◆ワールド極限ミステリー・あさま山荘事件 | ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

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いつしか食べ歩きがライフワークになってしまった今日この頃。
美味しかった店はもちろん、雰囲気の良かった店を紹介していきます。
2023年12月に外食記事 4000号を達成しました。
ちょこちょこ地域別索引も更新中。
現在、「いいね」返しが出来ません。

▼名古屋市科学館(記事とは関係ありません)


1972年
あさま山荘事件
219時間の全記録
女性を人質に10日間ろう城した、日本犯罪史に残る大事件。
事件の様子をテレビ各局が生中継。
強行突入日の2月28日の視聴率は各局合わせて89.7%
日本中がその事件の目撃者となった。

2月19日
長野県軽井沢町の別荘地。
河合楽器の保養施設・あさま山荘。
当時、山荘にいたのは管理人の妻・吉沢京子さん(仮名)だけだった。
見知らぬ男に突然ライフル銃を突きつけられた。
男・坂口弘(当時25歳)坂東國男(当時25歳)
吉沢さんは、窓から逃げようとしたが、坂口から阻止された。
「山荘に誰かいるか?」
「お客さんはスケートに行って、誰もいません」
主人は犬を連れて散歩に行っていて、帰宅は6時ころではないか。
坂口には、まだ3人の仲間がいた。
吉野雅邦(当時23歳)加藤倫敦(当時19歳)少年 (当時16歳)
犯人たちは管理人の妻を拘束し監禁し、あさま山荘にろう城した。
山荘をとり囲んだ警官に発砲、怪我をさせるなど抵抗し、県警300人ほどが現場に集まった。
ほとんどの家がテレビに釘付けになっていた。

1971年学生運動が下火になる一方で、より過激な思想を持つ組織、連合赤軍が生まれた。
そのメンバーたちは、暴力によって政権を倒す武力革命を起こそうとした。
「革命左派」が栃木県の真岡銃砲店を襲撃し猟銃10丁と弾薬2300発を盗むなど、各地の銃砲店を襲撃し、武器を強奪していた。
その後、銀行などの金融機関から現金を強奪をした「赤軍派」と合流し結成された。
捜査の目から逃れるため群馬県の山中を転々としていた。
警察は幹部を指名手配し、全国一斉のローラー作戦を展開。
最高幹部の永田洋子と森恒夫を群馬県の山中で逮捕、残った9人が流れ着いたのが、軽井沢だった。
そのうち4人は軽井沢駅で逮捕、残る5人が警察から逃げ、近くにあったあさま山荘に立て篭もった。
京子さんの「手足を自由にしてください」の訴えに、犯人たちは耳を貸さなかった。
すると、県警が「君たちは完全に包囲されている」と外から呼び掛けた。
犯人たちは計11丁の銃器と大量の弾薬を所持していた。
玄関やバルコニーにバリケードを作り、外を監視。

13年の刑期を終えた加藤倫敦氏 71歳
取材に応じた理由「拒む理由がないからです。事件によって犠牲になられた方が居られる以上、自分がどういうつもりでやったのか、どういう考えでいたのか、おそらく問いただしたいと思う。それにお答えするのは、関わった人間として避けて通れない義務」

なぜあさま山荘だったのか?
「実際はどこかで車を調達する。車で逃げるという方針だった。ところが別荘にあった車のキーが管理人さんに聞いたら、ない。そこへろう城することに切り替えた」

事件発生2日目
東京から警視庁の機動隊も派遣された。
元警視庁第9機動隊仲田康喜小隊長 87歳が管理人主人を見つけた。
「我々機動隊が奥さんを必ず救うから」
体制は整ったが、問題は山積していた。

3日目
警察庁長官・後藤田正晴は「射殺すると殉教者になり今後も尾を引く」と考えて、次の指令を出した。
一、人質は必ず救出せよ
ニ、犯人は全員いけどりにせよ
三、火器、特に高性能ライフルの使用は警察庁許可事項
「人質に万一のことがあってはならない」これが警察の動きを拘束した。
警察は毎日犯人を説得するしか無かった。
人質が山荘のどこにいるのか、無事なのかすらわからなかった。

警察の求めにより、犯人の母親たちが説得のため現場に呼ばれた。
母親の説得は2日間続いた。
呼びかけに犯人は発砲で応えた。

今回の事件では、犯人たちが交渉してこなかった。
加藤氏「1人でも多くの警察官を殺傷する。戦闘能力を失わせるのが目的。
銃によるせん滅作戦をあさまでやるんだ」
坂口は京子さんに建物の見取り図を書かせた。
3階南側のトイレなどの壁や屋根裏部屋に銃眼を開け警察と対峙した。
7か所の銃眼を設置。

