◆今、徳川家康でしょ・運命を変えた8つの事件 後編 | ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

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いつしか食べ歩きがライフワークになってしまった今日この頃。
美味しかった店はもちろん、雰囲気の良かった店を紹介していきます。
2023年12月に外食記事 4000号を達成しました。
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▼写真AC:うみかぜさん提供のフリー素材


事件-5 (家康 41歳)
本能寺の変で大ピンチ・200キロの大逃走事件

信長は自害の直前の名言「是非に及ばず」
「どうもこうもない」
41歳だった家康は、信長と同盟を結んだことで、三河・遠江・駿河の3カ国を領国にしていた。
家康は、明智光秀から命を狙われる危険があった。
本能寺の変があった時、家康は堺にいた。
およそ200キロ離れた本拠地である三河に逃げ帰らなければ、命が危ない。
その時一緒にいた家臣はおよそ30人ほど。
明智軍は京都付近にいて、1万以上。
明智軍よりも危険な存在、それは落武者狩り。
農民などが、戦に負けた武将を襲い、鎧や刀など金品を奪うこと。
家康は堺から三河まで、わずか3日で帰還。
これが後に「神君伊賀越え」と呼ばれる逃走劇。
Q. 選択
・明智軍が待ち構える道
・賞金首を狙う者がたくさんいる道
A. 家康は、落武者狩りがはびこる危険な山道を選択
神君伊賀越えで助かった家康
「家康ひそみの薮」村人に道案内を依頼し、会えるまで身を潜めていた。
山道を京都方面へ向かった。
同行者の1人の穴山梅雪が、落武者狩りで命を落とした。
家康に同行していた家臣の茶山四郎次郎が、先回りして道中の人に配った。
2日で約70キロ進み、多羅尾氏が治める小川城に宿泊し、束の間の休息を取った。
残り100キロとなり、滋賀県甲賀市で、忍者の助けを借りた。
平らな道で歩きやすく、道の先には「忍びの里」があり、忍者の末裔が住んでいる。
天正伊賀の乱(1578年~1581年)
信長らが伊賀忍者などを徹底攻撃したと言われる戦いで、家康は忍者たちを密かに匿っていた。
忍者はこの恩に報いた。
この数日間に、天下統一を成し遂げる思いが、逃げ帰る道のりで芽生えたとされる。

様々な人の助けを借り、天下を目指す思いを固めた


事件-6 (家康 43歳)
圧倒的な戦力差をはねのけた秀吉との直接対決

本能寺の変の後、秀吉は家臣との権力争いに次々と勝利、天下統一に近づいていった。
1584年小牧・長久手の戦い
家康は約1万6000に対して、秀吉は約10万、
家康にとって圧倒的不利な状態。
ある作戦で秀吉に大打撃を与えることになった。
城の大改造を実施し、味方の兵を敵から見えなくすることに成功。
愛知県小牧市に小牧山城の跡がある。
小牧市が調査した結果、再現図が出来上がった。
堀と壁が何重にもある入り組んだ鉄壁の要塞。
敵の侵入を拒む、巨大な深い堀と土塁を作った。
敵から見えない、秘密の出入り口を使った奇襲で、秀吉軍にダメージを負わせた。

城を改造する知略・家臣のモチベーションを維持


秀吉から家来になるように勧めた。
当初、家康は拒んだが、朝廷の官位を手に入れ49歳になり関白になったため、家康も逆らえなかった。


事件-7 (家康 49歳)
関東の田舎町を大改造
江戸への引っ越し事件

1590年関東に領土を変更させられ、家康は経済的に発展しやすいまちづくりに挑戦した。

もともと「江戸」は、海の入り口だった。
家康は水路を重視した
家康のインフラ計画の名残があるスポット2つ
日本橋:五街道の起点となり、家康が整備した
江戸城の堀の跡がある。
船のための水路を作り、たくさんの船が行き交う水の都となった
四谷:地下鉄丸ノ内線が地上に出るが、水路の下に線路を作れず、地上を通ることになった
掘った際の土は、当時海だった日比谷・有楽町を埋め立てた。

江戸に水路を張り巡らせ、世界有数の大都市に変貌させた



事件-8 (家康 59歳)
関ヶ原の戦いに大勝利・1カ月前から勝っていた事件

1600年関ヶ原の戦いで、秀吉の家臣の石田三成に圧勝した。
秀吉の死後、豊臣政権は内部分裂し、関ヶ原の戦いが引き起こされた。
石田三成は、幼い頃から秀吉に気に入られ、豊臣政権の右上として活躍し、秀吉の死後は政権のトップに上がった。
石田三成が気に入らない武将たちは家康に付いて、戦に発展した。
徳川軍は、直属の部下よりも多く豊臣系の武将だったメンバーが揃っていた。
家康は寄せ集め集団をしっかりまとめた。

関ヶ原の戦いより1カ月前に書いた家康の手紙が、徳川家の秘密倉庫に残っている。
短い手紙だが、有力な武将の心を掴んだ。
先に関ヶ原に向かった武将に向け、不安を察して気持ちが離れないようにした。
石田三成も、味方をまとめるために手紙を送ったが、とても長い文章だった。

7万人の兵士を一気にまとめるお宝
家康が兵士に課した、戦場の15の約束
御軍法書付
軍令書
戦場の禁止事項を15箇条にまとめた
・喧嘩や口論はするな
・放火、乱暴はするな
・田畑を荒らすな
など、最低限のルールを確認する必要があった。
ユニークなルールも見受けられる。
・長い柄の槍は使うな(振り回すと味方に当たってしまうから)
・集団移動の時は脇道にそれるな
・戦が終わるまで勝手に帰るな
・勝手に馬を使うな
・商人からものを奪うな
この段階で天下を取ることを想定していた。

人々の心をつかむ手紙やルールを周到に準備して勝利


1603年、征夷大将軍になり、戦乱の世に幕を引いた。
家康が後世に遺した言葉が、岡崎城に刻まれている。
東照宮御遺訓
人の一生というものは、重い荷物を背負って長い道のりを歩いていくようなものだ。
急いではいけない。
不自由が当たり前だと思えば、不満を感じることはない。
心に欲が出てきたら、苦しかった時をおもいだすと良い。
我慢することが長く平穏に暮らす秘訣で、「怒り」の感情は「敵」だと思いなさい。
勝ってばかりで負けた経験がないのは危ういことだ。
自分の行動はしっかり反省し、人の失敗を責めてはいけない。

家康は、辛抱強く生きることの大切さを説いている。
また、最後の一文は論語をアレンジした
「及ばざるは過ぎたるよりまされり」
足りない方が、やり過ぎより優れている、と読み取れる。
色々な解釈があるが、攻めすぎずに待つのが基本姿勢の家康が感じたことなのだろう。


帰れマンデー・見っけ隊「日光東照宮・世界遺産ルート」の記事はこちら(2022年1月14日)
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http://ameblo.jp/miyacar/entry-12721010701.html

では、明日。