◆アナザーストーリー「モスクワ五輪ボイコット」 | ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

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いつしか食べ歩きがライフワークになってしまった今日この頃。
美味しかった店はもちろん、雰囲気の良かった店を紹介していきます。
2023年12月に外食記事 4000号を達成しました。
ちょこちょこ地域別索引も更新中。
現在、「いいね」返しが出来ません。

NHK-BSの番組メモ。

masa2さんによる写真ACからの写真)

1980年モスクワオリンピック。
日本は数々のメダル候補を抱えながら、誰一人その場に立つことができなかった。
体操・具志堅幸司
水泳・長崎宏子
柔道・山下泰裕
マラソン・瀬古利彦
女子バレーボール
レスリング・高田裕司

大会をボイコットしたからだ。
運命の5月24日、何が決められていたのか。

ソビエトが起こした軍事行動、隣国アフガニスタンに侵攻したため、世界各国は怒りを表した。
1980年4月21日、日本のコーチと選手ら91人の緊急集会が岸記念体育会館で開かれた。
選手たちは団結して、出場を直訴したものの、その思いは踏みにじられることになった。
トップアスリートたちの人生を大いに狂わせた。

NHK吉澤章喜記者は、ある重要な情報を手にしていたが、記事にできなかった。
その頃、吉澤はトップアスリートにインタビューし、意気込みを聞いて回っていた。
自転車・長義和は五輪でのメダル有力候補。
プロの競輪選手になれる年齢資格を迎えたが、モスクワ五輪を夢見たためプロ入りしなかった。

1979年12年、開催国ソビエトがアフガニスタンに侵攻して、アミーン大統領を殺害した。
カーター大統領の呼びかけに、西側諸国は同調の動き。(最終的には、西側諸国や中国を含め60カ国が不参加だった)

日本オリンピック委員会の判断が待たれた。
吉澤はことの重さを感じたのはある人に会った時。
河野謙三・日本体育協会の会長だった。
参議院議長まで務めた参議院自民党の重鎮。
この男が五輪ボイコットのキーマンとなった。

4月12日アメリカオリンピック委員会はボイコットを決定した。

4月21日競技の垣根を超えて、アスリート91人が岸記念体育会館に集まった。
態度を決めないJOCに対して直訴が始まった。
選手からは、行きたい行きたい。
絆創膏を顔に貼りながら涙の訴えをした高田が印象的で、世論は参加容認の流れに傾いた。

26日 原則として、モスクワ五輪に参加することを確認した。
まだ会長の河野は動きを全く示さなかった。
5月15日西ドイツが不参加を表明。
エントリー締め切り前日、河野が動いた。
この日、河野は幹部を集め、翌日JOC総会を広き、そこで決定することにした。
その前の日本体育協会臨時会議で、伊東正義官房長官を呼ぶことにした。
それで流れはボイコットに傾くなと感じ、吉澤は書くなよと言われ、記事にしなかった。

5月24日のこの会議で何があったのか。
JOC・自転車の岡本雄作は出席していなかったが、会議の内容を後から聞いていた。
資金面での援助ができなくなると圧力がかかったと聞いた。

この会議の模様は25年を経て、明らかになった。

大西鉄之祐は「政府が干渉した」
河野は「干渉ではない、私が呼んだんだ」
委員長の柴田勝治が「今からナショナルエントリーは無理だ。これに賛成の方、手を挙げてくれ」
31対13で不参加が決まった。
こうして多くのアスリートが涙した。


陸上イギリス代表セバスチャン・コーからの証言。
イギリスら多くの西側諸国は選手を送り込んだ。
1500メートル金メダリスト・コーは大会前から、政府の圧力にあらがった大会のシンボルだった。
当時、マーガレット・サッチャー首相は不参加を訴えていた。
コーは泣き寝入りなどしなかった。
「自粛を促されたのはスポーツだけでした。文化交流も石油の取引も行われていたんです」
「ボイコットは間違った政策だ。スポーツを通して平和を訴えるというオリンピックの理念に反する」と、仲間とともにボイコット反対を表明。
様々なイギリス政府からの圧力があった。
「イギリスの勝利のために、僕を助けて」イギリスの選手たちは意見広告を出し、資金を集めた。
開会式の時にはイギリス国旗でなく、オリンピックの旗を使い、政府の顔を立てた。

