◆天空の謎・マチュピチュ 21のミステリーを徹底解明 | ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

いつしか食べ歩きがライフワークになってしまった今日この頃。
美味しかった店はもちろん、雰囲気の良かった店を紹介していきます。
2023年12月に外食記事 4000号を達成しました。
ちょこちょこ地域別索引も更新中。
現在、「いいね」返しが出来ません。

▼( h************************pさんによる写真ACからの写真 )


15世紀から16世紀にかけて栄えたインカ帝国の遺跡。
驚きなのは標高2400メートルもある。

ワイナピチュとマチュピチュの山に挟まれて宙に浮いているように見える。
これが天空都市と呼ばれる所以。
500人ほどが暮らしていたと考えられている。

年間100万人を超える人々がやってくる。
ロマン溢れる魅惑の世界遺産である。
どうして多くの謎があるのだろう。

1911年アメリカの探検家 ハイラム・ピンガム3世によっての発見からわずか100年
20世紀最大の考古学の偉業とされた。

インカ文明は文字を持っていないため、文字や言葉で語り継がれることがなかった
マチュピチュはいつ、誰が作ったのか

500年前に書かれた土地の証明記録
16世紀半ばに「ピチュはインカ・ユバンキが支配した」という記録が残っている。
インカ・ユバンキは別名・パチャクテイという支配者

インカ帝国は最盛期には、80の民族と1,600万人の人口をかかえ、現在のチリ北部から中部、アルゼンチン北西部、コロンビア南部にまで広がっていた。
アンデスは草木の育ちにくい乾燥地帯であり、支配者の命令により、なぜかこの地に築かれたとされる。

謎1・なぜ森の中に作ったのか?
周辺には主だった街がなく、いわば陸の孤島。
なぜこのような山の中を選んだのだろう?
ペルーには、トウモロコシから作られたチチャというお酒が500年前からある。
ペルーの人は飲む前に地面にほんの少しこぼす。
大地の神のご加護があるように。
神と人とをつなぐ特別な飲み物である。
同じような意味合いをもつコカという栽培植物。
旅の安全や仕事の成就を願う際の神への捧げものとして、コカは欠かせない。
それは500年前のインカも同じ。
17世紀に描かれたインカの年代記。
皇帝が手にする飲み物はチチャである。
インカ時代の銀の女性像。
頬の部分が膨らんでいるのは、コカの葉を噛んでいるから。

チチャの原料であるトウモロコシや、コカは温暖な気候でないと生育しないから、高地にあるインカ帝国にとっては貴重な作物。
マチュピチュは、両方を入手できる特別な場所。
マチュピチュは、都が置かれたクスコに比べはるかに温暖。
マチュピチュは、クスコより1000メートルばかり低い場所にある。
マチュピチュはジャングルとの境にあり、パチャクテイが冬を過ごした特別な場所だったと考えられている。
温暖な気候はインカにさらに恵みをもたらした。
インティンバという水に強く腐りにくい木材が使われた。
温暖な気候でないと成長しない。
また、薬草や、高山資源も豊富だった。

謎2・なぜ断崖の地を選んだのか
遺跡があるのは、特殊な地形にある。
わざわざこの場所を選んだのか?
近年謎を解く遺跡が見つかった。
マチュピチュを彷彿とされるティカウェルタと言う小さな遺跡。
数年前に調査が始まったばかり。
構造がマチュピチュによく似ている。
川に囲まれた断崖のいただき・尾根の上に広場がある。
ワイナピチュに似た岩山まである。
規模が小さいマチュピチュそのもの。
ここがマチュピチュのモデルになったと指摘する研究者もいる。
インカが抱えていたある切実な問題。
チャンカ族と接する位置にあったため、敵の侵入を見張る監視場の役割をしていた。
マチュピチュも、同様の役割で、周りにインカと敵対する集団が暮らしていた。

