◆諸説あり・邪馬台国スペシャル | ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

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偶数日は外食記事でなく、備忘録であることをご了承ください。

古代国家・邪馬台国はどこにあったのか
吉川美代子さん、堀尾 正明さん
ゲスト・夢枕獏さん

▼吉野ケ里遺跡
たこたこ、上がれ!さんによる写真ACからの写真


中国の歴史書・魏志倭人伝に書かれていること。
邪馬台国のことを記した唯一の文献である。
中国の三国志の中に書かれ、文字数わずか2000字
その最古の日本の記録には“倭”と呼ばれていた。
弥生時代の人々の暮らし、風習や食生活などが克明に書き記されていた。
「男子は身分関係なく入れ墨をしている」
「倭人は、好んで海に入り、魚や蛤を採っている」

魏の国の使者が、邪馬台国へやって来たときの道のりの記述がある。
地図に沿ってたどってみると、「朝鮮半島の帯方郡を出発し、水路を7000里進んで韓国へ、そして対馬国へと海を渡り、伊都国など」九州の諸国へ入ることは判明している。
その先の道のりは「南へ行くと邪馬台国に至る、水路で10日、陸路で一月」とある。
記述通りに進むと、南の海の果て、フィリピンの東の海上にまでたどり着いてしまう。
邪馬台国九州説を主張する人々は「陸路で一月は、一日の誤り」あるいは「水路10日、さらに陸路で一月」と、日程を足すのではなく、「水路だと」「陸路だと」水路かもしくは陸路の場合にかかる日数だと解釈した。
この解釈通りに進めば、ちょうど九州北部にたどり着く。
一方、邪馬台国畿内説を主張する人は、方角に間違いがあると解釈、南とあるのは東が妥当、そうすれば畿内に到着する。

いったい邪馬台国はどこにあったのか。
その論争は江戸時代に始まり、300年以上続けられて来た。
しかし近年、邪馬台国の痕跡を示す物証が次々と見つかり、今まさに新たな展開を迎えている。

諸説1. 決め手は掘り出された水銀

2009年新聞をにぎわせたのは、奈良県桜井市纒向(まきむく)遺跡から、かつてない大型建物が見つかり、邪馬台国畿内説が有力となった。
その翌年、2800個の桃の種が見つかった。
邪馬台国で卑弥呼が呪術を使ったシャーマンのような女性で、何らかの儀式を行っていたことが考えられる。
1972年以降、発掘調査は196回に及んでいる。

日本最古の神社の一つてある、大神(おおみわ)神社の後方にそびえる三輪山から、纒向遺跡の全貌が見える。
眼下に広がる奈良盆地、その南に位置する東西2キロ、南北1.5キロの範囲が纒向遺跡である。

根拠1 卑弥呼の王宮
専用の王室に住んでいたとされる。
王宮跡が、建物の柱穴があったとされる場所に再現されている。
巨大な建物群の遺構が見つかった場所。
横12メートル、広さは240平方メートル、当時の建物としては、国内最大級。
その大きさだけでなく、近くで見つかった桃の種が卑弥呼のいた時代と一致した。

根拠2 土器
邪馬台国は、30の国が集まってできた連合国家。
日本中のいろんな地域で作られた土器が集まっている。
山陰、東海、河内系、四国、関東、東北、全国各地から土器が集まっていた。
これだけ他の地域の土器が集まっているのは、同時代の他の遺跡にはない。

根拠3 箸墓古墳
およそ280メートルで、卑弥呼の墓だと考えられている古墳。
墓は塚の大きさおよそ150メートルとあり、まさに一致する。
古墳の作られた時期が、卑弥呼の死亡した時期と一致することが判明した。

根拠4 水銀
魏志倭人伝によると、魏に日本産の丹(に)を寄進している。
真っ赤な色をした鉱物で、生成すると水銀を取りだすこともできる。
丹は薬にも用いられ、不老不死の薬として、秦の始皇帝にも愛用されたという貴重なものだった。
女王卑弥呼は、丹を魏の皇帝への貢物にしていた。

さらに「其の山に丹あり」という記述がある。
全国の水銀鉱山の中で、卑弥呼の時代(3世紀)に丹を産出していたのは、畿内だけのようだ。
「其の山」今現在の大和水銀鉱山の付近。
その近くに邪馬台国があったのではないか。