イギリス代表のコーは、800メートルでまさかの敗北を味わった。
プレッシャーもあったのだろう。
1500メートル決勝でコーは奮起して金メダル。
コーは2012年オリンピック承知委員会での責任者を務めた。
「ボイコットという消極的な決断では何も変わらない」


アスリートたちの運命を一転させた。
幻の日本代表・高田裕司はボイコットのニュースを聞いて、引退の道を選んだ。
ロス五輪では奇跡のカムバックをした。
現在は山梨学院大学レスリング部監督。
モントリオール五輪では高田の強さは圧倒的だった。
表彰的では次の五輪のことを考えていた。
モスクワ五輪でも金メダルの大本命だった。

高田裕司は涙の訴えをした。「これで出られなかったら、何のためにやってきたか」
当時、なんで自分の人生がこんな人生なのかと自分を呪ったほどだった。
引退したことで、身を置いていた大学からも出なければならなくなった。
翌年、館林高校定時制の監督になった。
熱血指導で部員はみるみる強くなった。

1983年11月、日本代表の臨時コーチとして遠征に同行し、体力は落ちたものの技術は落ちていなかったことがわかった。
そしてカムバックを発表した。
教え子たちは「えっ、という気持ちが半分、そうこなくちゃという気持ちが半分」
ロス五輪に出場した高田裕司は1回戦、2回戦はフォール勝ち。
3回戦ではポイントを失い、銅メダルに終わった。
今は大学の監督をして、JOCの理事も務めている。
「同じようなことがもし起これば、選手たちを守れる。その立場にいられる自分が幸せです。2020年に自分の教え子がメダルを取ってくれたら、最高のエンディングですよね」


山下泰裕は、モスクワの試合会場に出向いていたという。
「入った瞬間から変わったんです。ライバルの選手たちが、僕を見つけて声をかけてきたんです。そして、スッキリしたような気持ちで、モスクワオリンピック全てが終わったんだ。次に切り替えることが出来ました」

8日間の競技が終わってホテルに戻ってから、一回畳の上に立っておけばよかった、と後悔していたようだ。
次の大会・ロス五輪で山下は、足の怪我を乗り越え金メダルを獲得した。
あの時表彰式で流した涙は日本代表全員の思いだったのかもしれない。

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やはり、アメリカの同盟国としては、あの選択肢しかなかったのか。
イギリス方式ではダメだったのか。
本命選手が必ずしも金メダリストになれるとは限らないが、選手たちにはモスクワの地に立って欲しかった。

紹介されなかったが、女子バレーボールも小島孝治監督のもと、横山樹理選手がエース兼キャプテンで、連覇の期待がかかっていた。
男子ハンドボールでも、「ガモ」の愛称で世界からも注目された蒲生晴明選手の全盛期だったと言われている。

今でこそNHKと民放が合同で放送権料を負担して五輪中継をしているが、モスクワ五輪に関しては1977年3月NET(現在のテレビ朝日)が独占放送権を約20億円で獲得して、放送界に波紋を呼んだものだった。
五輪前から「モスクワニュース」などを放送して五輪を盛り上げていた。
選手たちとともに、テレビ朝日関係者の落胆も想像以上だったに違いない。
子どもだった僕も、モスクワ五輪の放送自体、日本が出ないからと言う理由で、開会式をちょこっと見たぐらいだった。


にんにく嘉六・あの五輪メダリストの行きつけ店の記事はこちら(2018年10月19日)
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http://ameblo.jp/miyacar/entry-12412441403.html

では、明日。