母の命盤 | 紫微斗数(星曜派 四化飛星 欽天四化) 宮立命/宮巫女 Miya_ritumei/Miya_miko

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母の命盤

 

 

父とお爺さんのことはすでに書きました。

今回は母のことです。

 

父の性格や行動から離婚率は高い筈ですが、父の命盤には欽天でいう離婚率はそれほどでも無いです。そのためか死ぬまで離婚は有りませんでした。でも壮絶と云えばよいのでしょうね、私が中学生の頃に、私はしきりに母に離婚を薦めていました。

「お母ちゃん、こんなオヤジとさっさと別れて、俺と二人で何処か別の所に引っ越そうや」

母は、黙っていました。

 

当時の時代では離婚しても女性が独り立ちしていくのは大変でしたし、何人も子供を授かっているし、田舎だし、簡単に離婚という訳には行かなかったと思います。

 

母は「貪狼」の女性で命宮に「生年化忌星」です。器量も今風の容姿では有りませんでしたが、そこそこ桃花傾向は有ったと感じます。

 

兄弟宮に「自化忌と必定」が有ります。母は9人兄弟姉妹の長女で生まれました。

しかし、最初に亡くなった妹は母が5歳ぐらいの頃、母が背負って子守をしていたら気付かない内に背中でぐったりしていて、おばあさんが慌てて病院へ連れて行ったけど、もう虫の息で、そのまま亡くなったそうです。母も妹の死因については解らなかったと言っていました。もしかしたら熱中症だったのかも知れません。

 

残った8人の兄弟姉妹は成長して、兵隊に行って戦死したり、北海道に出稼ぎに行っていて病死したりと様々な事で次々に亡くなり、母が60歳ぐらいの頃には、一番下の末っ子と長女の母だけの二人だけが生き残っていました。

 

その末っ子の弟も30歳代に肺結核に罹り手術をして九死に一生を得たのです。しかし闘病生活は長く、結婚していたので奥さんには苦労をかけたようです。弟は退院後も病弱で肉体労働は無理でお爺さんの家業を継いで経師屋さんになりました。しかし、50歳代の時に病気(誤嚥性の急性肺炎?)で急死してしまいました。私が30歳代の時でした。亡くなる前の日に私の家に立ち寄りお茶を飲んで、いつものように1時間以上も談笑して元気に帰って行ったのです。

翌朝、従兄弟からの悲報を聞いた時は、とても信じられませんでした。

 

母は9人兄弟姉妹の長女で生まれましたが、70歳代後半で一人ぼっちになりました。8人の兄弟姉妹は全員短命でしたが、何故か母は80歳近くまで元気で、お産以外には寝込んだことは無かったと自慢していました。

80歳代になって高血圧が原因の脳卒中で倒れ、3ヶ月の入院後に左半身不随になりました。その後は父も亡くなり、母は私の所に引き取られ同居した後に、今度は私が離婚したので母と二人でアパート暮らしになって、さらに部屋で尻もちを付いたのが原因で骨折し、歩けなくなり老人保健施設を何箇所も点々と引っ越した挙句に、やっと特別養護老人ホーム(特養)に入れました。

 

老人保健施設では最長3ヶ月しか入所して居られないので、何回も引っ越しをしました。特養に入居が決まった時には、母は大変喜びました。その理由は、衣食住の心配がないからです。私と同居では、私が仕事に出掛けている間は、朝から夕方まで半身不随の身体で、食べることも、トイレも、思うように成らないからです。本当に試練の年月でした。当時は介護制度も無くて、ディサービスも訪問ヘルパーも無い時代でしたから。

 

 

母は父と同じように離婚歴が有ります。

父と再婚後も家庭には恵まれず、兄弟宮、父母宮で判るように、実の母親も短命でしたし、父の姑には徹底的に苛め抜かれたと言っていました。父の先妻も苛め抜かれ、胃潰瘍で早くに亡くなったそうです。

姑のイジメは棒で殴ったり蹴飛ばしたりと、今で有れば警察沙汰です。母の実家は小さな商売をしていた家ですから、母に農業の経験は有りませんでしたから、嫁いで来ても農具を旨く使えなかったのです。それに姑は腹を立てては日常的に殴る蹴るの暴行をしたと言っていました。

 

さらには食事もお爺さん、父、母、子供が5人の大家族ですから、十分に食べる量は無く、母の食べる分は無かったと口癖のように私は聴かされて育ちました。そんな話を私は日常的聴かされて育ったので、父の姑の写真が鴨居に掛けられていても、観るのが大嫌いでした。実際に恐ろしい人相の白黒写真が鴨居に有りました。性格や人生は人相に現れるのですね。父も姑にそっくりの人相をしていました。そして父も母を殴っていました。

 

 

母は普段から食べるものに不自由していましたから、それがトラウマになっていたのでしょう。私と父と母の三人暮らしになっても、母は食べ物に異常なほど執着し、食べ物は大切に少しずつ何日も掛けて食べ続け、しまいには腐ったり、カビたりしても決して捨てはせずに全て食べきっていました。

 

腐って悪臭を放っている食べ物を、私は母に見付からないように家の側の畑に、こっそりと埋めてしまうのですが、母は食べ残しの物が、食べていないのに減ってしまった事に敏感に気付き、私に問いただし迫ってきます。

