◆北島三郎さんに敬意を表して | ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

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いつしか食べ歩きがライフワークになってしまった今日この頃。
美味しかった店はもちろん、雰囲気の良かった店を紹介していきます。
2023年12月に外食記事 4000号を達成しました。
ちょこちょこ地域別索引も更新中。
現在、「いいね」返しが出来ません。

クラウンレコードとともに60周年の北島三郎さんが、ラジオのゲストだった。

▼写真AC:gariken49さん提供のフリー素材


1936年10月4日に北海道・函館近くの知内の生まれ。
1955年に歌手を夢みて18歳で上京。
デビュー前は渋谷などで流しの演歌師として頑張っていた。
本名が大野穣さんだったので、「大ちゃん」と呼ばれていた。
お客よりもホステスから呼ばれないといけない
本来の高いキーの曲以外のムードコーラスや軍歌、なんでも器用に出来ないと呼んでもらえない。
当時からおしゃれには気を使っていた。
流し時代は長髪
デビュー当時はリーゼントの頃もあったとか。
慎太郎刈りという石原慎太郎が始めた髪型。
作曲家の船村徹と出会って門下生となった。
当時はロカビリーが全盛の時代。
正統派演歌歌手はレコード会社に受け入れられず、なかなか所属先が決まらなかった。
デビューはコロムビアから。
正調演歌ではなく「ブンガチャ節」という当時盛り場で歌われていた俗謡。
1962年6月、発売して1週間、放送禁止という不運に見舞われた。
「キュ キュ キュ」というハヤシ言葉が“わいせつ”であるということだった。
前倒しリリースした『なみだ船』が大ヒットし、日本レコード大賞・新人賞を受賞。
クラウンレコード第一号。
昭和40年は月に1枚のペースでシングル発売
『函館の女』『兄弟仁義』『帰ろかな』
連続ミリオンセラー。
これらを先駆けとして、北海道の街を舞台にした作品が増える事になった。
当時は演歌という言葉はなく、流行歌と呼ばれていた。
演歌は戦後傷ついた人々や、それぞれの故郷で踏ん張っている人々の心を癒やして励ましてきた。
『与作』『まつり』が、世代を超えて愛される曲となった。
2013年の50回目の出場を最後に紅白歌合戦は「卒業」した。
2022年1月より全世界に楽曲をサブスク配信している。

ナンバーは3636らしい。
八王子に住んでいるのは、奥さんの「東京で一番富士山がきれいに見えるところに住みたい」という希望から。
馬主としても有名。
原譲二のペンネームで作詞・作曲活動を行っている。

流しなどの下積み時代があったことなど、全く知らなかった。


紅白歌合戦を見ながらのつぶやき・2018の記事はこちら(2019年1月1日)
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http://ameblo.jp/miyacar/entry-12429939535.html

では、明日。