金時代を支えていた。
だがそんな長嶋も晩年は成績が低迷し、1974年には打率.244。
そして10連覇を阻まれた直後に現役を退いた。
実は引退劇はその1年前に行われるはずだった。
柴田勲は、結婚式の司会を頼む関係で川上監督の自宅に行って、偶然水面下の情報を耳にした。
9連覇を花道に長嶋を引退させ、監督にさせると川上監督が決めていた。
なぜそれが1年伸びたのか?
1973年11月、慰労会の席。
担当記者・玉木雅治
川上監督から「今年で辞めろ、それでお前が来年監督やれ」
川上監督の親心で「このままでは金看板に傷がつく。生涯3割バッターで終わらせたい」
長嶋は畳に正座して「監督あと1年やらせてください。6・7番でも構わない」長嶋の決意表明だった。
川上監督は熱意に押されて現役続行を受け入れた。
長嶋はさらに限界を超えたトレーニングを自らに化した。
狂気にも似た練習こそが長嶋の覚悟。
5年連続となる開幕ホームランを放ち、4月終盤には打率3割に乗せた。
しかし天才的と言われていたバッティングから確実に何かが失われていた。
速球に付いていけなくなったり、歩いていてつまずくこともあった。
足早かった長嶋が、晩年は手ばっかり動いていた。
5月には3割を割り込み、不振に陥った。
6月半ばにはスタメンから長嶋の名が消えた。
長嶋にとって最も厳しいシーズン。
しかし、苦悩も苛立ちも決して周囲に見せることはなかった。
不調をどう克服しようとしていたのか。
長嶋「天才じゃないから、努力は当たり前のこと」
9月になると打率は2割台前半にまで落ち込んだ。
10月、チームは10年ぶりにリーグ優勝を逃し、ペナントレースは幕を下ろした。
長嶋が現役引退を発表したのは、その夜だった。
ニュースで日本中が騒然となり、そして迎えた最終戦当日。
午後2時41分最終戦プレイボール
「4番サード長嶋」第一打席でセンター前ヒット。
最終打席はショートゴロで、生涯打率は.305だった。
引退セレモニーで、チームメイトは自分たちから去ろうとするものの大きさを自分たちで感じていた。
視点2 セレモニーを仕切った男
巨人軍広報部長:小野陽章(はるあき、2020年逝去)2人だけの極秘のミッションだった。
小野は長嶋の覚悟を知って、最後に大きな決断を下した。
小野「空前絶後“巨人軍は永久に不滅です” これを聞いた時、わたしも涙がでました」
スタッフで引退セレモニーの打ち合わせ。
長嶋の希望は「ファンに挨拶をするため客席沿いにグラウンドを一周したい」
後楽園球場の副支配人から、それだけは諦めて欲しいと懇願した。
グラウンドに飛び降りるファンが出るからと警察からも注意されていた。
長嶋はわかりましたと提案を取り下げた。
当日は平日にも関わらず、ファンはスタジアムを埋め尽くした。
ダブルヘッダーの第一試合に長嶋のホームランが出ると、球場のボルテージは最高潮に達した。
長嶋の一挙手一投足に大歓声。
7回に長嶋から小野は「(場内一周を)やりましょう」と言われた。
小野「ミスタープロ野球の最後の願いは叶えなくちゃって、責任を感じました。最悪の場合は俺が辞めりゃいいんだ」
第1試合終了後、午後2時10分頃、長嶋は外野席に向かって歩き始めた。
歩きながら立ち止まって、ハンカチで涙をふいた。
観客は誰1人グラウンドに飛び降りたりなどしなかった。
長嶋はプロになって初めて涙を見せた。
声援がこだまする中、カメラを向けていた報道陣はカーテンコールのようだったと感じた。
ファンの人が金網をつかんで「長嶋さん辞めないで」声をあげてました。
長嶋「この日、観客席の空気の違いに気がついていた。ただお礼を言いたかった。ファンあっての長嶋茂雄だったから」
小野「わたしはそのお手伝いができただけでも、我が人生に悔いなしですよ」
視点3 元ラジオ局アナウンサー
深澤弘(2021年に逝去)は、毎日のように自宅に訪れていて、ミスターの練習を身近に見ていた。長嶋が向き合い続けたもの・・・シーズンに入ってからも秘密の特訓を自らに課していた。
試合の後も自宅に戻ってから、再びスイングを見つめ直した。
庭で長嶋はバットを持って、深澤に「敵チームのエースの投球フォームで投げる真似をしてくれ」「平松で来い」「外木場で来い」「安仁屋で来い」
午後10時から始まって、午前2時まで続いたという。
当時監督もコーチも、誰も長嶋に対して「さらに悪くなったらどうしよう。ファンに対して言い訳出来ない」アドバイスしなくなった。
圧倒的な存在ゆえに生まれた微妙な気遣い。
長嶋はそれを振り払うためにあえて1人の時間を設けた。
1人でいることを大切にしていた長嶋はどのように技術を磨いていたのか。
長嶋「自分のスイングを音で感じていた。孤独だから本当の舞台に出た時に
初めてそういうものが生きる。野球の勝負師は孤独から逃げてはいけない」
現役を離れ監督でいる間も、長嶋は長嶋でいられた。
監督を離れた時に、深澤が言われた言葉。
「雨にも負けず、風にも負けず。せっかく雨が降っている、風が吹いている
雨を楽しむ風を楽しむ。それでやっぱり生きていくのが、本当の俺たちの生き方じゃねえか」
長嶋茂雄の人生観そのものだった。
長嶋「雨にも雪にも負けないで、いや雨を喜び雪を楽しむ。プラス思考、前向きにやることが人生の中で大事なんじゃないか」
深澤「ミスターは永久に不滅です」
前回の「アナザーストーリーズ ジョン・レノン」の記事はこちら(2024年3月27日)
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1975年 長嶋巨人の最下位<プレイバック>の記事はこちら(2021年12月9日)
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では、明日。