謎3・アンデネス
モライ遺跡は、まるでミステリーサークルのようだ。
段々畑である。
段々の部分に、作物が植えられていた。
アンデネスと呼ばれている。
ここは、農場試験場だったとされる。

マチュピチュにも広大なアンデネスがある。
多くの作物が栽培された。
トウモロコシや花粉などが見つかっている。

謎4・水をどうやって確保したのか
美しさに思わず足を止める場所、水路である。
石を巧みに加工して作られている。
敷地の中に水が湧く場所は一つもない。
水路を遡ってみると、水源が見つかった。
水は岩から染み出している。
南側にそびえる山に雨が降り、徐々に染み出している

謎5・アンデネスの水はどうやって確保したのか
水路は一直線に街へと入っていて、アンデネスは通らない。
アンデネスには水が一切引かれていない。
どうやって農業用水を確保していたのか?

マチュピチュと同じ地域にある別の村を訪ねた。
マチュピチュ同様、周りを川に囲まれ、尾根の上に集落がある。
裏の斜面はすべてアンデネスであった。
土は乾燥しているが、じゃがいもの葉は青々として元気だった。
やがて、大量の霧が発生した。
10分ほどでアンデネスは霧に覆われ、葉はしっとり潤った。
水路がいらない理由はここにあった。
マチュピチュにも多く霧が発生する。
このおかげで十分に畑を潤すことができるのだ。

謎6・険しい山で生きる人々の祈り
インカの人々が暮らす理由として、マチュピチュの周りの大きな山々は当時神だとあがめられていた。
クスコの住民が毎年行っていることの1つに、祈祷師のところにいくこと。
大地と神へのお祈りをするため。
山のてっぺんにお供えを捧げに登った。
大地に豊かな恵みをもたらしてくれる、と信じている。
マチュピチュは神々の化身と信じられた美しい山々に囲まれている。
山からもたらされる雪解け水は人々の暮らしに欠かせなかった。
山々に囲まれて暮らすことは、神に囲まれて暮らすこと。

謎7・なぜミイラが盛んに作られたのか
アンデス地域ではミイラ作りが盛んに行われた。
クスコの博物館には、ミイラの状態が再現されている。
また、黒犬は死者を次の世界に導くと考えられていた。

インカの人々は死後も次の人の人生が続くことを信じ、ミイラを作り続けた。
こうして、インカには、ミイラとともに生きる独特の文化が生まれた。

ペルー最大の祭り・インティライミでは、人々はミイラを担いでいた。
インカでは皇帝が死ぬとミイラとなった。
生前の富はそのままミイラのものとされていた。
新たな指導者は富を相続できないため、自分の力で領地を切り開く必要があった。
そのため、インカは短期間のうちに爆発的な拡大を遂げたという。
神棚にも先祖の骸骨がある。

謎8・マチュピチュには、どんな人たちが住んでいたのか?
クスコの博物館には、埋葬されていた174の人骨がある。
近年、改めて分析したアメリカのイェール大学の研究チーム・リチャード・バーガー博士の人骨調査。
2対3で女性の方が多く、多くの年代がいた。
主食は、栄養たっぷりなトウモロコシ。
骨には、戦争や暴力による怪我の跡がなく、とても平和な暮らしをしていたことがわかる。

別の土地で見つかった人骨は、かなりの重労働で筋肉のつき方が違っていた。
マチュピチュの骨からは重労働の痕跡がなかった。
肉体的負担のない皇帝に仕えた神官や巫女など、特別な任務に従事した選ばれし人々だった。

謎9・マチュピチュでは何が行われていたのか
インカの人々が何を信じていたのか?
南東へ20キロの場所の切り立った崖に登る
インカ時代の墓があった。
埋葬された遺体は皆東向き・太陽が昇る方角を見ていた。
太陽のように、魂が新たな命として再生することを願った。
太陽、人々にとっても重要な指針だった。