三重県松坂市に、丹が採掘された山に採掘場跡がある。
尾根を切り崩して掘った穴は深さ10メートル。
丹を含んだ岩を打ち砕き、中から結晶を取り出す。
採掘跡には、その作業の痕跡も残っている。
ズリがたくさん落ちている。
ズリとは、鉱物を削り取った用無しの部分のこと。
当時の人が使った採掘道具も見つかっている。
これらはすべて川の石で、採掘のために山まで運ばれたもの。
鉱山跡には石のハンマーや、捨てられたズリも大量に残り、さらに弥生式土器も発見されたことから、邪馬台国時代の採掘跡と推測されている。

さらに紀伊半島には、丹と関わりの深さを証明する場所がある。
1700年以上の歴史を誇る丹生都比売神社(和歌山県)。
代々祭祀を行って来たのは、丹生(にう)氏、まさに丹を生む人々。
宮司の丹生さんは、丹生一族が全国の丹(辰砂)の鉱山を持ち、製錬をしていく技術を持っていたのではないかと言う。
彼らの祖先が丹の製錬と採掘を担当して、60キロぐらい離れた邪馬台国へと運んでいたという可能性がある。
邪馬台国はこの畿内にあったのかもしれない。

諸説2. 決め手は硯、邪馬台国九州

佐賀県神埼郡吉野ヶ里町
かつて、吉野ヶ里フィーバーが起こった地だ。

邪馬台国が九州で熱気を帯びたのは、今から30年前の1986年に発見された吉野ヶ里遺跡。
全国初となる銅器の鋳型が出土し、物見櫓の建物が見つかり、日本中乗る注目を集めた。
さらに王族のものと思われる墓から銅剣とガラス製の管玉が見つかり、その貴重さから卑弥呼の墓ではないかと推測された。
これらの発見により、邪馬台国九州説が一気に根付いたのである。

吉野ヶ里遺跡は、発掘をもとに当時の集落が再現されている。
弥生時代の集落跡として、日本最大規模、東京ドームおよそ11個分の土地に、弥生時代およそ5400人が住んでいたという。

この遺跡の中に、邪馬台国九州説の大きな根拠があるという。
南内郭:政治の実務を担った権力者が住む集落、この中で柵に囲まれている場所がある。
竪穴式住居で狭いのかと思いきや、中に入ると予想よりも広い、畳で20畳敷きくらい。
当時の権力者の暮らしが再建されている。
身分の高い人は、冬は絹織物を重ね着していた。
すでにこの時代は養蚕技術があり、繭から絹糸を作っていたという。
吉野ヶ里遺跡では、縫い目のある織物が発見され、布を折り重ねて縫い合わせる高度な裁縫技術を持っていたこともわかった。

当時敵を監視するために使った高さ12メートルの物見櫓。
30年に渡り研究してきた高島忠平さんは、吉野ヶ里遺跡は有力な邪馬台国候補地である、と断言する。

根拠1
魏志倭人伝と同じ構造の集落
卑弥呼のような人がいるとすれば、北内郭に住んでいた。
魏志倭人伝に書かれていることと符合する。
「宮室楼観は城柵で厳重に」この通りの構造が吉野ヶ里遺跡にはある。
大きな建物が魏志倭人伝に書かれた宮室だという。
祭祀などが行われる聖域だったと考えられている。
この宮室を取り囲んでいるのが、城柵。
魏志倭人伝に書かれた城柵は大きな特徴がある。
城という字は「土」と「成る」という字から出来ている。
土を盛り上げて土塁としたのが城柵であり、このような城柵は、同じ時代の畿内には存在しない。
その先には突き当たりに柵がある。
城柵が厳重に入り組んだ状態で張られていた。
そして楼観と物見櫓のこと。
この集落には4つの物見櫓があった。
楼観が宮室の周りに4つ置かれ、外側を城柵が取り囲んである。
まさに魏志倭人伝の記述通り。

さらに、邪馬台国を思わせる厳重な備え。
畿内には見られない弥生時代の仕掛けがあった。
集落を取り囲む巨大な壕は深さ最大3メートル、傾斜角度は60度。
土の壁だと登れない。
さらにその上に土塁と柵がある。
しかもこの壕は2.5キロにわたり張り巡らされ、集落を二重に囲っている。
この厳重な守りこそが、卑弥呼がいた証だと考えられる。
魏志倭人伝によると、卑弥呼は厳重に警備され、王になってから、民衆の前に姿を見せることは無かった。
この二重の壕で囲まれた宮殿こそ、卑弥呼の館ではないかと考えられるのだ。

