◆ザ・歴史列伝 そして傑作が生まれた 「元・巨人軍投手・沢村栄治」 | ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

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ザ・歴史列伝 そして傑作が生まれた
元・巨人軍投手・沢村栄治

昭和9年に開催された日米大野球戦
世界のホームラン王・ベーブルースから三振を奪いとった
この時、わずか17歳だった。
のちに不滅の名投手と言われた。
日本プロ野球誕生の原動力となった。

推定時速160キロ、防御率は驚異的な0.81
日本プロ野球でノーヒットノーランを3回成し遂げた伝説のピッチャー

生涯はわずか27年、短い間には悲劇的な人生があった。

戦争の影に、歯車が狂い始めて行く。
送り込まれたのは、激戦地・武漢
ここで投げさせられた手榴弾
ここでの投球が沢村の肉体を壊して行った。
奇跡の生還を果たした沢村が身も心もボロボロになって成し遂げられた執念のノーヒントノーラン。

スポーツ評論家・二宮清純さんによると、豪快なフォームは体のバランスが良かった証拠。
変化球は懸河のドロップと言われた。
「巨人の星」の主人公・星飛雄馬の投球フォームは沢村がモデルだった。

「沢村が投げて景浦が打ったことで、日本プロ野球が成立した」と言われている。

当時は盛んだったのは六大学野球で、プロは「職業野球」とやや差別的に呼ばれていた。
1903年早慶戦が始まり、野球は相撲と並ぶ人気スポーツとなった。

栄治は大正6年三重県に生まれた。
実家は八百屋で、家は貧しかった。
沢村が京都商業の野球部に入部したが、創設まもない弱小チーム
1日700球の猛練習で豪速球を作り出していき、京都商業は初の甲子園出場を果たした。

昭和9年 甲子園大会、堺との試合で完封試合を成し遂げた。
その豪速球に観客は興奮。
新聞もこぞって沢村を取り上げ、怪腕と称された。
沢村の名は全国に知れ渡った。

読売新聞社の正力松太郎には、職業野球を結成する計画があった。
全日本代表チームを結成しメジャーリーガーと対戦する興行を打った。
目玉となるスター選手が必要だ。
17歳の沢村に白羽の矢が立った。
条件があった。
それは、学校の中退。
当時は弟のために兄が大学に出て就職するのが通例だった。
この先どうなるかわからないプロ野球。

日米大会のメンバーには沢村の名があった。
沢村は、未知の進路に舵を切った。

昭和9年11月、銀座はメジャーリーガーの歓迎パレードで沸き返っていた。
ベーブルース
ルーゲーリック
ジミーフォックス
地上最強軍ともいえるメンバー。

野球界の双方たる面々
最年少メンバーとして、沢村が選ばれた。

4試合を終え、メジャーリーガーは力の差を見せつけた。
第5戦に沢村栄治が登板し、日本の期待を背負った。
しかし、沢村は打たれた。
0対10の惨敗、初めて味わう屈辱だった。

その後もメジャーリーガーの猛打が続き、全日本は8連敗
ベーブルースは「1試合50点取れるよ」と豪語した。

10戦・草薙球場・沢村の2度目の登板。
伝説の試合が始まった。
1回裏、先頭2人を打ち取って、全米チームの顔色が変わった。
続くベーブルースを空振り三振。
2万人の大歓声が湧いた。
試合は1点を取られ惜敗したものの、日本が沢村の好投に拍手した。
試合後、ベーブルースも沢村を絶賛。
「沢村は我々の欠点をよく見抜いて研究している。必ず大投手になるだろう」
日本のプロ野球が第一歩を踏み出した瞬間だった。

山口千万石という子供の頃から沢村の球を受けていた捕手がいる。
二宮清純は彼の手を見せてもらった。
手はボロボロだった。

当時の草薙球場は西の方角にあり
「太陽の光が目に入って、ボールがよく見えなかった」という説もある。
球場にいた人の話では、そんなことなかったとも言っている。
好投したのは事実。
沢村の力量をメジャーリーガーたちも認めた。

苅田久徳さんによると、当時の平均球速は120キロ
沢村は140~150キロだったようである。
120キロを体感していた打者にとっては、相当な速さに感じたはず。

昭和9年12月、日本初のプロ野球チームが誕生する。
現在の読売巨人軍。
しかし最初は1チームだけだったため、対戦相手を求めてアメリカ遠征を行なった。
アメリカのマイナーリーグと、128日間で109試合行なっていた。
成績は75勝33敗1引き分け。と中でも沢村は21勝8敗
見事な成績であった。

巨人軍第1期生となったシーズンが開幕
7チームによるリーグ戦だった。
猛打を誇るタイガース打線に対してノーヒットノーラン試合
13勝2敗でジャイアンツを優勝に導いた。
翌年には最高殊勲選手
現在のMVPに輝き、日本一の投手としての名声を得る。