インティライミはインカの言葉で「太陽の祭り」を意味する。
この祭りでは皇帝が神官を務め、太陽に豊穣を祈り、収穫を感謝した。
祭りは日照時間が短い冬至の時に行う。

また、夜明けすぎのほんの一瞬にしかみることが出来ない光景がある。
トレオンの窓から太陽の光が一直線に差し込んだ。
トレオンの別名、太陽神殿。
マチュピチュの至る所で同時に起こる。

インティワタナは、日時計の役割をしていたとの説もある。
インカの言葉で太陽をつなぎとめる、という意味。

マチュピチュの不思議な建造物は、太陽観測のために作られた。
彼らは暦を知る必要があった。
皇帝が人々に暦を知らせて、人々も安心して種まきや収穫を行うことができた。

謎10・新発見・マチュピチュ裏の謎の遺跡
マチュピチュの近くに同じような遺跡が見つかった。
北側の山深い森の奥。
ウルバンバ川を越えたいが、橋などない
川を渡るためのリフトのような一人ずつ乗る特別な乗り物もある。
とんでもない急斜面、道なき道。
目の前に石壁が現れた。
そこは、インカラカイという遺跡。
石壁に5センチほどの穴が空いていた。
山の頂から、日が昇り始めたところが見られた。
様々な場所で太陽観測を行っていたことがわかる。

サクサイワマン遺跡にある巨石は、首都を守る砦の跡だと考えられている。
石の大きさに、圧倒される。
最大・重さ120トンのものもある。
石が隙間もなくぴったり組み合わされている。

マチュピチュの高度な石像技術に驚かされる。
尾根の上で石の建物を築くのは、平地よりはるかに困難。

謎11・石材はどこから調達したのか?
マチュピチュは、アマゾンに近い森の中にある。
周りは石材を調達できる手頃な場所は無さそうに見える。
石切場がある。
花崗岩が取れる岩場が豊富にあった。
原料は足元に山ほど転がっていた。
インカの人が、マチュピチュ建設の地に選んだ理由の一つ

謎12・どうやって石を運んだのか
インカには車輪の技術が存在しなかった。
オリャンタイタンボ遺跡に謎を解く鍵がある。
ここに作りかけの石が残されている。
石切場は8キロも先にある。
砥石をかけたかのように、滑らかに磨かれている。
この傷や摩耗は、石をひきづったために出来たものと考えられている。
巨大な石を根気よく運んでいたとされる。
4000人が石を切り出し、6000人が縄で引っ張り歩いて運んだ。
石には奇妙な出っ張り(突起)がある。
突起を下にして棒で回転させた。
気の遠くなるような時間と巧みな石の使い方で実現した。

謎13・どのようにして石を加工したのか
鉄器無しでどうやって加工したのか
アメリカ・カリフォルニア大学の博士によると、
ハンマーストーンで石の表面を削り、滑らかに加工した。
ハンマーストーンの素材は、鉄鉱石などの硬い石。
石工が、時間をかけて丁寧に作業を行う必要があった。

謎14・なぜマチュピチュは400年間壊れなかったのか
ジャングルの近くで、比較的雨の多い地域
土砂崩れも多いにも関わらず、手付かずの状態で400年もの間その姿を留めることができた。
高度な技術が隠されていた。

農業ゾーンには階段状のアンデネス。
地下構造に驚きの工夫がなされていた。
チョケスイスイという遺跡には、雨季にたくさんの雨が降る。
地下に4つの層があった。
腐葉土/細かな砂/粗めの砂/瓦礫
排水のために、水はけをよくし、土砂の流出を防ぐため、このような層にした。
石壁を作るための破片を瓦礫に使った。

住居ゾーンには、建物を建てるため、高い地盤が必要。
表面の土に工夫を施すこと。
粘土を踏み固めた。
また、ほんのわずがながら、地面に傾斜がつけてあった。
インカの人々は高度な技術で、驚異の石像建設を実現させていた。

