****今更ですが(汗)2/22の日記「古墳天国」より続く*****

さきたま古墳群から北東におよそ2kmほどの住宅地の一角に、この遺跡はある。
偶然ネットでその存在を知り、飛鳥の「石舞台古墳」を思わせるような石室の写真を見て「埼玉にもこんな古墳があったのか!」とびっくりして足を伸ばしてみた。

<参考>石舞台古墳(蘇我馬子の墓?)

さきたま資料館の方に場所を聞くも、とてもわかりにくい場所に有り小さな看板を見落とすと永遠にたどり着けないことうけあい!
車でぐるぐると走り回りようやく住宅地の真ん中にこじんまりとある遺跡公園を発見。
一応管理事務所はあるんだけどお昼時だったためか誰もいず、超ラッキーなことにナ、ナント!

せ・せ・石室の扉が開いてるぅ~!!!♪


入っていいの?
入っちゃうよ??

おそるおそる、足を踏み入れてみた。


うわ!
ボキャブラリーが貧困で申し訳ないけれど、石材の重厚感や醸し出す迫力にぴったりの言葉がみつかりません(汗)
しかも古墳って一応埋葬施設でもあるわけですから、厳粛な気持ちにさせられるし、当然ですが埋葬されている人はもちろん、コレを作った当時の人々に対しても敬意を払わねばならないと思うのです。
10月に行った「房総・風土記の丘」岩屋古墳の石室に比べると随分と大きく、玄関のような入り口部分と前室・中室・奥の玄室と四つの部分が連なっている形になっている。
横から見るとこう。


中は薄暗く壁の石材と石材の隙間からわずかに洩れてくる自然光でどうにか見えているといった感じ。


一番奥の玄室に入るのは一瞬勇気がいった。
だって中はほとんど真っ暗、遺体が安置されていたと思うと軽い気持ちで入るわけにはいかないでしょ?


一言。
「失礼しまーす!入りまーす!」
ちょっと怖い気持ちを吹き飛ばすつもりで大きな声をかけた。

狭めの入り口をくぐって入ってみると、奥の玄室が一番天井が高く広い。
素人目で見て石材は荒川で運ばれて来た秩父産の緑泥片岩と安山岩の2種類は判別出来た。
(最近私の中でちょっとした緑泥片岩ブームが来ているのですがwこの話はまた今度(笑))
緑泥片岩は主に天井や扉部分などに使用され、どれも巨大でいくら荒川で運んで来たとは言っても、この場所まで運んでくるのは実際には相当に大変なことだったと思う。
秩父・長瀞の淵を彷彿とさせる明るめの緑色は、暗い石室の中でも美しい。
しかも入り口の上部にこのように積み重ねてある構造。


それを支える壁の石材は不明。
不揃いのモザイク状に組み合わされ、石材の切り口はとてもシャープなのに経年の影響か一つ一つの石材の間には隙間が出来ていてそこからわずかに外光が洩れている。
大丈夫なんだろうか?
大きめの地震があったらあっという間に崩れてしまいそう。。。

(このシャープさ、もしや近年の修復時のもの?(疑))

石室の中には現在何もありませんが、昭和52年の修復工事の際に、中室の床石の下から夾紵棺(きょうちょかん)の破片が見つかり話題になりました。

夾紵棺とは
遺体を納める棺の中でも最高級の物で、粘土で型を作ったものに漆と布を交互に何度も塗り固めて作られる。
八幡山古墳では絹布を塗り固めたと確認されている。
全国にも奈良県を中心に数件しかなく、被葬者はいずれも身分の極めて高い人物ばかり。

はっきりとはわかっていませんが、この八幡山古墳は聖徳太子の舎人として活躍し武蔵国造だった物部連兄麻呂(もののべのむらじえまろ)の墓ではないかと言われているそうです。
本来八幡山古墳は周濠に囲まれた円墳だったのが、昭和9年に近くの沼を埋め立てるために土が剥ぎ取られ巨大な石槨だけが残されました。

お墓として考えると、本来土中で静かに眠りについているべきものがこのように無惨な姿をさらしているのは何とも気の毒としか言い様がありません。
でも、この石室が私たちの目に直接触れることによって果たしている役割もとても大きいものです。
さきたま古墳群で大小いくつもの古墳を見て来ましたが、本物の石室に実際に入れる場所は一つもありません。
八幡山古墳は哀しい偶然によってこのような姿になりましたが、今日ここに来た私の心に様々なことを強く語りかけてくれました。

さきたま古墳群を訪れる人は多いけれど、ここまで足を延ばす人はそう多くないよう。
もったいない!
こんなに立派な石室見ないで帰るナンテ!!