華々しいプロ野球生活は長くは続かなかった。
日中戦争が勃発し翌年、20歳の沢村に赤紙が届いた。
日中戦争への招集令状だった。
過酷な軍隊生活が始まる。
そして野球選手として致命的なダメージの残る出来事が沢村を襲う。
上官が沢村に手渡したのは、手榴弾。
重さは野球のボールの3倍以上の500グラム。
これを投げ続けたら肩がダメになる。
しかし、そんなことを言える状態ではなかった。
やがて新聞に手榴弾を60m投げる鉄腕と紹介された。
皮肉にも、球界のスターの戦地での活躍が国にとって格好の宣伝材料となる。
「あの沢村でも行ってるんだ」という戦意高揚の意味もある。

4月3日 武漢攻略の大激戦
およそ10キロの機関銃が肩に食い込む。
野球のことを考える余裕などなかった。
生きて帰る、ただそれだけ。
前線に送られた。
銃弾が飛び交うその時、沢村が呻き声を上げた。
敵の弾丸が左手を突き抜けていた。
気づけば、部隊の3分の2が死んでいた。
大別山の戦いで身体はボロボロになった。
昭和15年、奇跡の生還を果たし、巨人軍に復帰
戦地で真っ黒に日焼けした沢村に笑みがこぼれた。

6月3日 復帰登板
エースの復活を大歓声が迎えた。
第1球はストライク
しかし、観客は静まり返った。
沢村の豪速球は鳴りを潜めていた。
誰もが沢村の衰えを知った瞬間だった。
2年3ヶ月の軍隊生活は、沢村から野球という一番の武器を奪ってしまった。
戦争の行軍で歩かされて、腰が回らなくなっていた。
新聞には、速球なき沢村への厳しい評価が並ぶ。
もう昔の自分には戻れない。
それでも野球をやりたい。
沢村に残された道は、1つしかなかった。
豪速球を捨てることだった。
フォームはサイドスロー。
今まで投げたことのないカーブを覚え、技巧派投手へ転向を図る。
昭和15年7月、3度目のノーヒットノーランを達成。
満身創痍の中で達成した記録だった。
沢村の苦労を知るファンからの鳴り止まない拍手と歓声で偉業をたたえた。
野球の魅力を観客に見せてくれた。

昭和16年・太平洋戦争突入
翌年10月、沢村のもとに2度目の召集令状が届く。
送られたのはフィリピン・ルソン島。
多くの犠牲者が出たマニラ攻略戦。
再び訪れた軍隊生活は、想像を絶する長く苦しいものだった。
「もう日本には帰れないかもしれない」
不安の中で、1人の戦友との約束を思い出した。
1度目の出兵の際、偶然再会したタイガースの捕手・小川年安。
思わぬ再会で、野球の話に花が咲いた。
「沢村さん、日本に戻ったらまた野球をやりましょう」と笑った小川だったが、再び日本に戻ることはなかった。
「生きて帰って野球をやる」
それだけが沢村の支えだった。

そして1年3ヶ月後、再び生きて帰国を果たした。
昭和18年に再度の球界復帰、しかし投げる度全身に激痛が走る
すでにその肉体からは投手としての全てが失われていた。
沢村はサイドスローからアンダースローへ再びフォームを変えた。
「何としても復活したい」しかし結果は残酷だった。
この年のリーグ成績 0勝3敗、防御率10.64
最後は打者で残ろうとした。
シーズンの最後の出場は代打でのものだった。
球団は沢村に戦力外通告を言い渡す。

そして3度目の召集令状が届く。
昭和19年12月、沢村を乗せ戦地へ向かう船は台湾沖で撃沈。
27年の生涯に幕を閉じた。
戦争に行かなかったら、巨人の監督にでもなっていて、歴史が変わっていただろう。

終戦後の昭和21年、プロ野球が再開された。
昭和22年黎明期のプロ野球に多大な貢献を果たした沢村に敬意を評し、沢村栄治賞が設立された。
その年の最高の投手1人だけに贈られる特別な賞だ。
第1回沢村賞・別所毅彦を始め、日本を代表する名ピッチャーたちに贈られて来た。
1981年に受賞した西本聖さん(元巨人)は、賞の設立の意義を語った。
「野球に対する想いは、人の何倍以上も持たれていた。
戦争で国のために戦いながら、野球の中で投球フォームを3つ変えるという生き様にも尊敬」
野球に一生を捧げた天才投手・沢村栄治の熱い想いは、この賞とともに野球を愛する人の中に受け継がれていく。

3度目の出兵の際の妻への手紙には、こう書かれていた。
「生きて帰れたら、いい父親になる」
第2の人生を歩もうとした矢先に最後に込み上げて来たのは、生後間もない娘への想いだった。

(BS-TBSでの番組のメモ)

では、明日。