根拠2
鉄製の武器
吉野ヶ里遺跡では、数々の鉄製品が発見されている。
鍬や鎌、短剣など、その数は260点以上あり、これほど大量の出土は全国でも吉野ヶ里遺跡だけ。
中でも注目すべきは、武器として使われた鉄の矢尻だという。
その数30点、九州で700点以上出土している。
この大量に出土した鉄の矢尻こそが、邪馬台国の強力な根拠だという。
邪馬台国が登場する前、倭国は長い戦いのさなかにあった。
倭国大乱と呼ばれるこの戦いを終わらせるため、卑弥呼を女王としてたてたのが邪馬台国だったと言われている。
これらの武器が多く出土されるということは、戦いの最前線であったことを示している。
鉄の矢尻の出土数を地図に表してみると、九州が圧倒的に多い。
畿内と比較してみると、その数は約300倍とも言われている。
つまりここ九州で、鉄製の武器を必要とする大乱が起こり、その後邪馬台国が成立したと考えられる。

根拠3
2019年3月、邪馬台国九州説を裏付ける、大きな発見があった。
弥生時代後期の硯(すずり)が見つかった。
厚さはおよそ1センチ、全体は長方形に成形され、表面には研磨した跡が残っている。
今まで単なる土器の破片と思われてきた出土品が、研究の結果硯であると解明された。
文字を持たないとされてきた弥生時代が、砥石をつかって、松のススを潰し、墨にしていた、その傷が残ってている。
木の板などに書いた文字を削り落とす「削刀」も発見された。
文字の存在を裏付ける発見は、当時九州北部に高度な文明国家があった証だと考えられている。
実は近年九州北部では、硯の発見が相次いでいる。
複数の遺跡で出土した土器の破片の解析が進み、硯であることが解明された。
中でも、福岡県の薬師ノ上遺跡では、硯に墨が付着した状態で発見された。
九州北部で出土した硯の数は、いまだに発見に至らない畿内に対し、40個以上、現在調査過程のものが多く、今後さらに増える可能性が多いと言う。
さらに福岡市の雀居遺跡では、邪馬台国と同じ時代の案という机が発見されていた。
その規格性は高く、天板には脚の差込口が設けられ、押さえ板で補強、木材は加工しやすく強度の強いスギの木を使用している。
この遺跡から案(机)の可能性が高い出土品が600以上あることがわかった。
弥生時代、日常的に机で文字を書いていた可能性が高い。

そしてもう一つ、邪馬台国九州説を唱える大きな理由がある。
吉野ヶ里遺跡の北40キロに位置する福岡県糸島市、ここは魏志倭人伝に記された伊都国とされる町。
一大率(そつ)という重要な役所が置かれたと言う場所。
ここに王墓が存在する。
平原古墳こそが卑弥呼の墓ではないかと考えられている。
平原古墳は1965年に発見され、出土品の状況から、卑弥呼が生きた3世紀のものだとわかった。
周辺からは祭祀を行うための遺構や竪穴式譲許跡など、貴重な痕跡が確認され、高貴な人物の墓だと推測された。
平原王墓からは、女性の貴重な装飾品が数多く発見されている。
透き通るようなメノウで作られた管玉は、当時日本で生産されておらず、中国から高貴な女性に贈られたものだと考えられている。
独特な形をしたガラス勾玉は、その形の美しさが、発見当初考古学者を驚かせた。
中でも卑弥呼の墓と考えるに至った装飾品は、ガラス耳璫(じとう)と呼ばれるピアス、卑弥呼が生きた3世紀のものとしては、日本で唯一の出土品で中国から贈られたとされるもの。
中国では高貴な人物しか付けておらず、卑弥呼のものに違いない、とされている。
さらに大量の銅鏡が出土、中には国内最大の銅鏡で直径46.5センチの内行花文鏡もある。
魏志倭人伝では、魏の皇帝が卑弥呼に100枚の銅鏡を授けたとされる。
平原王墓で発見された銅鏡の数は40枚。
銅鏡の大量の出土は平原王墓が、まさに卑弥呼の墓であることを示している。
銅鏡は全て割られ、ひつぎを囲むように5カ所に分け副葬されていた。
強大な呪力・霊力を持った人なため、蘇りを恐れて、このようにしたとされる。
この王墓に埋葬されているのは、特別な呪力を持ったシャーマンだと考えられる。
卑弥呼の墓とされるゆえんだ。
卑弥呼の存在を浮かび上がらせる平原王墓、吉野ヶ里遺跡で次々と発見される物証、邪馬台国はやはり九州にあったのだろうか。