インカ帝国は、さらなる国家プロジェクトを始動させた。
インカ道。
海沿い、山沿いに2本の大きな街道が作られ、国内のあらゆる地域が結ばれた。
総延長はおよそ4万キロ。
ペルーを訪れる観光客に人気なのが、インカトレッキング。
実際にインカ道を歩きながら、マチュピチュに行くことができる。
半年前には予約で埋まってしまう盛況ぶり。
太陽の門と呼ばれるインティプンク、ここまで来ればマチュピチュは目の前。

謎15・インカ道を作った国家運営の戦略とは
目的はインフラ整備だけではなかった。
国を統治するための重要な役割があった。
チャスキという日本でいう飛脚のリレーで情報を伝えていた。
チャスキは1日280キロほどリレーした。
インカ帝国はとても細長く、南北4000キロの距離があった。
迅速に情報を収集して、広大な国土をまとめようという狙いがあった。

謎16・文字がないのにどうやって情報を伝えた
インカ帝国は、特殊な方法を編み出した。
キープは、綿や動物などの紐で作ったもの
結び方と結ぶ位置で数字を表した。
人口や税に関する数字、またはトウモロコシや豆類といった食料の貯蔵量を記録するためだとされた。
白、茶、青、ミックスが5回繰り返されている。
キープカマヨックという訓練された人々が、キープを読み解く役人。
広大なアンデス地域の多様性があり、共通して理解できるものが数だったから。

謎17・変型頭骸骨の秘密
頭蓋骨には、縦に長い奇妙な形をしているもの、横長に広がっているものがある。
これは、アンデス文明で広く行われていた頭蓋変形である。
頭蓋骨を成長過程で強引に変形させたもので、身分や地位の区別に用いられ、地域によっても形に特徴が見られる。
南部の高地に多いのが、長頭タイプで、北部の海岸に多いのが、横長タイプ。
不思議なことに、マチュピチュからは両方の骸骨が見つかっている。
ペルーとボリビアの国境のチチカカ湖では、数多くの縦長の頭蓋骨が見つかっている。
高度な文明が栄えていた。
ティワナクと呼ばれる文化があり、石像技術が進んでいた。
横長サイズは北部の海岸で多く見つかった。
ここでは金属加工の技術が発達していた。
アンデス各地から優れた技術者が集められてきたことが物語っている。

インカの人たちはほかの地域から、様々なものを取り入れる。北部の海岸地域からは金属加工や商業の技術、南部の山地からは石加工の技術を学んだことでしょう。
良いものを積極的に取り入れたことがインカが優れた文明を開花させることができた理由だったとされる。

謎18・インカは多様な民族をどうやってまとめたのか
領土を増やしたため、様々な民族が集結したため、
皇帝は様々な政策を打ち出した。、
コルカとは倉庫のこと
急勾配の丘の上のあり、物資を運ぶのには不便な場所。
谷間から吹き上げる風は貯蔵物を冷やすための工夫。

コルかには、庶民が納めた物が蓄えられた。
しかしそれはインカ帝国が一方的に搾取したものではなかった。
例えば、干ばつや災害の影響で十分な作物が出来ない時期は、コルカに蓄えられた食料が庶民たちに分け与えられた。
そのおかげで人々は飢えをしのぐことができた。
庶民に優しい政治を行うことで求心力を高めようとしていた。

そのことはインカ帝国の拡大主義にも、大きな意味を持った。
新たな地域を征服するときも、いきなり戦闘を始めるのではなく、まず交渉によって説得を試みた。
交渉に応じた場合、大量の贈り物を惜しみなく分け与えた。
宗教面でも寛容だった。
インカの太陽信仰さえ受け入れれば、それまでの神を引き続き信仰することを許した。

