◆ザ・プロファイラー「ヒッチコック 恐怖に魅せられた映画監督」 | ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

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ヒッチコックがその生涯世に出した作品は53本。
ほとんどが恐怖やサスペンス映画であるが、実は人一倍怖がりだった。

1890年代後半、イギリスで映画が普及し始めていた。
1899年8月13日生まれ。
両親は国内では少数派のカトリック教徒だった。
父親に芝居に連れて行ってもらっていた。
踊るバラ色のライトに照らされたヒロインを悪役が襲うシーンでは、ライトの効果で色が変わり、恐怖が一層掻き立てられた。

さらに子どもの頃に忘れられない体験をした。
ある日夜中に突然目が覚めたが誰もいなかった。
その日はあまりに静かだった。
台所にコールドミート(イギリスではポピュラーな冷肉)があり、それを食べた。

遊び友達がいたという記憶はない。
なまりにもコンプレックスがあった。
勉強が良くできたからプライドも高かった。
中学では体罰も当たり前で、固いゴム製のむちで叩かれた。

思春期のヒッチコックが強烈に犯罪というものにひきつけた。
世間を騒がせていたのは切り裂きジャックという殺人犯。
10代の頃、裁判所で裁判を傍聴していた。
犯罪博物館にも足を運んだ。

21歳に人生の転機が訪れた。
ロンドンに新しい撮影所が出来、ヒッチコックは採用された。
アシスタントディレクター。
代役で始まった脚本の仕事を経て、監督デビューは26歳。
『快楽の園』では、斬新な映像に工夫を凝らした。
試写を見た配給会社の社長から「観客を混乱させ不安にする」とされ、あっさりお蔵入りになってしまった。
続く2作目もお蔵入り。

世に出た作品は、本格的なサスペンス『下宿人』は、切り裂きジャックを下書きにした。
アパートにやってきた新しい下宿人が殺人犯の嫌疑をかけられる。
映画はようやく公開にこぎつけ、空前の大ヒット。
2階にいる男をガラスの上を歩かせて、観客の想像をかきたてた。
イギリス映画史上最高と評され、ヒッチコックは新進気鋭の映画監督となった。

ヒット作を次々に出し、観客からは絶大な人気を得たものの、俳優やスタッフには冷たくあしらった。

5年先輩のアルマと結婚した。
引っ込み思案で、現場で話しかけられても無視していた。
コンプレックスがあったため、監督になってから申し込んだ。

脚本をアルマにチェックしてもらった。
こわい番犬のような存在だった。
ヒッチコックの傑作は、アルマ抜きではありえない。
アルマ自身、プロデューサーとして活躍する夢は諦めて、ヒッチコックのサポートをすることに喜びを感じた。

1929年にイギリス初のトーキー映画(音声が入った映画)『ゆすり』。
襲われた女性が、我が身を守るため相手を刺し殺してしまう物語。
会話の中の「ナイフ」という単語のボリュームを上げて、女性の心理から恐怖感を出すという、見事な演出。

ヒッチコックは娘のパトリシアが生まれた。
家に帰れば優しい父親だった。
一人娘を溺愛した。

1939年ハリウッドからオファーがあり、アメリカに渡った。
『レベッカ』を製作した。
大富豪の家にヒロインが後妻としてやって来た。
屋敷では前妻レベッカの見えない影が全てを支配していた。
『キング・コング』や『風と共に去りぬ』など、傑作映画を世に送り出したハリウッドの敏腕プロデューサー・デイヴィッド・O・セルズニックとタッグを組んで製作された。
レベッカの興業は大成功、華々しいハリウッドデビューとなった。
「アメリカでも自分のサスペンスは通用する」

大戦でヨーロッパは火の海と化していた。
母エマはイギリスで病死。
仕事に追われていて、駆けつける事が出来なかった。
やがてイギリスから祖国を見捨てた男としてバッシングを受けた。

戦争が終わり、映画は大盛況。
大ヒット作『裏窓』
50代になり『めまい』、『北北西に進路を取れ』
作品の筋を頭の中に入れ、絵コンテに沿って撮影した。
完璧主義で、全くアドリブを許さなかった。
脚本家さえ気に入らなければくびにした。
アルマを助手として起用していた。

1958年、アルマがガンで入院した頃は、気も狂わんばかりで仕事を再開できないほどだった。

1955年、テレビ番組『ヒッチコック劇場』
番組を監修したのと同時に進行役を買って出て、番組の最初と最後に顔を出した。
彼の作品はほとんどにカメオ出演(エキストラのように少しだけ顔出し)している。

テレビが家庭に普及し、興行収入が落ち込んだ。
100本から15本にまで落ち込んだ。
低予算でも質の高い映画を作らなければならない。
スタッフはテレビ界から呼ばれた。

1960年の白黒映画『サイコ』では、観客にも悲鳴をあげさせることで、映画と観客が一体となった映画を作り出した。
映画の中で、トイレのアップが出てくるシーンが倫理規定に反すると言われたが、演出上必要だった。

予告編は自ら撮影現場を案内した。
映画館では誰であっても途中入場を認めないとしたのが話題を生んだ。
最大のヒット作となった。
制作費 80万ドル(約3億円)、興行収入 3600万ドル(約130億円)
映画界に新たな希望をもたらした。

さらに新しい恐怖に挑戦した。
『鳥』撮影では本物の鳥にこだわった
女優がケガをするまで撮り続け、結果は大ヒット。
映画を見た人からは鳥がトラウマになった。

アカデミー賞には5回とも落選していた。
「サスペンス映画は低級」という風潮があった
ヒッチコックは負けずに次々と新作を作った
1960年テレビに押された映画界は規制をゆるめ、どぎつい描写や残酷な表現があふれた。
観客の想像力を刺激するスタイルは物足りなく感じられた。
過去の栄光の繰り返し、時代遅れとメディアに言われるほど苦境に陥った。

救いの手はヨーロッパから起こった。
フランスなどニューベルバーグの旗手たちが熱烈に支持した。
映画監督のフランソワ・トリュフォーはロングインタビューの後に『ヒッチコック映画術 定本』を出版。
まさに映画の教科書となった。
この影響もあって、各地で往年の名作が上映された。
本人は新作が紹介されないので、あまりいい気持ではなかった。
「今こそ手掛けている新作を見にきてもらいたい、引退こそが一番恐ろしいことだ」
70歳を超えても新作映画に挑戦した。
心臓が弱ってペースメーカーを付けて映画を撮り続けた。

友人への返事など書かなかったため、長年の友人たちは去っていった。
最後まで寄り添ったのは妻アルマだった
79歳、AFI(アメリカン・フィルム・インスティチュート)功労賞のスピーチで妻に感謝の言葉を述べた。
1年後、アルマに見届けられがら80年の生涯に幕を閉じた。

求め続けてきたのはヒット作、ヒット作を出して世間を驚かせることを追求し続けた。


スリラー・サスペンス映画の神様が、実は人一倍怖がりだった。
イギリス出身だったことすら知らなかった。
何作かは見ているが、まだ見ていない作品を冬休みにでも見たくなった。


映画『ヒッチコック』の鑑賞記事はこちら(2013年4月23日)
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
http://ameblo.jp/miyacar/entry-12258589920.html

では、明日。