▼平原王墓
たこたこ、上がれ!さんによる写真ACからの写真


諸説3 中国の学者たちが断言・邪馬台国はここにあった

1人目の学者に会いに中国の中央部に位置する河南省・洛陽。
女王・卑弥呼の使者がたどり着いた場所である。
中国史上最も多くの皇帝が首都に定めていた場所。
郊外には、その政治の舞台になった城があり、当時の城壁が大切に保存されている。
「汝を持って親魏倭王と為す」1700年以上前、卑弥呼に対し、称号と印が授けられたのだ。

洛陽でも骨董市が盛んに開かれている。
中国でも発掘ブームが起こった。
数年前、この骨董市で邪馬台国に関わる出土品が発見され、日本で大きく報道された。
三角縁神獣鏡・魏から卑弥呼に贈られたとされる銅鏡である。
日本国内では、畿内を中心に500以上発見され、畿内説を裏付ける物証の一つだ。
だが中国では一つも見つかっていないことから、その製作地については論争があり、日本国内で作られたと推定されてきた。
ところが2009年洛陽で王チンイという古代史研究家が、中国で初めて三角縁神獣鏡を見つけたという。

王チンイは、洛陽から東に150キロの鄭州という街に住んでいる。
王チンイさんを訪ねた。
王さんの持つ三角縁神獣鏡には、龍や虎など神獣が描かれている。
王さんによれば、洛陽・白馬寺付近で農民が発見し、その後骨董市に流れ、王さんが譲り受けることになったという。
王さんの見解では、鏡の出土が集中する畿内に、邪馬台国があったのではと。

2人目に会いに中国沿岸部の大都市・上海
古代文字研究における中国唯一の研究機関。
そのトップを務める人物・ザン・コクワ教授。
古代中国に見識の深い、文字のプロフェッショナル。
漢字学の最高権威として、その名を知られる人物だ。
ザンさんに魏志倭人伝を解析し、邪馬台国の場所を特定してもらった。

漢字学の視点で読み解けば、邪馬台国の場所は九州北部である。
その視点は音である。
古代中国では、使者が他国から持ち帰った地名や人名などの漢字に意味はない。
「ヤマタイコク」「ヒミコ」、重要なのは音。
つまり古代文字がどう発音されていたかということだ。
例えば魏志倭人伝には、邪馬台国までの道中に存在した国の名前が記されている。
音で読みとけば、末盧国(まつろこく)は長崎県の松浦であり、伊都国は福岡の糸島市のこと。
音が場所を特定する重要な手がかりとなる。
これは邪馬台国にも当てはまり、ヤマという音に着目すれば、九州北部一帯を指すと、ザン教授は言う。
当時、山の多い九州北部は、その地形から「ヤマ」と呼ばれており、中国の使者がそれを聞いて、近い音の漢字をあてたという。
ザン教授は、同じく漢字学を研究する大阪教育大学の張莉准教授の見解に注目する。
ヤマという地名は、縄文時代からあった古い地名で九州北部の広い範囲を示す呼び名だったというのだ。
魏志倭人伝の後に書かれた「後漢書」の倭伝でも、「山島におりて居をなす」と書かれ、山が多い地域と認識されてきた。
また、そもそも魏志倭人伝に書かれている国の数々は、いずれも九州北部にある。
ここから遠く離れた畿内に邪馬台国があるのは不自然であると、ザン教授は言う。

3人目は中国南部広州にいた。
中国正史に精通し、魏晋南北朝史学会副会長を務める歴史学の権威、陳長崎教授。
教授によれば、魏志倭人伝には、歴史書として大きな欠陥があると言う。
魏志倭人伝は魏の時代について書かれた文章そのものではない、いくつかの時代の史料が融合した可能性が高い。
そもそも魏志とは魏・呉・蜀の三国時代から西晋の時代になって書かれたもの。
つまり後の世の歴史家が魏についてまとめたものとされている。
しかし陳教授の分析では、三国時代よりも古い漢の時代に関する記述が混在し、文献としての信憑性が疑わしいと言うのだ。
「1つの完成した史料とは言えず、部分部分で内容が矛盾している。1人の人物が書いたものではない」
実は長年の論争の原因となっているのは、魏志倭人伝の整合性の無さだった。
邪馬台国までの道筋が書かれた一文が、最初は千里・百里など距離で表すのだが、あるところを境に日数など時間での表現に変わっている。
このことから、異なる時代に書かれた記事が並んでいると指摘した。
邪馬台国の情報そのものが極めて少ない時代、正確さよりも分かっている情報そのものをかき集めて、盛り込まざるを得なかったのでは、と陳教授は言う。
では、陳教授の信頼できる部分から見て、邪馬台国はどこなのか。
邪馬台国の場所は九州が理に適う。
魏志倭人伝の後半に倭人についての話があるが、「女王国の東の海を千里余り渡るとまた倭人の国がある」とある。
つまり、邪馬台国の東には海があった。
畿内説ではこの条件と一致しない、だから、九州にあった。