あさま山荘は今も現存する。
事件当時全てが破壊されたが、その後立て直されていた。

機動隊員が玄関から入ろうとしたら、バリケードが積まれて断念した。
談話室兼食堂に見晴らしの良いバルコニーがあり、山荘下からの攻撃は困難。
3階の厨房、その隣のいちょうの間に犯人全員と人質がいた。

警察は山荘攻略の次なる手を探っていた。
「食べ物が尽きるの待つはどうか」
「それは無理だ。山荘には20日分の食糧が潤沢にある」
外は氷点下15度なので、隊員たちのおにぎりが凍っていた。
発売されて間もなかった日清カップヌードルを警察が購入し、食べる様子が繰り返し日本中に放送されたことで日本中で大ヒット。
寒さは警察官たちを苦しめた。

4日目
警察の方針は持久戦。
あさま山荘の電源を切った。
警察の動きがテレビを通じて知られないためだった。
彼らは懐中電灯やラジオを備えていた。

警察は心理学の専門家を派遣していた。
犯人たちを眠らせない擬音作戦に出た。
山荘の屋根に向かって警察が一晩中投石を行った。
人質の身代わりを買って出た男が警察の目を盗んで玄関に近づいたが、犯人に銃撃されて、その後息を引き取った。

強行突入が議題に上がり始め、土のう約3000袋が用意された。
山荘の裏側は3階に正面玄関がある。
管理人非常口があるが、バリケードで塞がれていた。
難攻不落の要塞だった。

警備局付警務局監察官・佐々淳行が鉄球作戦を提案した。
穴を開けてから、放水、催涙ガスを放つもの。
あさま山荘の持ち主から許可が取れ、実行することに。
警視庁は鉄球クレーンを持っていない。
長野県の業者は、連合赤軍に恐れをなして誰1人引き受けなかった。

命懸けの依頼を引き受けたのが、銃器運搬会社の白田組。
弘行さん、五郎さんの義理の兄弟。
五郎さんの鉄球クレーンの操作の腕前は信州一とまで言われた。
家族は大反対したが、2人は正義感が強かったため、引き受けた。
アメリカ製のクレーン車は直径70センチ、重さ1.5トン。
南側から玄関周辺の壁をぶち壊すことになった。

1・2・3各階に機動隊。
前日の夜に作戦が話され、一日警官に任命された。
万が一の時の保証が付くという。
建物の真ん中から壊すというのは初体験だった。

10日目
最後の説得は空振り。
犯人はどこかの時点で警察は突入してくると考えていた。
鉄球クレーンについて加藤氏は「まさかああいう物を使うとは思わなかった。建物が崖下に立っているから、建物がそのまま落ちてしまうことはないんだろうか」と考えた。
山荘の近く10メートルの場所にクレーン車を停めた。
犯人はクレーン車の窓に向かって銃を撃ってきた。
白田兄弟はこの日に備えてクレーン車のガラスを防弾ガラスにしていたため、命は助かった。
10時47分、鉄球作戦が始まった。
鉄球は命中し、山荘に大きな穴を開けた。
機動隊により催涙ガスが打たれ、放水が始まった。
1階制圧、2階制圧。
人質と犯人は3階にいる。
3階では激しい発砲で先に進めなくなり、膠着状態になった。

警視庁第2機動隊隊長と特科車両隊の中隊長が銃撃され殉職した。
指揮官が撃たれたニュースがラジオから聞こえた。
人質の京子さんが「人を殺さないで」と叫んだ。
五郎さんの次の標的は屋根裏だった。
鉄球は屋根裏も破壊した。
加藤氏「鉄球が迫ってきたので、天井裏にいるのは危険だと感じた」

犯人が鉄パイプ爆弾を投げ、厨房にいた隊員5人が重軽傷。
いちょうの間が狭いため、決死隊4人が編成された。
仲田小隊長自ら志願した。
「自分が先頭切っていかないと。なんとかして早く解決したい」

犯人たちとの最終決戦
いちょうの間より、激しい抵抗。
警察は談話室から壁をハンマーなどで壊し、高圧延長放水。
決死隊も、犯人たちに雪崩れ込んでいった。
仲田が京子さんを確保した。
18時15分、人質救出。
10日間警官と連合赤軍との戦いは幕を閉じた。
加藤氏があさま事件に思うことは「一般の国民を犠牲にしてやったことは、革命との整合性はない。あさまはどこから見てもあり得ない選択だった、間違ってます。10日間も拘束したことをお詫びするしかない」


「50年間 指名手配の男」の記事はこちら(2024年1月27日)
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http://ameblo.jp/miyacar/entry-12838166138.html

では、明日。