◆アナザーストーリーズ「イエローマジックオーケストラ」 | ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

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いつしか食べ歩きがライフワークになってしまった今日この頃。
美味しかった店はもちろん、雰囲気の良かった店を紹介していきます。
2023年12月に外食記事 4000号を達成しました。
ちょこちょこ地域別索引も更新中。
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▼写真AC:riomiwaさん提供のフリー素材


運命の分岐点は1979年2月19日。
細野の自宅のこたつで3人は、おにぎりを食べながらコンセプトを語り合い、そしてYMOが結成された。
目指したのは世界での日本初の大ヒット。


視点1・松武秀樹「世界を狙うYMOの革命」

4人目のYMOとさえ呼ばれた松武。
1000万円した通称「タンス」と呼ばれたシンセサイザーとコンピュータをレコーディングに持ち込んだ。

リーダーはベーシストの細野晴臣は結成当時30歳
ドラマーの高橋幸宏(当時25歳)ファッションセンスも注目されていた
キーボードの坂本龍一(当時26歳)東京芸術大学出身の理論派で「教授」と呼ばれていた

当時の細野「日本には(音楽は)入ってくるばかり。東京港から出ていかなければ加工国日本の名が廃るのです」
その頃日本は経済成長が著しく、家電や自動車産業で「ジャパン・アズ No1」とさえ呼ばれていた。
日本初の新しい音楽で世界を席巻することを目指した。
その中で、欠かせないと考えたのは松武だった。

日本製のコンピュータ「自動演奏機」
YMOの取り組みがニュースとして報じられるほど画期的だった。
細野は世界を狙うための音楽をこう表現した。
「下半身モヤモヤ、みぞおちワクワク、頭クラクラ」 

YMOと松武がやっていたのは、リズムの数値を細かくズラすことによって、独特なノリのリズムになる。
自分たちが演奏できないような多様なノリのリズムが生まれる。
いくつもの数値を複雑に重ねて、より深いノリを作り上げていった。

ファーストアルバムを発売し、国内デビューを果たした。
プロデューサー・川添象郎は振り返る。
「最初は誰も相手にしてくれませんでした。細野さんの名前で2000枚ぐらいしか売れなかった。ラジオ局からは、これまでのジャンルに当てはまらないと言って、流してくれなかった」
フュージョンのイベントに参加させた。
プロデューサーのトミー・リピューマが来日した際に売り込んだ。
アメリカでデビュー、ライブ出演が決まった。

川添は、型破りな戦略を取ることにした。
日本人のアイデンティティである制服を着ることにした。
幸宏がデザインしたのは、人民服に似た赤い制服。
当時、小澤征爾が中国人のオーケストラを指揮していた。
それを見たメンバーは、髪型を真似てもみあげを切った。
これがテクノカットと呼ばれるようになった。
また、日本人は無表情で有名だったので、拍手が来ても知らんぷりして怒涛の如く演奏を続けた。
大型シンセサイザーをステージに上げて、松武は観客の前で操作した。
1979年8月、ロサンゼルスで8000人の観客の前に立った。

1曲目からスタンディングオベーション。
ユニークで斬新なサウンドだった。
現代日本を象徴するような音楽グループだった。

中でもツアーでも演奏された『ビハインド・ザ・マスク』は、マイケル・ジャクソンやエリック・クラプトンがカバーするほど、世界の音楽シーンに影響を与えていた。
そして海外での反響から、国内でもブレイクしていった。

視点2・スネークマンショー「コメディに挑む新革命」
ラジオを中心にブラックな笑いで人気を博していた

桑原茂一「価値観を変えていく時代だった。彼らは見たこともないような音楽や文化をつくりだしていった」
『ソリッド・ステイト・サバイバー』は、史上2番目のミリオンセラーになった。
同じ年の1979年にウォークマンが発売された。
ポータブルオーディオで、若者たちが聴いたのがYMO。
原宿では若者がYMOで踊った。
3人はカセットテープのコマーシャルで登場し、社会現象になった。
人気が加熱する中、スネークマンショーにイベントでの共演を依頼した。
それは出版社主催の武道館での無料ライブだった。
観客には、コントを挟むことなどは知らされていなかった。
フォークギターを持つ3人がステージに上がり、時間をかけて女装した坂本龍一がピアノの前に出たら、客席から「引込め」。
観客達が大ブーイングを起こし暴動に発展して、このイベントは失敗に終わった。
後になって「通じなかった」。

3作目『パブリックプレッシャー』はオリコン1位。
沸騰する人気に、3人は違和感を覚えていた。困惑を隠しきれなかった。
レコード会社はライブアルバム第2弾を発表するように迫ったが、細野は応じなかった。
4作目のアルバム『増殖』初登場1位
音楽の合間に異色なコントを挟んで人気を博した。
スネークマンショーとのコラボレーションアルバムは異色のコメディとの組み合わせ。
細野のアイディアで、自分たちと日本人を皮肉った。
収録されたコメディにもYMOも参加し、音楽評論家を皮肉った。

その後YMOはヒットは狙わず、派手なメロディは捨てていく戦略を取った。
『テクノデリック』でやりたい音楽はやり尽くしたとして、1983年散開を宣言し、活動を休止した。

視点3・小室哲哉「残したレガシーとは」

洗礼を受けたミュージシャンの一人である小室哲哉。
坂本龍一に憧れ、本人に共演を依頼したこともあった。
YMOとの出会いは海外でのライブ中継。
テレビで見たYMOの海外ツアーは、小室哲哉にとって、アポロ着陸に匹敵するほどの強烈なインパクトがあった。
小室哲哉が、3人組でTMデビューしたのはその翌年である1984年だった。
なかなかヒットしなかった。
3年間YMOを聴き、ヒントを探った。

松武とYMOが作ったピコピコが、その後の基準になっている。
ダンスミュージックにしたところ、TMネットワークはうまくいった。
代表的なフレーズだった。
さらに早いテンポのダンスミュージックでTMをヒットに導いた。
憧れの坂本龍一との共演を果たした小室哲哉は、さらに特別な存在に感じられたという。
3人がそれぞれ気持ちのいい音をわかっていた。
3つの才能が奇跡のように生まれた斬新な音楽。

YMOの影響は、漫才のナイツにも受け継がれた。
テンポを一定にして崩さない中毒性みたいな漫才ができたと言う。

YMOは散開後にそれぞれソロ、プロデュース、映画音楽など、幅広い活動をしていた3人。
21世紀になり、再び集った。
デビューした頃と違って、その頃の日本は停滞に陥っていた。
生演奏にこだわり、静かで力強いYMOを復活させた。
社会に対してメッセージを発信し続けた。

それまでになかった新しい音楽を生み出したイエロー・マジック・オーケストラ。
時代と共に常に新しいものを求めて、革命を起こし続けた。
2023年になって、高橋幸宏、坂本龍一がこの世を去ってしまった。

全ての伝説は45年前の「こたつ」から始まっていた。


▼マイケル・ジャクソン『ビハインド・ザ・マスク』




『風のように歌が流れていた』の記事はこちら(2020年6月12日)
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http://ameblo.jp/miyacar/entry-12602655260.html

では、明日。