最後に、古代日本にも精通する人物・台湾大学・周特望教授
距離の描写に疑わしい点がある。
中国史に記載された距離を信じそのまま日本に当てはめてはならない。
周教授は距離よりも方角を頼りにすべきだと考えた。
「その道里を計るに、カイケイ、トウヤの東にある」
カイケイ、トウヤとは、現在の福建省の長江の出口あたりを指し、その東に邪馬台国があると考えられている。
周教授が見せてくれたのは、明の時代に書かれた中国最古の世界地図。
当時の日本は現在よりも南の位置、中国の真東にあると認識されていた。
実査には海流で北へ流され九州にたどり着く、当時の認識では長江の東は九州だった。
「女王・卑弥呼の居場所や邪馬台国は九州にあったはずです」

他にも根拠となる情報はあり、中国史で信頼できる情報をたどればいいという。
中国は漢代以来、ずっと敵国からの襲撃に苦しんでいたので、邪馬台国など同盟国についてはたとえ小国だとしても国の規模や軍事力、どんあ政治体制なのかを把握しておきたいもの。
さらに重要なのはその国の文化、これらについては正確に記述している。
なかでも注目いしたいのが、人々の暮らしぶりに関する記述。
記述を読むと邪馬台国には良い田がなく、皆海から採ったものを食べている。
もう一つ重要なのは、現地の人は顔に「鯨面」という入れ墨をしていたこと。
この風習は九州南方の民族である隼人あるいは 熊襲とも考えられる。
そして当時の畿内には、そのような風習は存在しなかったと周教授は言う。
さらに魏志倭人伝には邪馬台国の場所につながる重要な国の名が記されているという。
それは伊都国である。
伊都国は、現在の福岡県糸島市。
卑弥呼が眠ると言われる平原王墓があり、当時一大率と呼ばれる役所が置かれ、外交を一手に担ったとされる。
周教授はこの伊都国こそ、邪馬台国解明の大きなカギだと言う。
魏志倭人伝をしっかり読むと、伊都国にあるいくつかの重要な官位の記載がある、「爾支」にきと呼ばれる官位があり、「副官」もいた。
加えて、「一大率」も置いている。
しかも代々「王」がいて邪馬台国に属していた。
これまでの魏志倭人伝の中の一大率の記述は知られていいた。
だが行政機関を担ったと思われる爾支という官職もあった。
そして副官の存在、さらに代々王有り
伊都国は、大きな権力を持った国だと推測されることから、邪馬台国はそんな伊都国のそばにあったと、周教授は考えている。
さらに、魏志倭人伝にはこんな記述がある「牛馬無し」
運搬や移動の手段である牛や馬が邪馬台国にはいない。
交通や連絡網が未発達だったことを考えれば、邪馬台国は伊都国の近くにあったはずだ。

遠く中国で解き明かされる邪馬台国の謎、中国の3人の権威が導いたのは九州だった。
邪馬台国は九州にあったのだろうか。

広州の陳教授には、諸説の続きがあった。
邪馬台国はもともと九州にあり、やがて畿内に移動した。
それと同時に地名も移動している。
陳教授が示した、この東遷説(地名の移動)は地名によって裏付けられる。
九州北部と畿内に同じ地名が見られる。
笠置山、三輪、朝倉、田原など、相当数が一致しており、しかも地名の配置までどことなく似ている。
このような地名の移動は、古代中国にもよくあったと陳教授は指摘する。

邪馬台国は九州にあり、その後、畿内に東遷したと考えると納まりがいいように感じた。


「武蔵府中熊野神社古墳」の記事はこちら(2020年3月21日)
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では、明日。