イェール大学のリチャード・バーガー博士
「インカが寛容な政策をとったのは、帝国支配の戦略の一環だった。
異なる文化を否定せずに受け入れそして歓迎することをしなければ、インカ帝国がこの地域を1つにまとめることはできなかっただろう。
インカは大きな帝国を築くため、異なる民族間の協力を積極的に行っていた」
一方、寛容さを押し出すだけでなく、皇帝の権威を高める秘策も打ち出した。
インティライミの祭りにその様子を伺える。
太陽に向かって熱心に祈る皇帝。
太陽の力を強めようとしている。

インティライミが終わると徐々に日が長くなり、太陽の照る時間が長くなり種まきの時期がやってくる。
皇帝によって太陽の力が強まり、人々はその恩恵を受けられる、皇帝はこう示そうとされた。

インカ帝国は、寛容な統治制度と巧みな人心掌握で
安定した国家運営を実現させていた。

しかしそのインカの栄華は100年しか続かなかった。

謎19・なぜ滅亡したのか?
インカ帝国が全盛を極めた頃、15世紀のヨーロッパでは大航海時代を迎え、積極的に海外進出を押し進めていた。
未知の大地、南米大陸に向かい、富と名誉に野心を燃やす男、フランシスコ・ピサロ。
ねらいは、エル・ドラド(黄金郷)とされたインカの金であった。
ピサロはインカ帝国への侵攻を開始、1532年、わずか170名ほどの兵でインカの大群を撃破した。
インカ皇帝・アタワルパは処刑され、やがてインカ帝国は滅亡。
強大のはずのインカがなぜあっけなく滅んだのか。

滅亡に関して、新たな見解が唱えられている。
カギとなるのは、アンデスの人々の信仰。
モチェ文化の遺跡で発見されたモデル。
上唇が裂けた人物、指を6つ持つ手、変わったものはすべて、ワカと呼ばれた。
ワカには神聖な力が宿るとされていた。
白い肌、長いあごひげで馬を操るスペイン人は、インカの人々の目にワカと映ったとされ、あまり抵抗出来なかったとされる。
インカ滅亡の謎、そこには多様性を受け入れるワカ信仰がアダとなった皮肉が見え隠れしている。

謎20・なぜマチュピチュは破壊されなかったのか
インカ帝国が滅んだのち、征服者のスペイン人はこの地の西洋化を急速に推し進めた。
インカの巨大な建造物は破壊され、その上に教会などが建てられ、キリスト教への改宗を迫られた。
こうして、インカ帝国の面影は次々に姿を消した。
しかし、マチュピチュにはスペイン人の手が伸びなかった。
そのため、奇跡的に破壊を免れた。

バーガー博士
「植民地時代のペルーの役割は、生産物を作りスペインにおくることだった。
そのため、文化が発展する地域は山岳地帯から海沿いへと移され、山からは人も少なくなっていった。
マチュピチュが姿をとどめたのは、農業や製造業などが近くで行われなかったから」
インカの人々とスペイン人の持つ価値観の違いが、マチュピチュから破壊を防いだのだ。

謎21・新発見・マチュピチュの新たな可能性
新たな壁画の存在を発表した。
タジャマルと呼ばれる区域には、壁石に小さな絵が描かれていた。
人間に、リャマ、何かの幾何学模様だと考えられている。
顔料の成分分析から、この絵はインカより古い時代に描かれた可能性が高いとされている。
マチュピチュが作られる以前からこの場所に人の往来があったとして、注目されている。
マチュピチュを含む歴史保護区域には
37000ヘクタールの広さがあら、ここにはまだまだ未知の遺跡が眠っている。

わずか100年の間に繁栄を極め、歴史の表舞台に出ることなく、多くの謎を残し消えていったマチュピチュ。
そこには多様な価値観を認め、高地の厳しい環境を楽園に変えたインカの人々の、英知が刻まれている。


「マチュピチュの出会いと古代アンデス文明」展の記事はこちら(2016年12月11日)
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
http://ameblo.jp/miyacar/entry-12227765990.html

では、明日。