「孝宏! 何処へ捨てた?」

「そんなの知らんよ」

「嘘つけ! お母ちゃんが勿体無いから大事にしていれば捨ててしまって・・・」

 

そう言って母は畑に探しに行きます。もう何回も私が、そうやって捨てているので、畑に行けば捨ててあるということを知っているのです。

そして、畑から掘り起こして、家に持ち帰るものだから、私はびっくり仰天です。

しかし、感心します。そんな腐ったものでも絶対に下痢も食中毒もしないのです。

例えは悪いけど、猫や犬、あるいは野の獣のような消化器官の持ち主と思います。もっとも最近の猫や犬は、そんな物を食べさせれば死んでしまいます。

 

 

母の9人兄弟姉妹が全員短命でも、母は93歳まで生き抜く強い生命力の持ち主でした。使い切らなかった9人の弟や妹の寿命を母は全て戴いたのでしょう。だから、姑や父に拷問のような虐待をされ続けても長生きが出来たのでしょう。そんな人生であっても母は穏やかで優しい人でした。私も今、見習っています。

 

その「勿体無いの精神」は、今私が引き継いでいます。いくらお金が入っても食費は12万円に押さえています。これは我慢では有りません。必要としないのです。奈落に落ちた50歳代は月に8千円の食費でしのいでいました。断食なんてしなくても、日々断食生活でした。

そこまで奈落を体験すれば、今は何が無くても幸せに満たされている日々です。

 

 

私が物心付いた頃には、父は日常的に卓袱台をひっくり返し、茶碗を投げては暴れていました。

そんな父は財布を握っていましたから、母に家計費は一切渡していませんでした。

毎日の食事の材料は基本的に家の前の畑に有る野菜が中心です。

 

肉や魚は盆暮れ正月以外には食卓に載りません。唯一、鶏を飼っていましたので、新鮮な玉子は毎日食べることが出来ました。鶏は何羽も飼っていましたが、鶏を殺傷して食べることは有り得ませんでした。

鶏の肉が食べられる時は、鶏が病死した時だけです。ところが、病死した鶏は物凄い悪臭がするのです。死臭なのかも知れません。幼子の私は鶏の肉は物凄い悪臭がするものと思うようになって居ましたから、大人になっても絶対に鶏肉は食べることが出来ず、大嫌いでした。

 

私は20歳になった時に結婚をしました。嫁さんの実家では鶏肉以外は家族全員が食べない家でしたので、実家に行くと必ず鶏肉が出ます。私にとっては地獄でした。嫁さんの家族は豚肉や牛肉は大嫌いでした、まあ、夫婦仲は最初から悪く、親の因果は子に引き継がれるものですね。なぜ、こんなで結婚したのかは、後々記事にします。

 

 

さて、母は一切の家計費も小遣いも夫から貰えなかったので、女性としての最低限の衣類も買うことが出来なかったのです。そこで見兼ねたお爺さんが息子の居ない留守に、こっそりと母に小遣いをあげていたのです。お爺さんは軍人年金が有るのでお金には不自由していませんでした。

ただ、お爺さんがあげた小遣いで母が何か買って、その品物が父の目に留まれば、お金の出処を追求されタダでは済みません。また殴る蹴るの暴力です。そのため母は何かを買っても、いつも父に見付からない場所に隠していました。衣類などは何処かに出掛ける時には、小物入れに忍ばせ、普段着で出かけて、部落を出た山の中で着替えて行ったと言っていました。また帰って来る時も山の中で薄汚れた普段着に着替えるという面倒なことを日常的にやっていました。

 

しかし、それでも困った事も時々有ったそうです。よそ行きに着替えた後に部落の人とすれ違ったりすると、その人が父に「奥さんは、今日は何処かにお出かけだねえ、お洒落してすれ違ったよ」なんてバレてしまった事も有ったそうです。

ですから、それ以来は部落から遠く離れた山の中や河原の大きな岩の陰で着替えたそうです。

 

 

私が中学生や高校生になると、どうしても肉や魚を食べたがるので、母はお爺さんから貰った小遣いで近くの行きつけのお店でハムなどを買って来ますが、それを父に見付からないように食べなければ成りませんから、母はハムを茶碗の底に置き、その上にご飯を被せてハムが見えないようにして食べさせてくれました。

しかしそれでも母は細心の注意を私に躾けました。

ご飯の中からハムを掘り出して食べる時も、「父にハムが絶対に見えないように」と、更には「ハムばかりでご飯を食べないで、卓袱台のおかずに箸を出しなさい」

 

そうしないと不自然だから、漬物なども食べながら自然に振る舞うこと。と強く言い聞かされました。そんな食べ方をするので、私は食事が窮屈と緊張で、もの凄く疲れました。でもハムは大変に美味しかったです。今に成れば母に感謝です。

 

また、母はハムを買う事が、お店の人から父にバレないように買い物の事は内緒にして貰っていました。

 

 

こんな状態ですから、私が高等学校に行くようになって学費を持っていく時にも、父からは毎月文句を言われていました。その時、私は毎回も叫びたかったです。

 

「子供に学費を出すのが、そんなに嫌なら、俺を何故産んだのだ! 馬鹿やろー!」

 

 

続く

 

 

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